あしあと



「そう、か」

 夜更けのような、朝焼けのような、そんな紫の瞳をすいと細めて、ロレンツォ様は頷いた。

「君がそれを選ぶなら、私が反対する理由はないしね」

 そう言ってから一度だけ薄く唇を開いて、閉じる。言いかけた言葉があったのかもしれないが、それはその時の俺の耳に届くことはなく、きっとこの先も一生訪れないだろうと思った。それを、良かった、って思ってしまったことも、一生内緒だ。

「はい、ありがとうございます。ロレンツォ様」

 そう言って頭を下げた。顔を上げたとき、尊敬する地の守護聖様はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
 きっと、ユエ様でもフェリクス様でも同じ事を言ってくださったと思う。そんな中で彼に一番に報告したのは、憧れもあってだ。
 そして、否定しないと信じていたから。
 どんな道を選んでも。どんな生き方を選んでも。どんな――死に方を選んでも。
 人が導き出した選択を、否定しないでくれるであろう人に、最初に報告したかった。
 アンジュが、令梟の宇宙の行き末を決めたとき、きっと、彼もその場にいたのだろう。そしてきっと、否定しなかった。その人に、自分の行き先も、聞いて欲しかったのだ。
 それは少しだけ、狡さもあるんだろう。俺は自分のそういう狡さだって理解している。
 理解している。

 だから、親友は、後回しになってしまったけれど。


 *


「俺は、リモージュ陛下のご加護を受けたいと思います」

 守護聖全員が集まっての場で俺がそう告げたとき、皆様それぞれ別の表情を浮かべていた。ぐっと眉根に皺が寄ったシュリ様。困ったような顔をしたノア様。驚いたように目を見開いたフェリクス様と、少し面白そうなものを見るように口元を緩めたミラン様。ヴァージル様はいつも通りで、先に知っていたロレンツォ様も同じ。ユエ様は強いまなざしで、俺を見て、それから、「いいんだな?」と、確認した。「はい」と俺が頷いたら、ユエ様は三秒だけ目を閉じて、それからまっすぐに俺を見て頷いた。

「分かった」

 静かな声にほっと短く息が漏れた。いつのまにか、息を詰めちゃっていたらしい。

「……なん、で」

 掠れた声にちいさく苦笑が漏れた。だって、こうなることは分かっていたし、分かっていたから、今日まで言わなかったんだ。
 ずっと避けていた視線を、親友に合わせる。
 カナタの引きつった顔に微笑みを返した。

「ごめんね、カナタ」
「……ッ、そういう、こと、じゃない! なんでって……!」
「俺には俺の理由がある」

 叫びかけたカナタの声に被さるように、少しだけ声を張って言い切った。
 カナタの瞳が揺らぐのを見てから、噛んで含めるように、もう一度ゆっくりと、言う。

「理由が、あるんだよ。カナタ」
「……全然、分かんない。だって、みんなは」

 みんなは、そうだ。他の守護聖はアンジュの庇護下のまま、生きると言った。
 俺だけだ。令梟の宇宙から離れて、神鳥の庇護下に入ることと選んだのは、俺だけ。
 最初はいいだろう。アンジュのサクリアがあるうちは、みんなのサクリアがあるうちは。でもきっと、それだって神鳥の――リモージュ陛下のサクリアの元だと、きっと些細な年月だ。
 俺は、いつか、みんなと違う時間を生きていくことになる。
 カナタとだって、そうだ。

「みんなはみんな、だから。俺じゃない」

 口を突いて出た音は、自分でも思ったより平坦で、あ、ちょっと不味いかもって思った。こういう声が出ちゃうとき、逆に上手く感情がセーブ出来ない時だ。

「だから、それが分かんないって言ってんだよ! ゼノ!」
「――カナタは」

 ああ、だめだ。本当はこんなこと、言いたくないのにな。

「人の考えを、自分の価値観の中で測りがちじゃない? そういうとこ、子供っぽいなってずっと思ってる」
「ゼノ」

 静かな声はユエ様だった。そこで、ああ、またやっちゃった、って思う。
 いいかげん子供じゃないのに。俺も、カナタも。いつまでたっても、こういうの、なくならない。
 カナタはあからさまに傷ついた顔をしていて、でも、言われるだけじゃなかった。そういうところが、カナタが愛されてきたところなんだろうな、って、思う。思うけど、こういうときは、ちょっと、しんどいな、とも、思った。

「――オレはゼノの、そうやって他の人はどうせ分かんないから、って、最初から説明を諦めるところ、ずっとどうかと思ってるから」
「……カナタ」

 名前を呼んで肩に手を掛けたシュリ様を振り払って、カナタは応接間を出て行く。

「シュリ」

 ヴァージル様がただ呼びかける。何をしろ、と言うわけでもなかったけれど、シュリ様は短く舌打ちして、カナタを追いかけるように出て行った。その姿を見送ってから、俺は全員に頭を下げて、その場をあとにした。

 ――アンジュはその場では、なにも、言わないでいてくれた。


 *


 聖地の夜風が好きだ。特にこの時間の公園は人もいなくて、でも手入れされた噴水の規則正しい水音が響いていて、気持ちが良い。
 やわらかい風と、穏やかなスオウの光。
 アンジュの抱いた星々が散らばる空。
 目を閉じて、長い髪をすり抜けていく風を感じる。そのひとときを堪能する。

「ゼノ」

 静かな優しい声に目を開けた。
 スオウに照らされた噴水のしぶき。その向こうに、彼女が立っていた。

「アンジュ」
「隣、いい?」

 うん、と頷いて、椅子がわりにしていた噴水の台をかるく拭う。アンジュは黙ってそこに腰を下ろした。
 アンジュは何も言ってこなかった。静かな時間がただ風とともに流れていく。
 しばらくしてから、そっと、声が聞こえた。

「髪、結ってないんだね」
「あ、うん。お風呂上がりだったから」
「そっか。そうしてるゼノ、いつもよりちょっと大人っぽく見えるね」
「本当?」

 なんだか照れくさくて思わず頬をかいてしまう。アンジュはそんな俺を見て、少しだけ笑い声をたてた。

「前言撤回しようかなぁ」
「え、な、なんで?」
「ふふ。なんでだろうねぇ」

 楽しそうに笑うアンジュの横顔が、夜に縁取られている。その光景が、景色が、世界が、好きだなって、思う。
 だから俺もちょっとだけ笑って、すうっと息を吸った。ひと息で、告げる。

「ごめんね、って、言えなくて、ごめんね」

 アンジュが目を瞬いて俺を見た。夜の中で、そこだけからりとした青空がちかちかと反射する。すぐにそれは笑みの形で崩れた。

「ゼノ、さすがにそれはちょっと、変」
「うん、俺も、言ってからちょっとそう思った」
「だよね」

 あははは、とアンジュが声を上げて笑う。俺もつられて笑っていた。ひとしきりふたりで笑って、笑って、それからはぁーとアンジュが大きく息を吐いた。

「うん。私も。ごめんって、言わない」

 そう言って、空に挑むようにアンジュは視線をあげた。その瞳が、宇宙を抱いている。力強くて、美しい、俺たちの女王陛下。最期を決めた、俺たちの女王陛下。
 その細い手が、膝に置かれたまま強く握られていて微かに震えているのは、見ないふりをした。その手を握るのは、俺の役目じゃない。

「カナタとちゃんと仲直りしてね?」
「う……。はい……」
「ふふ。よろしくね、ゼノ」

 ――その、よろしく、に込められた意味が分からないほど、俺はもう子供じゃなかったし、俺たちはその意図を汲み取れない程度の関係でもなかった。

「うん。アンジュも、よろしくね」

 俺の言葉に、アンジュは静かに、うん、と頷いた。

 *


 俺は俺の故郷を救えなかった。
 俺は彼女の宇宙も、救えなかった。
 そんな俺に出来ることは何だろうって考えて、考えて、俺は俺の行く末を決めたんだ。
 ぜったいに、アンジュより先に死ねなかった。
 ぜったいに、アンジュより先にサクリアがつきちゃだめだった。
 俺の故郷が、カナタの、アンジュの故郷が、みんなの故郷があった宇宙を、最期まで。最後の最後まで、見届けること。それがきっと、俺の使命だから。俺の役割だから。
 それが出来る道を、選んだ。
 ただ、それだけだった。それだけで、俺はこの先の、気の遠くなるような幾千年を生きることを、決めたんだ。


 *


 アンジュの守ってきた聖地とここは、少しだけ匂いが違う。ここの――神鳥の聖地のほうが花の香りが強いのかな。そんなこと思うのは、俺だけかも知れないけれど。
 屋外の作業は嫌いじゃない。部屋に籠もるのも良いけど、物をどかさなくても部屋に辿り着けさえすれば眠れる場所がそのままあるから、楽だ。

「んー、こんなもんか、な」

 ふうと息を吐いて、顔を上げた。風が汗を拭うように吹き抜けていく。
 手元には小型のドローンがたくさんある。元は持たなくていい日傘だったもの。それをさらに小型にして、連携して自律制御するようにした。光学迷彩も取り入れてあるから、外からは見えないようにだって出来る――まぁ、ぶつかれば分かっちゃうけど。
 この小型ドローンが遮るのは陽射しじゃない。サクリアそのものだ。今度、ヴァージル様が赴かれる先で必要となるもの。
 偏った俺たちの――令梟のサクリアが、雨のように粒子になって降り注ぐという場所。
 一過性のものだと思います、とは、言われた。タイラーから。きっとすぐに神鳥の力が行き渡って、落ち着くんだろう。そんなことはみんな分かっていて、俺たちは無力だとも知っていて、それでも、俺たちは動く。アンジュの慈しんだ宇宙を担う一端として、最後までありたいから。
 それはそれとして、実験らしい実験が出来ないまま持って行かれることになりそうで少し困る。まあ、実験する場所と環境がないんだけれど。

「うーん、どうしようかな……」

 あってもなくてもいい、のは事実。作動しなくてもヴァージル様はそんなもんでしょう、て言っちゃいそうだし、これは俺が勝手にやっていることでしかなくて、でもだからこそ、ちゃんと作動して欲しいんだよなぁ。

「よう」

 声とともに手元が陰り、俺は顔を上げた。

「ゼフェル様」
「また何か作ってんのか?」
「はい。ええと……」

 事情を説明して俺が笑うと、ゼフェル様はきゅっと眉根を寄せた。いつだって感情と表情が繋がっているな、と思う。俺とは違うな、とも。

「――んで、それどうやってテストすんだよ」
「そこなんですよね。どうしようかなって……。ロレンツォ様に相談しようかと考えてはいるんですけれど」

 ためらっている理由はひとつ。ロレンツォ様はついこの間までここに――神鳥の聖地にいたからだ。それも結構、長い間。
 ……アンジュからしたら、もっと、長い時間になると思う。せっかくアンジュの元へ帰ったばかりのロレンツォ様にまた呼び出すのは忍びないし、タイラーやサイラスに相談すると事が大きくなりそうだし。

「……聞けばいいだろ、うちのに」

 ん、とゼフェル様が親指で示した先を考えて、俺はぱちりと目を瞬いた。
 ああ。そうだ。その手があったんだ。

「そう……ですね」

 気づいてはいたはずなのにそこに考えが至らなかった。ただ単純に、俺たちのことは俺たちで、という意識が強すぎたんだろう。
 アンジュが閉じた宇宙のことは、アンジュの守護聖である俺たちがやるべきことで、神鳥の方々を巻き込めない。その考えがどうしても根っこにあるんだ。
 それをやめろって、何度も言われているのに。
 そっと、俺は自分の手を見下ろす。リモージュ陛下のご加護が宿った、その身を確認する。
 俺はもう、みんなと生きる時間は違う。
 アンジュが宇宙を閉じると決めた後、俺たちは人の身でありながらサクリアが尽きるまで死ねないことが決まった。俺たちのサクリアはゆっくりとこの神鳥の宇宙に溶けていく。それでも、その溶けきるまでは、俺たちはただの市井の人の身ではいられない。
 その上で、俺は。

「じゃあ、伺いますね。ルヴァ様のところへ」

 ――その身にさらに、リモージュ陛下のご加護を受けて、みんなより長い、永い時を生きることを、決めたんだ。


 *


 それでも思っていたよりずっと早く、日は過ぎていく。
 案外、悪くない日々だった。
 まぁ……、時々、よく分からない噂は、されているけれど。

「アンドロイドって聞いたけど」

 ……それはさすがにちょっと、おもしろすぎない?
 俺が王立研究院に顔を出したとき、ちょうど俺の噂話をしていたらしい囁き声が耳に入った。話していた人は、慌てたように散って行っちゃったけど。

「ゼノ様」
「こんにちは、タイラー」

 奥から顔を出したタイラーに挨拶をして、俺はちょっとだけ言葉を呑んだ。
 タイラー、少し顔が疲れている。目の下の隈が濃い。

「すみません、ゼノ様。ああいうのは言ってはいるんですけど」
「あ、いいよいいよ、全然。気になるのは分かるしね」

 先代とか先々代とかの噂から変わらない姿でいたら、それはまぁ、色んな噂も立つだろう。俺がどういう立場かなんて、直接言い回っているわけでもないし。

「ええと、さっきはアンドロイドって言ってたよ。この間はクローンだったっけ」
「……すいません……」
「あはは、他にはあった?」
「……幽霊……とか」
「ユエ様が嫌がりそう」

 ふはっと思わず声が漏れた。まぁ、変わらない気もするけれど。俺たちは結局、令梟の宇宙の幽霊みたいなものかもしれないし。

「あ、ごめん、タイラー。これ」

 言いながら俺は、頼まれていたものを取り出して手渡す。
 赤いリボン型の小型機械。

「ありがとうございます。いろいろ依頼して申し訳ありません」
「ううん、これもカナタとシュリ様のところでしょう?」
「はい、ええと」

 俺からそれを受け取って、タイラーが言い淀む。あ、そっか。頼まれていたのは二つあった。

「自動記録のはもう少し待って。要約と同時に報告もしちゃえるようにしてるんだ。それは変声機のほう」
「変声機……」

 赤いリボンを持ったまま、タイラーの目が眼鏡の奥ですうっと細まった。

「あ、ごめん。この間アンジュと話したら、変声機といえばバースではその形だったって……聞いたんだけど……」
「……いやあってます、あってます、けど。……あいつ……」

 タイラーが喉の奥で呻く。
 そのまま、はぁ、とため息を吐いて、タイラーは口の端だけ持ち上げてちいさく笑った。

「確かにお預かりしました。カナタ様の元へお届けします」
「うん、ごめんね、頼んじゃって」

 タイラーの眉毛が少しだけ下がって、困ったような顔になる。

「あっ、ちがうよ! 喧嘩してない! ただスケジュールが合わないだけ!」
「それなら良かったです」

 タイラーが笑う。――この生き方を選んだ時もそうだし、聖地でも飛空都市でも、それからもう何年と経った今でも、俺とカナタは時々喧嘩をしちゃう。喧嘩出来るくらいまっすぐと言葉を交わせるの相手がいるのは良いことだよ、って、オリヴィエ様には言われたけれど、まぁ、そのたびにみんながやきもきしてるのは、分かってる。申し訳ないな、とも思っている。
 でも、うん、それくらいは、いいんじゃないかな。そんなふうにちょっとだけみんなの好意に甘えている。
 毎日毎日顔を合わせて、あの宇宙を守ってきた仲間。
 今は別の道を選んで生きている俺たち。
 その細いつながりに甘えている。

「――みんなは元気そう?」
「ええ。ミラン様はまた別の惑星でデビューされました」
「あはは、さすが」

 目を細めるタイラーを見て、あ、と思った。目じりに少し、皺が増えた。なんて、失礼なことを思いながら。

「ゼノ様」
「うん?」
「……もうすぐ、俺たちがあそこで暮らした日数より、こちらに来てからの方が長くなります」

 その言葉に、どう答えるのが正解だったんだろう。
 一瞬で脳裏を色んな思いが駆け抜けていく。でも、上手く言えなくて、俺はただ「そっか」と笑ったんだ。


 *


 みんなからの依頼を受けて、好きなことをして、あちこちに顔を出して。時々みんなとごはんに行ったり、遊びに行ったりする。
 最初はあった、令梟の宇宙とこっちの違和感が、やがって時間という波に呑まれて溶けていく。
 そんな中、俺は初めて、仲間の死を知った。

 フェリクス様だった。


 *


 タイラーからの報告を受けて、家に帰って、ベッドに身を投げて、じっと天井を見上げる。
 明かりが眩しくて腕で顔を覆った。細い息を零す。

「もっと、悲しいかなと思ってたんだけどな」

 悲しくないわけじゃない。でも、思ったより心は凪いでいた。
 あの日みたいに――スピネルの死を目の前で見たあの日みたいに、俺は叫ぶんじゃないかな、泣いちゃうかもな、なんて、少し思っていたんだけれど、当たり前のようにそんなことはなくて、俺の視界はスピネルみたいに乾いたままだ。
 案外悪くない死に方だな、なんて思うほどで、俺は俺の思考にちょっとだけ嫌気がさす。
 だけど、寂しさはある。そうしょっちゅう会っていたわけじゃないし最後に会ったのはいつだったかな、とそんな風に考えることが寂しい。そういうのが、寂しい。もう会えないというのが当たり前にそこにあったのに、俺はまた、誰かが生きている毎日をただ浪費したのか、という後悔もある。
 そう思った次の瞬間、俺は起き上がっていた。放り出していたジャケットを手にとる。
 突然訪ねた俺にサイラスは何も言わず、ただあの細い眉をピクリと動かした。そうして、星の小路を開いてくれた。
 シュリ様は俺を見て少しだけ寂しそうに笑って、俺を奥の部屋へと案内してくれた。
 カナタは、泣いていた。

 泣いていることがほんの少し、羨ましかった。


 *


 近況とか、思い出とか、他愛ない話を重ねる。シュリ様が持ってきてくれた遠い地方のお酒を少しだけ口にした。どういういきさつのものかまでは教えてくれなかったけれど、それでいい気がして、俺もカナタも特に聞かなかった。まぁ、たぶん、寒い地方のそれだ。だって舌が痺れそうなほど、アルコールが強かったから。
 ほんの少しの愚痴と、悪態と、たっぷりの優しさでもって、カナタはフェリクス様を語る。シュリ様はそれを面白そうに見ていて、時々口を挟んで軽く笑う。
 終わらないおしゃべりの夜。
 その日、カナタの探偵事務所は盛況だった。たぶん、みんな知ったんだろう。そうしてたぶん、カナタを心配したんだ。みんななんだかんだ、カナタに甘いから。
 ロレンツォ様とアンジュが来て、シュリ様と言い合いになって――この人たちもいつまでこれやるんだろうな、とは思う――帰って行って、そしたら今度はヴァージル様が顔を出した。カナタを頼みます、なんてシュリ様に言ったものだから、カナタからもシュリ様からも「保護者じゃない」って言われてたけど。……でもまぁ、俺はそこに関しては、ヴァージル様の意見と同じだ。今のシュリ様はほとんどカナタの保護者だと思っている。言わないけど。

「そうだ、ゼノ。また時間があるときで構わないが、時計の調整を頼んでいいか」

 ふと、シュリ様が言い出して俺は頷く。シュリ様の持っている時計は、時折手入れさせて貰っている。

「時計の調整?」

 ヴァージル様がシュリ様を見やる。

「時々頼んでいる。こういうものはゼノが得意だ」
「まぁ、それはそうでしょうけど。……そうか、ゼノに頼むのもありか」

 ヴァージル様が考えるように口を手で覆う。
 なんだろう。カナタと目を合わせて、俺は軽く首を傾げた。

「ヴァージル様、何かありましたか?」
「いえ、ええ、少し。……ずいぶん前に、ゼノが作ってくれた日傘、ありましたよね」
「持たないやつ?」

 カナタが聞くと「ええ」とヴァージル様が頷いた。

「あれを一機、置いてきた場所があって。メンテナンス、を頼めば、それ自体長持ちしたりするもんですか?」
「え? ええ、それはもちろん……」

 過度なサクリアの暴露を防ぐ機能もつけたあれだ。あれ自体はそう長持ちする物でもないけれど、メンテナンスすれば少しは寿命だって延びる。でも、それを置いてきたなんて初耳だった。

「では一度、頼んでもいいですか? 辺境の惑星ではあるんですが――」


 *


「別にカナタも一緒に来なくても大丈夫だったのに」
「だって気になるじゃん。うー、寒い」

 ぶるっと体を震わせて、カナタはジャケットの前を握りしめる。

 そこは、冬の惑星だった。もっと正確に言うなら、死んだ惑星かもしれない。命の気配はもうなくて、真っ暗な空からただしんしんと雪が降り続けている。古い建物がいくつか並ぶコロニーは、少し前まで王立派遣軍が使っていて、放棄されたものだという。
 放棄の理由は、辺境の拠点が必要なくなったから、だったかな。捨て置かれた遺物は雪に埋もれている。
 ヴァージル様が持たない日傘を置いた場所は、そのコロニーの端も端。言われなきゃ気づかないような、小さな――小さな、お墓だった。
 ピカピカに磨かれた石碑。そこには文字が刻まれている。俺たちの知らない文字だった。その石碑の上にはいつか見た日傘がふわふわと浮いていて、その石碑だけは雪に埋もれていない。非現実的な光景を、俺とカナタは見つめて、いつのまにか詰めていた息を吐く。息は白く、空に溶けていった。
 その小さなお墓のいきさつは、俺もカナタも聞くつもりはなかった。どうしてヴァージル様がこれを置いたのかも分からない。俺たちは何もかもを話し合うような間柄ではないから。
 それでも、ヴァージル様が俺の機械を使ってくれたこと。俺にメンテナンスを頼んでくれたこと。その事実が、嬉しかった。

「じゃあ、メンテナンスするね。手伝って、カナタ」
「もちろん」

 帆を張り替えて、骨組みを確認して、バッテリーを新しくする。もちろん新しいものを置くのが早かったけれど、なんとなくヴァージル様の置いてくれたそれをそのまま使いたくて、俺はメンテナンスを選んだ。カナタも否定はしなかった。
 ふたりで作業して、ふたりで墓を拭き上げた。

「ゼノ、翻訳出来る?」
「うん。読む?」
「名前とかだったら、呼んであげたい気がする」

 カナタの感傷は正直少し強すぎる気もしたけれど、俺はカナタのそういう所嫌いじゃなくて、機械を通して翻訳することを選んだ。でも、そこには名前はなかった。ただ、墓にはひと言だけ、こう書かれていた。


 愛しい子。


 カナタは目を細めて、まるで幼子を撫でるように石碑を撫でた。
 ふと、俺の唇から音楽が零れ落ちた。


 いとしいこ――


 カナタが目をぱちぱちと瞬かせる。

「ゼノ?」
「……ごめん。思い出しちゃって」
「知らない歌だそれ。神鳥の歌?」
「ううん。俺の故郷……スピネルの歌」

 俺はあまりスピネルのことを話さない。だから、カナタはおどろいた顔をした。そういう顔をするときのカナタは、いつもより幼く見える。
 でも、その次の顔は、俺の知らないカナタの顔だった。慈しむような大人びた微笑。
 ああ、と、思った。
 俺たちだって、大人になったんだ。
 カナタはその大人びた顔で、そっか、と言って空を見上げた。
 俺たちはこれから、こういう別れをどれほど重ねていくのだろう。俺は最後の最後まで、それを見守ることになる。
 すっとカナタが腕を空に伸ばした。うーん、と伸びをする。

「ゼノ、もっかい聞きたい」
「えぇ……恥ずかしいよ……」
「いーじゃん」

 カナタに請われて、俺はもう一度歌を口にする。
 歌い終わると、カナタは目を閉じていた。そして目を閉じたまま、薄く唇を開いた。

「それさ」
「うん」
「オレが死んだら、こうしてもう一回歌ってよ」

 ――何も言えなかった。

 言うべき言葉なんて見つからなくてただ息を呑んだ。カナタを見つめる。指先が少しだけ、震えた。
 俺の見つめる先で目を開いたカナタは、少しだけ挑戦的に唇を持ち上げて、笑った。

「そういう覚悟、したんでしょ」
「……ずるい」
「あはは、ごめん」

 笑うカナタを軽く小突いて、俺は息を吐いた。心臓がバクバクしている。いつかそういう日が来ることを突きつけられて。

「あのさ、カナタ」
「うん」
「俺は、何も出来なかったんだ」

 スピネルの爆発をただ見届けた。アンジュの苦悩だって見てたけれど何も出来なかった。でも。

「でもさ、こうして、メンテナンスくらいは出来る」

 ふわふわと浮く日傘を少し撫でる。サクリアの暴露も、陽射しも、今は雪だって防いでいる小さな機械。

「最後まで……見守ることは、出来るんだよ」

 カナタは俺の言葉にもう一度微笑んで、それから、肩に積もりはじめた雪を払った。俺たちは傘を持たなかったから。

「ゼノってさ」
「うん」
「案外、不器用だよね」

 告げられた言葉はさすがに聞き捨てならなくて、俺は苦笑いしてしまう。

「……元、とはいえ、鋼の守護聖に、それ、言っちゃう?」
「ごめん。でも事実じゃん」

 優しさはどうしたんだよって言い返せばいいのかな、これ。なんてちょっと思った。

「なんてーかさ、生き方が不器用」
「生き方かぁ」

 まぁ、うん、そこに関しては器用ではない、かもしれない。
 困って笑う俺に、カナタは優しく笑っていた。

「でも、オレ、嫌いじゃないよ、ゼノのそういうところ」
「……カナタ」
「なんで、とは、たぶんずっと思うけどさ。でも、うん、嫌いじゃない」

 言い切られてむずがゆさを覚える。だけど嬉しかった。カナタがそう認めてくれたことが、俺の生き方を、選んだ道を、否定しないでいてくれたことが、嬉しかった。

「ありがとう、カナタ」

 雪が降る。
 持たない日傘の下に、誰かの愛しい子がいた証がある。

 俺たちは生きる時間を別にして、死んだあとの約束をした。
 遠い惑星の歌を、たったひとつの約束にした。


 *


 バイクのメンテナンスを頼まれていた。
 ――よく、晴れた日だった。


「おー。ピカピカじゃん」
「カナタ、わりと乗り方荒いよね」
「前もそれ言われた」
「もー」

 俺が送ったバイクを愛しそうに撫でて、カナタは笑う。古びたジャケットを着て。

「長旅?」
「ん、まあね」

 カナタが頷く。
 久しぶりに聖地にきたと思ったらバイクを預けてきて、そしてわりとすぐに引き取りに来た。せっかちだなぁと、少し思う。

「無茶しないでね、ほんとに」
「はーい。ゼノってわりと心配性だよね」
「うるさいな」

 保護者がもういないんだから、小言くらい誰かに言われた方が良いと思う、カナタは。
 俺の言外に気づいたのか、にっとカナタは歯を見せた。

「――メンテナンス、ありがと。じゃあね、ゼノ」
「うん。いってらっしゃい。またね」

 俺の言葉に、カナタは静かに笑った。
 笑ったけれど、でも、いつもなら返ってくる「またね」がなくて、それで俺は気がついた。

 ああ、そういうことか、って。

 俺たちは何も言わなかった。笑い合って、それから俺はポケットから小さな機械を取り出してカナタに放り投げた。

「あげる」
「っと。なにこれ。……あ」

 起動スイッチを押したカナタの手元で、それは形を変えた。ぱたぱたと傘が開いて浮き上がる。カナタの頭の上に。

「持たない日傘だ」
「そ」

 カナタは笑って、もう一度スイッチを押した。収納されたそれをポケットにねじ込む。

「ありがたく貰う!」
「ん」

 俺たちの、口にはしない大切な約束。持たない日傘に込められた、それを覚えているよ、の意図は、ちゃんと通じたらしい。
 だから、俺はカナタを正面から見つめた。

 大切な親友へ、ありったけの優しさを込めて。

「――いってらっしゃい、カナタ」
「いってきます、ゼノ」

 いとしいこ。
 喉の奥でその歌を押しつぶす。
 それを歌うのは、もう少し先であれば良いな、と思いながら。
 でもわりと、遠くなさそうだなと思いながら。


 そしてきっとそれを、俺は、俺の故郷があった宇宙を見送ったときに、もう一度、歌うんだ。

 ――いとしいこ、と。





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