そして幕が上がる
はいコレ、とミランが言って小瓶をカウンターに置いた。なんでもないようなその仕草とは裏腹に、コトリ、という音は店内に意味ありげに響いた。
「なにかな?」
モノクルを外して、ロレンツォは興味深げに小瓶を眺める。
「フェリクスだよ」
一瞬、間があった。ロレンツォはその一瞬で、ミランの言った意味を理解したらしい。あえて削ぎ落とした回答をしたミランに対して、聞き返すこともなく意図を汲んでくるのは、クサッテモ地ノ守護聖ッテコトカ、とミランは妙に納得した。
(腐ってるのは守護聖たち(ぼくら)? それとも僕だけ?)
「これは、君が持っていなくていいのかな?」
わざと、視線を合わせずにミランは答える。
「それってさぁ、結構人間っぽくない?」
ソンナコト聞クヨウニナルナンテ、ロレンツォモ人間ミタイ、アンジュト恋人ニナッタカラカナ?
言わなくていい言葉を内側に押し留めると、妙な沈黙が生まれてしまう。
「では、預かっておこう。早急にフェリクスの家には王立研究院から人員が派遣されるだろうけど、問題は?」
「ないよ」
ロレンツォの語尾に被せるように、ミランが答える。相変わらずミランは視線を合わせようとしない。それでもすぐに出て行く気はなさそうだとみて、ロレンツォは静かにコーヒーを淹れはじめる。やがて、コトリ、と置かれたカップとソーサー、そこから立ちのぼる香ばしさの中に嗅ぎ慣れない香りを感じとってミランは言った。
「これお酒入ってない?」
ロレンツォはやっと視線の合ったミランにうっすらと微笑みかける。
「眠れてないようだったからね」
「そう思ったんなら、ミルクとかにするんじゃないの? コーヒーにお酒って、寝かしたいのか起こしたいのか」
「君が、好きな方を選べばいい」
さっきよりも少し、苦く微笑みかけてくるロレンツォにミランはフードを深く被り直してカップを差し出した。
「思いっきり甘くして、ふわふわにしたミルクも入れてよ」
仰せのままに、と言ってロレンツォは泡立てたミルクをカップに注いだ。
「ミルク自体を甘くしておいたよ」
ロレンツォは何気なく、カチリ、と度数の高そうなお酒が少しだけ入ったグラスをミランのカップに接触させる。燻されたような香りがミランのところまで漂ってきた。そのグラスをひと息に呷ったロレンツォを見てミランは、あの日初めて知った「献杯」という言葉を思い浮かべた。
***
「けんぱい? 乾杯じゃなくて?」
オルゴールの工房にはもう聴き慣れたメロディーが流れている。そのオルゴールの音色に合わせてゆっくりと、陶器で作られた小さなミランが回っている。
「はい。この曲を作った友達はもう死んじゃってますけど、こんな風にミラン様に踊ってもらえたらきっと嬉しかったと思うから。それで……よければ、このオルゴールの完成記念に、ミラン様と献杯できたらな、と思ったんですけど、もしかしてお酒とかって」
「少しなら、だいじょうぶ」
そう言ってミランがにっこりと微笑むと、ハンスは「良かったぁ〜」という台詞とともに息をたっぷり吐いた。薄張りのグラスにおそらく醸造酒だろうと思われる薄い紫色の液体がそれぞれ少しずつ注がれていく。
「実は、俺もあんまり飲めないんです。だけどこのお酒だけはなんだか、飲んでも悪酔いしなくて、スルスル飲めちゃうっていうか、ミラン様のお口に合えばいいんですけど」
最初は無口だったハンスがここまで饒舌になるのはオルゴールの完成に興奮しているのかもしれない、そんなことを思いながら、ミランは注がれた酒を掲げて、グラスの中に揺れる薄紫色を窓から入ってくる柔らかな夕方に透かしてみる。
「知り合いの、髪の色に似てる」
へぇー!と言いながら、ハンスは自分のグラスに酒を注いでいる。
「こんな綺麗な髪のお知り合いがいるなんて、さすがミラン様ですね」
「知り合いっていうか、なんだろ……幼なじみ? 同僚? 腐れ縁?」
あはは、とハンスは笑う。
「きっと、お友達ってことですね」
その言葉に虚を突かれたミランに気づかないまま、ハンスは軽い祈りの言葉を唱えて、キン、とグラスを触れさせた。
「こういうとき、この星では――って言うんです。偶然なんですけど、この酒の名前はその言葉をもじって作られてて、ホラ」
ミランは、そっとその言葉を繰り返す。薄紫色の液体をハンスに見せるように掲げてからグラスを空けた。アルコールというより、花のような香りのするお酒だった。
「美味しい。味もいいけど、香りがいいね」
「この酒の香りが分かるようになったのも、ミラン様のおかげです」
ロレンツォから指令を受けて、この星に来たときのことを思い出す。
「ハンスがあの日、あそこにいてくれて良かった。こんなに早く仕事を終えられたのは、この曲があったおかげ」
「何度でも言わせてもらいますけど、あの日俺は、天使が来たんだって思ったんです。ミラン様が踊ってるのを見たら、なんでか分かんないけど涙が出て、そのうち、春の匂いもしはじめて」
「わーかったってば、ねぇ、もう一杯もらっちゃおうかな」
工房の中には、夜が滲みはじめていた。
***
その星に降り立って、ミランは事の重大さを肌で理解した。香りがないことが、景色の奥行きにここまで影響を及ぼすのだと実感する。宙港で行き交う人々の表情もどことなく所在なげだった。
ロレンツォからもらったサングラスをかけて辺りを見回してみる。サクリアの澱みを可視化できる代物だというのは本当で、煙のようにサクリアが漂っていることがよく分かった。
宙港から地上に降りる際、窓から地表をサングラス越しに観察してみると、澱みの中心と思われるエリアが見えた。窓のそばに備え付けてあるボタンを押すと、透明窓に見ているエリアの地名が浮かび上がる。澱みの中心があるのは首都らしかった。透明窓上に表示された街の名前をタップするとそこへの行き方と所要時間が表示される。見ていると、不意にフードを引っ張られた。振り向くと、赤ん坊が満面の笑みでこちらをみている。
「やだこの子ったら、すみません」
赤ん坊を抱えた母親が恐縮して頭を下げてくる。
「気にしないで。フードが気になるのかな、元気な証拠だね」
サングラスを外してそう声をかけても、母親はすみません、と謝るばかりだ。よく見ると、疲れた顔をしている。
「……コンポンテキカイケツにならないから、本当はダメなんだけど」
ミランはそう小さく呟いて、手を赤子の頭上で一閃させる。すると、あたりに香りが立ちこめた。
「あれ〜? この匂い……おむつ替えたほうがいいかもね」
母親はハッと我に返ったように我が子のお尻を匂う。
「やだ! 本当ですね」
すみません、ありがとうございました、と言って母親は走り出す。去っていく母親の後ろ姿に、ミランはしばらく目を眇め、そしてまた、サングラスをかけた。
澱みの中心に向かって歩いていくミランの足取りはステップでも踏むように軽い。それは大きな公園の中にあるらしかった。しばらく歩いていると、どこからかオルゴールのような音が聞こえる。サクリアの澱みが濃い方へと足を進めるごとに音も大きくなっていく。オルゴールの音が大きくなるにつれ、ミランは自分の体の中にうねりが生まれてくるのを感じた。
こういう曲は良い曲だとミランは知っている。
「ねぇ、そのオルゴールの曲、なんていう曲?」
サングラスを少しずらして、問いかける。
オルゴールを鳴らしていたのは青年だった。突然ミランに話しかけられてどぎまぎしている。
「これは、友達の作った曲で……」
「そっか。僕これからその曲に合わせて踊るから、君の時間が許すまでそれ、鳴らしといて」
パサリ、と着ていたパーカーを脱いで、ミランは少しストレッチをした後、曲に合わせて踊りはじめた。
その踊りを、ハンスはなんと形容すればいいのか分からなかった。メディアで観たことのある、どんな踊りとも違う。けれど、彼の手足が空間を撫でて、時に切り裂いて、時に睦むように絡み合う度、なぜだか懐かしくなって涙がこぼれる。
何がこんなにも懐かしいのだろう。そう思いながらハンスが何度目かの涙を拭ったとき、公園に、春の匂いが満ちていたことに気づいた。
公園の中で香りが感じられることに気づいた人々が騒ぎはじめたころ、オルゴールの音がやむとともに、ミランの踊りも終わりを迎えた。
あらゆるものの輪郭が夜に溶けつつあったが、ハンスにはミランが天使のように輝いて見えた。
「ふぅ〜……とりあえず、今日はこんなところかな。あっ、ねぇ君、そのオルゴールの原曲ってどこで聴ける? それから今日泊まれそうな宿と、ここらへんで一番大きな芸能事務所を教えてもらえると助かるんだけど」
天使が、話しかけてきている。
「ん? おーーい、きみきみ、君だよ〜!」
そこから、ハンスが最初の返事をするのに十分、今日泊まれそうな宿として近隣のホテルを紹介するのに二十分、一番大きな芸能事務所については調べてくるから、明日ここでまた待ち合わせるという約束を取りつける頃にはすっかり日が暮れていた。
「なんだかお腹空いちゃった。ねぇ、君がよく行く店まで連れて行ってよ」
こう頼まれるころには、ハンスもこの気ままな天使からものを頼まれることに慣れてきつつあったが、なめらかな受け答えは到底できなかったため、黙って近くの小さなバーレストランまで案内をした。
「天使様が何を召し上がるのか分かりませんが、俺の知っている中でここが一番美味い店です」
そう言って帰ろうとするハンスの袖を、ミランが引いて、「僕が奢るからさ、一緒に食べようよ。この店で何が美味しいか教えて」と言った。
天使と同席するなんて畏れ多い――ハンスはそう直感したが、なぜだか断れなかった。
「――だからね、俺はアイツに言ったんですよ。お前の曲はすごいから、もっと多くの人に聴かれるべきだって。そしたらアイツ、何て言ったと思います? お前が聴いてくれたらそれでいい、ですよ。ホントにふざけんじゃないよって話なんです」
ハンスは酔うといつもこの話をする。本人はお酒を「飲めない」と言っているけど、正確には「飲んだことを忘れている」のだ。
最初に出会った日、あのバーレストランで、ハンスは結局緊張して酒を飲み過ぎてしまった。結果、しっかり饒舌になって、この話をしてくれた。
ハンスとはこれまで合計三回ほど一緒に飲んだことがあるが、毎回必ずこの話をして、最後には眠ってしまう。外で飲んでいるときは後始末に難儀するものの、ミランはハンスからこの話を聴くのが嫌いではなかった。
とても素敵な作曲家で、妙なところが頑固で、無欲な友達の話。
ハンスはいつも死んでしまった彼に対して悪態をついているけれど、それはナントカの裏返しであることをミランは分かっていた。
「あげく、あんな早く逝ってしまって……バカだ。アイツは本当に……」
ここまで喋って眠ったのが一回目。
「でもね、俺は嬉しかったんです! ミラン様があの曲で踊ってくれて」
ここからひとしきりミランの踊りを褒めちぎってから、電池が切れたように突然眠ったのが二回目。
「ミラン様があの曲で踊ってくれて、メディアにもたくさん出てくれたおかげで、それで、よく分からないけどこの星に香りが戻って……アイツの曲をたくさん聴いてくれる人が増えて……俺は、ホントにあなたに感謝してもしきらない」
ここまで言って眠ったのが三回目だった。
今日はこの後どうなるかな、とミランがワクワクしながらハンスのグラスに酒を注ぎ足してやる。あ、すいません、ありがとうございます、とハンスは毎度律儀に言って、酒をぐいっと飲み干す。
「アイツに俺は、ずっと恋をしてたのかもしれません。なんていうか、アイツになりたかった、アイツのそばにいたかった。アイツの曲が、たくさん聴かれることでアイツ自身もアイツの曲も、もっと自由になれるんじゃないかって、そう思っていた」
ミランの頭に、ずいぶん遠い昔の恋がよぎった。ハンスの言う恋と自分が経験した恋は少し違うように感じたけれど、だからといってハンスにそれが間違いだなんて言えるはずもなく、かといって自分の感じ方が間違っているとも思わなかった。
「会いたいです。アイツに――」
そう言い残して、ハンスは眠りについた。
ミランは、机に突っ伏したハンスの背中にブランケットを掛けてやってから、ハンスが彼に夢の中で会えるように、ネジを回してオルゴールをかけた。
陶器で作られたミランが、オルゴールに合わせてゆっくりと回っている。
ずいぶん素敵に造形してくれたものだと感心する。風をはらんで膨らむ衣装、指先のひとつひとつまで。陶器という素材の性質上、まろみを帯びた輪郭を描いてはいるものの、ミランの踊りを一度でも見たことがある人なら、これがミランだとはっきり分かる。
このミランを象ったオルゴールは、ミランがこの星の映像メディアを席巻したことと、オルゴールをかけることで、香りが戻ってくるなどのまことしやかな噂がたったことでずいぶん売れた。ハンスの工房もずいぶん大きくなったが、それでも生産が追いつかず、今ではオルゴール製作の大部分は外部に委託している。だが、ミランに贈られたこのオルゴールだけは、ハンスがその製作の全てを手がけた一点物だった。その証として、ミランの瞳の部分には宝石が埋め込まれている。ごくごく小さな薄い緑色の石ではあるものの、聞くところによると一粒で家が買えるほどの値段であるらしい。
ハンスの友達には、身寄りがなかった。ミランが彼の曲で踊るにあたっての著作使用料の半分は、ハンスに支払われることになっていた。もう半分は彼の育った孤児院に寄付された。そうなるように生前の彼が設定していたらしい。
ミランが彼の曲で踊れば踊るほど、また、今後その曲がこの星の各地で聴かれるほど、ハンスにお金が入ってくる――そのことに対してもハンスは怒っていた。
急に分不相応なお金が入ってくることになったハンスはそのお金を全てつぎこんで、このオルゴールに埋め込むための宝石を買った。
「ハンス、僕は君もじゅうぶん頑固者だとおもうよ。結局さ、君たちはとっても――似たもの同士、ってことだよね」
ハンスに宛てた置き手紙の結びにそう書き添えるころ、オルゴールがそっと鳴り止んだ。
ミランは自分に贈られたそれを大事に包んで鞄に入れ、静かにこの星を発った。
この星の冬が終わる匂いがしていた。
***
久しぶりにフェリクスの家の扉を開けたんだ。連絡はしなかった。いつもしないから。いると思ったんだ。
アトリエの扉を開けたら、この砂みたいのがそこら中に落ちてて、フェリクスの服と……耳飾りもそこにあった。だから――ソウイウコトだってわかった。他に何を覚えてるかって? そうだな……たくさん風景が描かれた絵があったよ。僕のオルゴールもあった。ネジを回すと、僕が踊るやつ。でももうネジは回らなかった。それだけ時間が経ってたんだ。僕は――気づかなかった。
「僕の方が、先に死ぬと思ってた」
どうしてこんな話をロレンツォにしているのかミランは分からなかったが、ロレンツォは黙って聞いていた。
あの日のハンスが思い浮かぶ。もしかして自分は、酔っているのかもしれない。コーヒーに何か盛られたのかもしれないけど、そうなったって別に良いや。ミランは自暴自棄になっていた。ここで酔い潰れたところで、きっとロレンツォがなんとかするだろう。それよりもう眠ってしまいたいのに、眠れない。
「朝が来るのが、怖いんだ」
***
「どう、ですか?」
「ずいぶんいいよ。これでずっと夜の中にいられるんでしょ」
「まぁ……はい。そこは、いわゆる地下コロニーなので。自然光のボタンも探せばありますけど、そのボタンを押したところで人工照明なのは変わりません。今は足元の照明を歩けるギリギリまで落としてる状態です」
「ありがと、タイラー」
「念のため、身の回りの世話用のロボットもつけておきました。自分の意思に反して眠りすぎても、生命維持はできるはずです」
「逆に言うと自分の意思では死ねないってことだね」
「そこを出る時は是非、ミラン様自身の意思と足で出てきていただきたいですけど、それができなくてもデータは取り続けていますので」
「……きみも、歳をとったね。そういう態度のこと、老獪って言うんだよ」
「分不相応な出世をさせられたので……」
「眠気がきた。もう寝るよ」
「おやすみなさい、よい夢を」
ティロン、という音ともに通信が切れたのを確認してタイラーが呟く。
「スケールのデカい引きこもりだな……」
「タイラーもやってみますか?」
うわっ、という悲鳴をタイラーはすんでのところで飲み込んだ。いつの間にか背後に立っていたコンシェルジュ姿の人影を軽く睨みつけてから、こっそり深呼吸する。
「私は遠慮しておきます。気が狂いそうだ」
スッ、と執事から肩越しにサンプルケースが渡される。
「こちらが、フェリクス様です。解析にまわしていただけますか?」
「え……行ってきたんですか? 神鳥の特務が動いてるって聞きましたけど」
「現場保存のためのサイラスくんグッズは少々扱いが難しいもので」
人差し指を口に当てて、いつもの得体の知れない笑みを浮かべている。
「現場保存……? 令梟守護聖の死後、該当住居は痕跡消去対象では?」
「アンジュ様の特令です。ミラン様が死ぬまでは残しておくようにと」
「またあいつは……」
「おや、不敬ですよタイラー」
「処罰ですか?」
「いいえ、あなたの肩書きが一つ増えるだけです」
人はそれを昇進と言うのでは? そう思ったところでタイラーは考えるのをやめた。
***
あれからどれだけ寝たか、よく分からない。どれだけ眠っても夜なのはすごく安心した。
眠って眠って、眠るのにも飽きたころ、アンジュから手紙が届いた。それぞれの守護聖の近況なんかが書いてある手紙。
返事は書かなかった。
何度か王立研究院から派遣された人が検査に来て、その度に掃除をして、薬を置いていった。
薬なんか飲まないつもりだったけど、飲まないなら大量の食事をしなくちゃならないと世話用ロボットがうるさく言うからしぶしぶ飲んだ。
「ねぇハンス。早く終わりが来ないかな」
僕はいつからか世話用ロボットのことをハンスと呼んでいた。なんとなく懐かしい名前。誰かの名前だった気がする。
「先日の検査結果では、ミラン様のサクリア値に変動はありませんでした。あなたの死期は予測できません」
「その、こっちの希望は全部無視した物言い……誰かに似てるよ」
「あなたの言う『誰か』とは具体的に誰を指しますか? 必要があれば参考にします」
「いいよ。もう少し眠る」
雪の上を歩いている。それだけでなんだか少し億劫になる。
十分に眠ったから、眠りが浅い。変な夢を見るんだ。
――銀河中フラフラしちゃってさあ。ショーライのこと、ちゃんと考えてる?
うるさいなぁ。眠いんだってば。
――同じ場所に戻る気なんて無いだろ
あったよ、君の元に何回だって戻ってきたのに。君が僕の帰る場所を奪った。
――雪の上を歩くときは……
分かってるよ。でもさ、もう君の足跡はない……分かってるってば。
――服を脱ぎ捨てる癖、いい加減直せよ
その癖が、妹と君の前だけで見せる癖だったこと、君は知らないままだったね。
――早く靴を脱がないと凍傷になるよ
何でか分かんないけど、この靴は脱げないんだよ。足が痛いのに、どうしても脱げない。ねぇフェリクス、手伝ってよ。
――ミランはさ、大勢の人に囲まれて踊ってるのが良いよ
この痛んだ足じゃ踊れないよ。靴が脱げないんだ。
――要するに、僕は僕なりにここで楽しくやってるってこと。ミランからしたら、変化のない退屈な日常かもしれないけどね。だから遠慮しないでアイドルに戻って、いや、別に戻らなくてもいい。とにかく、ミランにも自由に――
「……勝手なこと言わないでよ!」
そう言って飛び起きて、それが夢だったと気づいた。息が荒い。暗闇の中で無意識に足を撫でてみる。どこも怪我してない。
僕が叫んだ声を異状と判断したハンスが、部屋の照明をつけてなめらかに近づいてくる。
「心拍上昇・脳波の乱れもあります」
水と薬を手渡そうとしてくるのを見て、体が無意識にそれを払いのけた。思ったより動きが大きかったようで、水の入ったコップは音を立てて遠くまで転がっていった。
(ロボット相手に、何やってるんだか)
感情を揺らした自分自身が億劫になって、立てた膝に、顔を埋める。
「……死んでも、うるさいんだから」
その独り言に文句を言うようなタイミングでハンスが音を立てる。
「あなたに、緊急で通信が届いています。応答しますか?」
通知されている相手の名前を見て、嫌な予感がした。今日はこれ以上何もしたくないのに。そう思ったけど、あまりにもハンスが放つ着信音がうるさくて「応答」、と言ってしまった。
ハンスが映し出したホログラム上に久しぶりに見る顔が浮かび上がった。
「久しぶりだね」
「嫌な夢を見た後に見る顔は、君じゃなくてアンジュがよかった」
「フフ……元気そうで何よりだ」
ロレンツォはいつも通りに見せているようで、どこかいつもと違っていた。不気味。
「タイラーでもなく、君がわざわざかけてくるなんて、どうせ良い知らせじゃないんでしょ」
そう口に出したのは自分なのに、そういうことか、と納得する。ホログラム上の彼は、その言葉を否定せずに少し目を伏せた。どう言おうか少し考え込んでいる顔――そうか、ロレンツォは優しいと不気味なんだ。
「いいよ、ロレンツォ。言って」
聞きたくない。でも、なぜだろう、聞かなきゃいけないって、心がそう言ってる。
「……ノアが、死んだよ」
***
「おう」
墓前に花を供えて立ち尽くしているミランの後ろから、明るい声がかかる。
「出てこれたんだな」
金髪が光を反射する。暗闇から出てきたばかりの目に優しくないな、とミランは思った。
「さすがにね……」
ユエは墓標を親しげに撫でる。生前、そんな風に触れられるのを嫌がった彼の姿が思い出された。
「お前が酒を持ってるなんて珍しいじゃねぇか。弔い酒、ってやつ?」
「あぁ……これ? うん、いつだったかな、誰かに教えてもらった気がするんだ。弔い酒……じゃなくてなんだったかな、ケンパイ?」
はーん、なるほど献杯。ユエはそう言って「せっかくだから良いグラス準備しとく。気が済んだら来いよ」と身を翻して、住居のほうに行ってしまった。
墓標の前でしゃがみ込んで語りかける。
「何も残さず逝っちゃったんだって? 君らしいよ」
少し肌寒い風が吹いて、供えた花びらのいくつかが風に遊ぶように舞っていった。
その行方を眺めていたミランは自分がどうやってここまできたのか、覚えていないことに気づく。
(帰り方はユエに聞けば良いか、そんなこと聞いたら呆れられそうだけど)
とくとくとくとく、と酒が注がれていく。
薄紫色の液体をみて、ユエとミランは二人同時に「あ、」と思った。
(そっか、こんな色だったっけ)
ミランは妙に遠い記憶に納得した。誰と飲んだか忘れたけど、たしかにこんな香りだった気がする。
「懐かしいな」
ユエがそう言った。
「俺が聖地……令梟に来たばかりの頃は、三人だった」
ここには二人しかいないけれど、ユエの言わんとするところをミランは汲み取っていた。
「ノアは、ずいぶん無茶したって聞いたよ」
ユエは「あぁ」と短く言って、酒を掲げた。ミランも同じようにして、グラスに口をつける。
「それが、あいつの望みだったからな」
ユエの表情は、寒季の前に色づく木の葉のようだとミランは思った。令梟にいた頃はこんな表情、見たことなかった。ずっと、新緑みたいにピカピカしていたから。
「そっか……」
ミランは、窓の奥にある夜を見つめる。星明かりの綺麗な夜だった。
「踊っていかねぇのか?」
ふいに、ユエがそう聞いた。
「踊り……そうか、踊り、なるほど」
「その発想はなかった、ってか?」
「そうだね……。ねぇ、ユエ」
そう言ってミランは靴を脱いで足を差し出した。
「僕のこの足、君にはどう見える?」
「どうって、前と変わらないように見えるぜ? 歩き方に問題もなかったように見えたが……怪我でもしてんのか?」
ううん、とミランは首を振った。
「足は動く。でも、足が動く、ってことと踊れるってことは違うんだ。僕にとっては」
分かるぜ、とユエが言った。ミランは少し意外そうに目を見開く。
「なんだその目。俺様だってダテに長い時間生きてねーからな」
あ、うんごめん、とミランは素直に謝った。
「書道と同じだ。手が動けばいいってもんじゃない……そういうことだろ」
こんな話がユエとできることに、感動する。そんなことを言ったらまた怒られるかもしれない。
「……そうだね。いつかまた、僕が踊れるようになったら、そのときはまた、ここに来るよ」
二人は微笑みあって、あと一杯だけ、酒を酌み交わす。
窓の外で流れ星が一筋、長い尾を引いて流れていった。
「ねぇユエ」
「なんだ?」
「聞きたいことがあるんだけど」
「別れ際になんだ? そんなもったいぶらなくても今までいくらでも聞くタイミングあっただろ。だいたいお前帰り方が分からないってどうやってここまで――」
「うるさい」
そう言うと、ユエはミランにほろ苦く微笑んだ。なぜだろう、と思うのと、ノアの口癖を思い出したのが同時だった。
「ちょっと、懐かしくなっちまった――で、なんだって?」
「……フェリクスのお墓ってどこにあるの?」
ユエは最大級に呆れた声を出した。
「っ、お前……まぁ、仕方ねぇか」
そう言ってユエは今度はしっかりとミランを見据える。
(懐かしい。首座だったときの目だ)
「それを確かめたきゃ、お前が最後にフェリクスを見た場所に行け」
「でも、『令梟守護聖の死後、該当住居は痕跡消去対象』でしょ? それに、あれから僕がどれくらい引きこもってたと」
「いーいーかーら! 行ってみろ。それで、その目でちゃんと見てこい」
ばん、とユエがミランの背中を叩く。
「アンジュが、ちゃんとしてくれてっから」
驚きで何も言えないままでいるミランを船に押し込んで、ボタンを押す。
「スオウから出られたならお前はもう、大丈夫だ。心配すんな」
そう言ってユエは手を掲げる。
ミランはどういうこと、という言葉が喉に詰まったまま、閉められた扉の向こうをジッと見つめていた。
***
そうそう。あの施設は通称スオウと呼ばれていてね。ユエが育ったところの技術や文化が継承されている……なぜ言わなかったかって? 君なら分かるだろう。そう。まさしく「聞かれなかったから」だ。フェリクスの住まいにしてもそうだよ。君の心の準備ができたら伝えるように言われていた。タイラーも同じことを頼まれていたはずだけど、私も彼も君の心の準備ができたかどうかの判断はしかねるところだったからね。その辺りの判断ができるのは、さすが元首座、といったところかな。あぁ大丈夫。サイラスがちゃんと現場保存の処置をしたそうだから、君が最後にあの家に行ったときの状況とほとんど変わっていないよ。さすがに少しフェリクスのサンプルは取ったらしいがね。――ミラン、きみ、怒っている?
***
はぁ、はぁ、と息遣いが荒くなる。何十年も引きこもっていたせいですっかり体力が落ちてしまっていることを、ミランは自覚した。
この星はいつ来ても雪深い星だったはずだが、今はちょうど「ごく短い夏季」が戻ってきているらしい。ごく短い夏季といっても、暑いわけではない。むしろ心地よい風が吹く程度で、雪もなく、歩きやすい。それでもミランの息は乱れた。
(歪みが……解けたんだ)
凍傷になるような雪や気温が、懐かしくも思える。
(知らない星みたい)
初めて見た夏季のせいで、すっかり植生は違って見える。
それでもミランは、自分の前を歩く雪の音や、自分を少し気遣いながら歩くそのリズムを思い出せる。自分が歩くべき方向も。
(君はもう、いないのに)
見慣れたようで見慣れない、雪が降り積もっていない屋根が徐々に見えてくる。スノードームのようなアトリエも。
それらの建物に近づく度、ミランは胸が詰まるような心地がした。
(あ。もしかしてキンチョー、ってこういう感覚なのかも)
門の扉に手をかけたとき、ミランはそう思った。
深呼吸をする。ダンスをはじめる前のように。
僕の生体情報を認識して音もなく開いた門扉。家主がいないのに鍵をかける意味はあるのだろうか。
庭には控えめに下草が生えていたけど、生い茂る、というほどでもなかった。誰かが手入れをしてくれたのか、それとも短すぎる夏季ゆえにそうなるのか、僕には分からない。サァという風の音。この星では聞き慣れない音だった。その風と音を見送るようにして、扉を閉める。
エントランスは、あの日のような埃っぽさを感じた。
僕の部屋、キッチン、浴室、暖炉の部屋、フェリクスの寝室。
順番に窓を開けていった。「行くならついでに空気の入れ換えをお願い」とアンジュに頼まれたから。
ただでさえ物の少ない家が、家主を失っていっそう寂しげに見えるけど、それは僕の気持ちがそう感じさせているのかもしれない。暖炉の前の、フェリクスがよく座っていたソファを撫でてみる。彼はよく、このソファでうたた寝をしていた。今考えてみると、暖炉の前でするうたた寝が好きだったのかもしれない。
「だとしたら――」
その独り言が思いの外響いたことに静かに驚く。この家はこんなに広かっただろうか。
「ちょっと、意外かも」
アトリエの扉は密閉性が高くて、他のどの扉よりも開けるのに苦労する。
体力が弱っているから、記憶よりも、より力を込めて開けなくてはいけなかった。
ようやくできた隙間から身を滑り込ませて、目をぎゅっと閉じる。
(君の、匂いがする)
他の、どの部屋よりも濃く感じるそれを、少しずつ肺に入れるように息をする。
そうして、観賞魚を水槽の水に慣らしていくように、少しずつ、アトリエの空気に自分を溶け込ませる。それはどうしたって、必要なことだった。
だって、目を開けたら、砂粒が散らばっていて、それは全部フェリクスで……目を開けられそうにない。
怖い。
お化けでいいから、出てきてよ。
うるさくていいから、呆れた声で、僕を叱ってよ。
涙が瞼の裏に湧き上がりかけた――そのとき。
ティン、トリロリン、ティン、トリロリン。
懐かしい音がして、僕は思わず目を開けた。アトリエの中には雲間から降り注ぐ光が差し込んで、そのうちの一筋が、オルゴールを照らしていた。
――ゼンマイを巻いてないのに、好き勝手踊りだしたんだよ
『人形になってもうるさい』って殴り書き。
――真っ白なキャンバスには、何を描いてもいいし、描かなくたっていい。自由なんだ
あの日そう言った君の声。
足が自然とオルゴールに近づく。アトリエの真ん中に置かれたキャンバスのそば。花瓶台のようでステージのような場所。
そこで僕が踊っている。
ここだよって教えてくれるように。
裸足に砂粒を感じる。
先を行く君の足跡を踏んで進んだ日のことを思い出す。
そして理解する。
(そうか、僕は――靴を脱ぎたくなかったんだ)
涙がこぼれ落ちる。
それも踏みながら歩く。
キャンバスの目の前に、薄紫色の砂粒の山があった。
「ごめんね、フェリクス。気づくのがずいぶん遅れちゃって」
キャンバスを手に取る。
――若葉みたいな色だろ? ミランらしい色だなと思って
「約束、守ってくれてたんだね」
*****
カタン、と筆の置く音を知覚して、ようやく絵が完成したことに気づく。初めて人間を描いたにしては、我ながら良い出来だと思った。
両の掌に収まるサイズのキャンバスにしたのは、君の小さな鞄にも入るように。大げさすぎるほど喜ぶ顔が、今から想像できる。
絵の中の彼の、腕の軌道を指でそっとなぞる。写実的に描きこみすぎなくても、流星緑の脳天気なほど明るい緑が彼らしさをよく表現してくれる。
「芽吹きたての命の色、か」
フッと笑って、キャンバスを置いたそのとき――人差し指の爪の先がなんだか変なことに気づく。見ると、自分の体が、少しずつ、さらさらと砂のように流れていっている。
怖いとか驚きより、納得が勝った。
あぁ、こんな風になるのか、と思った。
ふと、キャンバスの側に置いてあったオルゴールが目に留まる。
「最後くらい一緒に踊ろうか」
徐々に砂と化していく指で、ゆっくり、ゼンマイを回した。
ティン、トリロリン、ティン、トリロリン――。
君の見よう見まねで舞う度に、アトリエに砂が舞う。
(これは掃除がめんどくさそうだ)
この絵を見た君の顔が見られないことは少しだけ残念。だけど、後悔はない。
雪の上で君が見せてくれたターンを思い出す。また少し、砂が舞う。
力が上手く入らなかったせいで少ししか回せなかったオルゴールがやがて止まる。
砂が入ったせいで壊れたのかもしれない。
ゆっくりと歩いて、もう一度、キャンバスに近づく。
「ああ、やっぱり君は、美しいね」
君を抱き締めたかったけど、間に合わなかった。
*****
どれくらい、そうしていただろう。
足下の砂が雨の後みたいに、涙でしっとりしていたから、ずいぶん泣いていたのだろう。
フェリクスと、僕の涙が混ざって薄紫色の絵の具のようになっている。
そこを何気なく指ですくい取ってみた。
「うん、やっぱり君は、綺麗だね」
すくい取った絵の具のような君を、足に塗りつけてみる。
痛んでいた足が命を取り戻した気がした。
一粒、涙が落ちる度、薄紫色をすくい上げて、塗りつける。
全身を化粧するような感覚。リコでもこんなふうにしたことがあったっけ。
最初に踊った日のことはもう思い出せない。だけど、君に初めて出会った日のことは思い出せるよ。
準備ができた。オルゴールを回す。
――君が最後にあの家に行ったときの状況とほとんど変わっていないよ
オルゴールはあの日、回らなかった。
きっと誰かが、直してくれたんだろう。
今日のために。
ティン、トリロリン、ティン、トリロリン――
生まれなおすみたいな気分だ。
まずはゆっくりと、体を起こす。
僕は、まだ鈍い体を思い切り伸ばして、不格好なターンを決めた。
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