カーテン



 さて、そろそろ終幕の時が近づいて参りました。
 舞台の上からおひとり、またおひとりといなくなり、舞台装置もすっかり片付けられ、客席もすべて空になり……ついに私だけが残されてしまったようです。
 私がいる場所を照らしているライトも、そう遠からず消えるでしょう。
 寂しい?
 ほう、それはなかなか面白い質問です。
 まったくそうは思わない、と虚勢を張るつもりはありませんが、案外平気なものですよ。
 人はひとりで生まれ、ひとりで死にゆくものです。だからこそ、その定められた時間、限りある人生のなかで巡り会ったものたちが、尊く思えるのではないのでしょうか。
 ここに古い懐中時計があります。露天で売られている玩具のようなもので、経年のためケースがひどく劣化していて、部品も同じような有様。修理をしたとしても、もう動くことはないでしょう。
 こちらは、かつて存在した店に持ち込まれた品です。ジェーン・ドゥの名を冠したその店は、ずいぶん昔になくなりました。その店の主人は非常に変わった経歴の持ち主でしたが、今さらそれを繰り返す必要もありますまい。
 私が彼の店を訪れたとき、ちょうどこの時計が持ち込まれたのです。
 彼は掌の上にある文字盤を眺めながら、いかにも楽しそうに言いました。
「時を遡ることができる時計、ね。実に興味深いじゃないか? 君も私も到達できなかった領域に、この時計は容易くアクセスできる」
「ええ。しかし正確に言えば、あなたも私も到達できませんでしたが、彼女たちはその世界を知っていました」
 目を細めると、紫色の瞳が子どものように輝きました。かつてその色をすみれのようだと形容していたのは、誰だったか。
「確かにそうだ」
 彼は喉の奥で笑い、それからじっと手元を見つめました。私は、自分が彼の深く沈みゆく意識から弾かれたことに気づきましたが、特に何の感慨も抱くことなく冷めた茶を口に含みました。
 共通の話題がみつかったとき、普通でしたら思い出を語り合うという流れになったかもしれませんが、あいにく、私たちは昔話をして楽しむ間柄ではなかったもので。
 店を訪れた客に提供されるという、丁寧にドリップされた薫り高いコーヒーではなく、彼が入れてくれたのは、複雑で芳醇な味わいを持つ珍しい茶でした。彼と私の間にあるものは、それで十分だったのです。
「不運に過ち、一瞬の逡巡……それらが引き起こした悲劇は星の数ほどもあるだろう。たとえば、君は」
 独白じみた呟きを向けられ、私はティーカップを置きました。
「時を戻して、何かをやり直したいと思った経験があるかい?」
「ありませんね」
 即座に返答すると、先ほどみせた冷笑とは打って変わって、彼は声を上げて笑いました。
「はっきり言うね。まあ、君らしいが」
「あなたもそうかと思っておりましたが」
「己がしてきた選択について、君ほどの自信はないな」
「お言葉ですが、自信などありませんよ」
 ただ、と私は再びティーカップを持ち上げて、続けました。冷めても味の良いその茶は、答えのない議論に束の間の潤いを与えてくれました。
「自らのなすことに責任を持ち、主体的に生きる人生には喜びがあるでしょう。しかし同時に、人はまた、過ちを犯す権利を持つものだと私は思っています。自由とは、そういったものではないかと」
「……なるほどね」
 街の裏通りを通り抜けてきた風が、木製の窓枠を鈍く軋ませました。
 しばらくの沈黙のあと、ことりと乾いた固い音がして、件の懐中時計がテーブルの上に置かれました。
「よければ、君に預かっていて貰いたい。私は……これを見ると、つまらない夢に追いすがってしまいそうになるのでね」
 彼は肩をすくめました。
「愚かだと思うだろう。ただの玩具に」
「いえ」
 そのとき私は、口を開きかけたことを覚えています。先を何と続けるつもりだったのでしょうか。
 そんなことはない。
 実に興味深い。
 あの方ならば、そうは思われないはず。
 それとも――うらやましい?
 今ではもう、思い出すことはできませんが。
 おっと、お喋りが過ぎたようです。沈黙と孤独は人を饒舌にするとかしないとか。ま、あと少しですので、よろしければこのままお付き合いください。
 ほどなくすべての灯りが落ちて完全な闇と静寂がやってくるでしょうが、私はそれを楽しみにしているのですよ。意外と。
 その時が来たら、止まっている懐中時計の針も再び動きはじめるのかもしれません。
 時の流れを自在に操ることができるのは、今も昔も宇宙の女王その人だけです。
 しかし、彼から託されたあと、この時計にも時にまつわる不思議な力が隠されていたことに気づいたのです。
 時計の蓋を開けると、過ぎ去った記憶が、彼方に消えてしまった思い出が、懐かしい人々の面影が蘇って――おや、そんなことをお話しているうちに、針が動きはじめたようですね。ひしゃげた短針と長針が左回りでゆっくりと回転していく様子は、老人が誇り高く顔を上げて歩んでゆく姿にも思えます。
 いよいよ時が満ちました。これで私もようやく退場が許される、と。やれやれ、といったところでしょうか。サクリアのない私が最後まで残るなど、何とも滑稽な話ではありませんか。
 最後の最後に、僭越ながらひとつお願いがあります。緞帳が下がり、閉幕を告げるベルが鳴る前に、ぜひあちらをご覧ください。闇に目を凝らして、静かに呼吸を落ち着かせて。
 客席で手を振っている「彼ら」の姿が見えませんか。賑やかすぎるほどの笑い声がしませんか。
 耳を澄ましていれば、やがて割れんばかりの拍手が聞こえるはずです。
 あれは、力の限り生きた者たちの鼓動の音です。
 令梟の宇宙は滅びました。
 女王はその座を降り、サクリアは失われ、多くの命が深い眠りにつきました。
 ここまで彼らの涙を、絶望を、苦しみを、後悔を、喪失を、熱い血が流れ続けた傷口を、そして祈りを見守ってきたあなたに私は尋ねたい。
 彼らの人生は――悲劇だったのでしょうか?





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