青春のリミット
静かで、長い夜だった。このまま、永久に朝が来ないのではないか――もしかすると、実はこの世界はとっくの昔に営みを終えているのかもしれない。そう錯覚しそうなほどに、永い夜だった。
都心の大きな交差点。道行く人々は皆、ランドマークである巨大なビルのスクリーンが発する光を受けて、てらてらと脂ぎった顔を晒している。アルコールの力で気が大きくなってしまった若者の薄っぺらい会話を、信号のけたたましい警告音がかき消した。
そんな都会の喧騒とは無縁の、閑散としたとある商店街の裏通り。二階建てのつつましい雑居ビルの地下一階に、その『探偵事務所』はあった。
蔦で覆われたビルの地上階、通りに面した壁には無造作にハーブが生えているプランターが並んでいた。ガーデニングと呼ぶには質素な緑に混ざって立て看板が置かれている。
『OPEN』とチョークで書かれた簡素な案内の横に、ひっそりと地下に続く階段があった。階段を下りた先、歴史を感じる純喫茶の重厚な扉には『探偵事務所』と役割のみが簡潔に記載されたプレートが貼り付けられている。
どう見ても怪しかった。あまりにも怪しすぎて、探偵を使ってみようか、などと考える物好きな依頼人候補の大部分は、その入り口の風貌に慄いて踵を返す。生き残ったうちの九割は、インターホンから聴こえる明らかにカタギではない、不機嫌そうな男の声に「間違えました」と言い残して逃げていく。
かくして、この探偵事務所の客は少数精鋭。誰もが、種々の障壁など構っていられないくらい、絶望的で最悪で、どうしようもなく追い詰められていた。
午前零時、八分前。前述の通り、永遠とも思える夜だった。
四人の男女が革張りのソファに気だるげに座っていた。年季の入ったシーリングファンが淀んだ空気を一生懸命かき混ぜるが、彼らの間に流れるどんよりとした雰囲気は六時間前から変わらず、最悪なままだった。
そう、六時間。彼らはこの六時間、テーブルの真ん中に置かれたうさぎのぬいぐるみを真顔で取り囲んでいる。『ぬいぐるみが勝手に動く』ことの証明と、そのぬいぐるみの処分――出来れば動かない状態に戻してほしい、という依頼を解決するため、事務所スタッフ総出で監視を行っている最中であった。
最初は他愛のない世間話などをしていたが、話題は長くは続かなかった。暇を持て余した依頼人が、手慰みにペンをくるくると回し始める。マジックのような華麗な手捌きに、スタッフ達も真似して回し始めたが、所詮は手慰みに過ぎず、しかも失敗すると無性に腹が立つ。四人はすぐにペンを放り出した。
そんな虚無の時間を繰り返して、現在。この空間の中で、人間以外に動いているものといえば、時計とシーリングファン、そして水槽の魚達くらいだった。
(流石に、今夜はもう無理じゃないか。もう零時過ぎそうだし……)
依頼人を含めた全員がそう考え、三つの針が重なる瞬間を捉えようと、それとなく横目で時計を見ていた。
ゴーンという鐘の音が十二回。それに重なって、鳩がポッポ~と間抜けな鳴き声を上げた。
じゃ、今日はもう……誰ともなく口を開こうとしたその瞬間。ぬいぐるみの首がぐるん! と廻った。
依頼人がギャッと小さく悲鳴を上げて、隣に座る若い男のジャケットを掴む。
「ほらぁ! 先生、動きましたよ本当に動きました」
「おお、正直変なクスリやってんのかなって疑ってたんで。動いてよかった~」
「酷い!」
依頼人の必死の訴えを無視して、先生と呼ばれた男――この探偵事務所の所長であるカナタは、向かいに座った赤い頭の男に視線を送る。
「でもなぁ。これ、サクリアの気配、全然無いんだよね。シュリさんは?」
「……無いな。レイナは」
「私も何も感じません。あぁ、中に機械が入っているのでは? 音に反応して踊るぬいぐるみとか、あったじゃないですか」
「それは知らないが」
赤頭の男はゆらりと立ち上がる。腕を組み、テーブルの上を二足歩行で蠢いている依頼品を様々な角度から吟味する。
(うさぎが立って歩く様もなかなか味があるじゃないか。そういえば、丁度良いサイズの木材が余っていたな?)
「サクリアが無関係なら俺達の仕事ではないな。少し動くくらいなら可愛いもんだろう。これからも大切にしてやれ。以上、解散」
かなりおおらかな判定基準を示し、シュリはサイドテーブルのシュークリームを頬張った。依頼人からの差し入れで、仕事終わりに食べようと残してあった最後の一個だ。
予想外に時間がかかったせいで、皮がしんなりしてしまったのが残念だった。注文を受けてからクリームを詰める店で、こだわりのパリパリの皮が売りだと言うのに! 思わず依頼人を睨んでしまう。
その眼光に慄きながらも、依頼人が反論する。
「全っ然可愛くないですぅ! もぉ~~先生、なんとかしてくださいよ!」
「ですよね~。めっちゃ黒いモヤモヤ出てるし」
「黒い、モヤ……?」
カナタの言葉に、シュリとレイナが顔を見合わせて首を傾げる。一拍の休止符を挟んだのち、二人は「先生」に向き直った。
「見えん。わからん。頼んだぞ、センセー」
「すみません、所長。私、霊感だけはどうにも……」
レイナから差し出された「悪霊退散」と手書きされた小さなスプレーを受け取って、カナタはため息をついた。
「ミランさんなら見えたんだろうなぁ……あ、一応息は止めといてくださいねー、えいっ」
プシュ、と予想通りの軽い音を立てて、液体が噴射された。生花のブーケが舞いあがったような華やかで高級感のある香りと、断末魔の叫びが事務所に広がった。
「久々に長丁場でしたねぇ」
「ほんとに。二人とも、今日はお疲れ様」
カナタが瓶入りのジンジャーエールを煽った。好きだったヤツの味に似てるんだ、と話して以来、レイナがわざわざ取り寄せてくれているものだ。
「今回もサクリアは関係無かったな」
「それはそれで良いことですが……若いお客様がほとんどなのは、立地のせいかしら」
プランターから適当なハーブをちぎって淹れたハーブティを飲みながら、レイナは顧客リストを見直している。
「あとは……プロモーションを再考しましょうか」
レイナは机に積まれていたチラシを一枚手に取り、先ほどのスプレーを吹きかけた。印刷されていた宣伝文句がみるみると消えていく。
摩擦熱で消えるインクをヒントに「サクリアの歪みに反応して色が浮き出る特色インク」を使用したものだが、オカルト的な何かとも波長が合ってしまうらしい。チラシを手に訪れるのは霊障に悩む客ばかりだった。
「あ~……それは、ゴメン。オレが学校に通いやすい場所で選んでもらってるせいなんで」
気まずそうにカナタが手を合わせた。この商店街はキャンパスのすぐそばにあって、学生が多く住むエリアだ。探偵事務所の客層もそれに倣うのは自然なことだった。
やりたいことをやればいい。神鳥の宇宙との統合が決まったとき、そう言われたカナタが選んだのは「大学受験・大学進学」と「令梟の守護聖としての責任を果たす」ことだった。
やりたいことをやれ、という言葉は裏を返せば「何もしなくていい」という意味で、カナタは率直に、突き放されたと感じた。それが自分に対する優しさであることが理解できないような子供ではなかったが、判りました、と切り替えられるような大人でもなかった。
カナタのために探偵事務所の設立を決めたアンジュに、シュリは「護衛をやらせてほしい」と申し入れた。カナタが大学生兼所長で、シュリが助手。どう考えても疎かになる事務作業全般を、レイナが請け負うこととなった。
「なんで探偵?」
カナタの問いに、アンジュは「私たち、体は子供で頭脳は大人、みたいな感じだから」と笑った。
「ふーん。聖地で年取った分って体的にはノーカンでいいわけ?」
「そうだよ。だからカナタは十八歳だし、私は二十五歳なの。実質。人生これから、だよ!」
たしかに、カナタは境界線に立っていた。大人と子供。神様と人。守るものと守られるもの。アンジュの言葉を信じるなら自分はまだ成長期で、伸びしろがある。ということは、まだまだ未熟ということでもあって。
「これが出来たら大人、とか、こっから先は大人ってラインがあればいいのに。そしたらオレ、頑張って飛び越えるんだけど」
思春期らしいもどかしさを吐き出せば、「貴方はまだ助走中です」などとヴァージルが窘める。どこからともなく現れたロレンツォが「流石、面倒見が良いね、お兄ちゃん」と揶揄うと、彼は苦虫を噛み潰したような、はにかんだような、とにかく形容しがたい複雑な様相で舌打ちをした。
「精神が未成熟な若者は、時にヒステリックな思想を共有する集団になる。サクリアの淀みはそういったところに出来やすいと、あいつが言っていた。ハズレが多いなら、それは奴の責任だ。この店もあいつが決めたんだろう」
「選んだのはロレンツォさんだけど。タイラーとサイラスが一瞬使ってたんだよね」
おあつらえ向きに、このビルの一階は空きテナント、二階は居住エリアになっていて、カナタとシュリはルームシェアをしていた。事務所も二階も、家具家財はあの二人が住んでいた時のままになっていたので、ありがたく使わせてもらっている。
「立地が良くても肝心の依頼が来ないんじゃ、オレはともかく二人は暇で困るでしょ」
カナタはシュリの付けている日報をパラパラと捲る。今月の稼働は僅か五日。脱走した猫の捕獲、肝試しで見事に呪われた学生の除霊、子供の喧嘩の仲裁、落とし物探し、動くぬいぐるみ。平和な文字列に、思わずため息がこぼれる。
本当にサクリアが原因だったのは、とある調査員が連れてきた「見えない妖精」だけだ。律儀に鳥籠を持ち歩き、肩が凝ると嘆く彼の頭上で寝転ぶ妖精を、シュリもレイナも「サクリアのかたまり」として視認していた。つまり、二人が「見えない」のであれば、それは霊的ものということだ。
「にしたって、オカルト案件、多くない? サイラスとタイラー、ここでまともに探偵やってたのかな……これも使ったことないし」
タイラーから渡された、ゼノ特製の蝶ネクタイ型変声器をポケットから取り出して「あ~」と女性の声を出してみる。大方アンジュの悪ノリだろうが、生憎、出番は一度もない。
「あの二人が何をしてたかは知らないが、俺に不満はないから問題ない。お前は遠慮せず、学校に行けばいい」
この仕事を始めてから、シュリはことあるごとに「好きにしろ」「気にするな」と言う。カナタはそれが不満だった。過保護だと思うが、彼らの庇護無しで生きられる、と自惚れることも出来ない。
ついでに、酒を飲んだシュリがしばしば過去の「相棒」の話をしてくるのも癪に障る。今の相棒はオレだろ、と言いたいが、どう見ても自分は「保護対象」だという自覚も、カナタにはある。
せめて盾くらいにはなりたいと、時々顔を見せるヴァージルに訓練を頼んだが「まずは勉強。その次に走り込みと筋トレ。シュリの小脇に抱えられているようじゃ、話になりません」と言われ反論すらできなかった。
結局、シュリに霊感が無かったおかげで、今以上にお飾りの所長にならずに済んでいるだけだ。除霊グッズを開発してくれたゼノに後でお礼のメールを送っとこ、と思いついて、カナタは気の抜けた炭酸を飲み干した。空になった瓶を軽く水洗いして、ゴミ箱に放り込む。
「遠慮してんのはっ、シュリさんの方じゃん」
ガチャン、と思いの外大きな音がしたから、ささやかな反論が相手に聴こえたかは判らない。
手を洗ったついでに水槽に水を補充して、ライトを消す。店じまいの掃除をしようと箒を取り出すと、シュリの声が背後から飛んでくる。
「おい、明日はイッコマメなんだろ。さっさとシャワー浴びて歯磨いて寝ろ」
「あのね、もうガキじゃないって……。まあでも、こんな時間か。もう上がるんだよね?」
頷いた二人に、「シュリさん、レイナ送ってってね」と念を押す。
「じゃあ、お疲れさま」
三人分の「おやすみ」がぴったり重なった。無性に嬉しくなって緩んだ顔を見られないよう、カナタは足早に階段を駆け上った。
報告書の作成を終えたシュリとレイナが店の外に出ると、カナタの部屋に灯りが点いているのが見えた。レイナを送り届けて戻ってきた後もそれは変わらず、シュリはなるべく大きな足音を立てながらカナタの部屋に向かった。
ノックを三回。返事はない。「入るからな」と宣言してドアを開くと、カナタは机に突っ伏していた。手にはペンを握ったまま、開いた本の上に顔を乗せ、気絶したように眠っている。
(そういえば課題がどうとか言っていたか。なら、律儀にぬいぐるみを見つめていなくても良かっただろうに)
死んだ目でぬいぐるみを眺めていた姿が妙に可笑しく、思い出し笑いでシュリの鼻が鳴った。
「おい、こっちで寝ろ」
脇の下に手を差し入れてベッドに転がして、足元で丸まっているブランケットを引き上げる。薄い体を隠すようにブランケットを掛けて、幼子にするようにトン、トン、と背中を叩く。
「懐かしい、などと感じる資格は無いんだろうが」
思わず緩んだ口元を隠すように、照明を消した。常夜灯のオレンジの光が照らす横顔は、不思議といつもより大人びて見えた。
怯えと怒りに全身を震わせていたあの頃から、精神的にも肉体的にも、はるかに成長しているのはわかっている。
「いつまでも子供の枠に押し込めていられるわけないでしょう」とヴァージルにも釘を刺された。寂しくて泣いている子供はもういない。抱き締めてやる必要もない。それでも、シュリにとってはカナタは守るべき相手だった。あの、ダンプの子供たちと同じように。
沢山のものを奪った。決して返すことができない、大事なものを。代わりになれるとも、埋めてやれるとも思っていない。だからせめて、これから彼が得ようとするものは守ってやりたかった。
「お前は目いっぱい楽しめ。青春とやらを」
左手の腕時計にそっと手を添える。傷だらけの手からふっとサクリアが立ち昇った。蝋燭の炎のように頼りなく、薄らいでいる。不意に、心臓に鈍い痛みが刺した。
「っ、ま、たか……ッ!」
肋骨が軋む。胸の奥が燃えるように熱い。シュリの額にいくつもの汗の粒が浮かび上がった。長く息を吐いて、熱と痛みが遠のくのをじっと待った。
――自分が、先に逝くのだろう。
それも、理解っていることだった。両の手を固く握りこみ、呼吸を整える。
「……おやすみ」
んー、とくぐもった寝言に答えるように優しく頭を撫でてから、シュリは静かに部屋の扉を閉めた。
*
「幻肢痛、みたいなものだと思うのですが」
事故などで後天的に四肢を失った人が、無いはずの手足の苦痛を訴える病。欠損を認識出来ない脳のエラーだと言われているが、欠損した部位の血管や神経が圧迫された痛みだという説もある。
「守護聖の体内には、サクリアを蓄積する器官が形成されていると考えられています。サクリアの急激な減少によってその器官が退化した、もしくは消失したのかもしれません」
「それを脳が認識出来ていない、ということか」
レイナが提示した資料を一瞥して、シュリが納得したように頷いた。
「腕や足を失くした奴らが苦しんでいたな。あそこでは医者にも掛かれなかったから、安酒で痛みを誤魔化すくらいしかしてやれなかった」
シュリが「あそこ」のことを口にするとき、決まって郷愁と歯痒さが入り混じったような表情をする。彼の人生の根幹を成すもの。未だにその領域に入りこめる人間はいない。
(随分、心を開いてくれたと思っていたけど……それでも、貴方の居場所は「あそこ」のまま。過ごした時間の長さなんて、関係ないのね)
ふぅ、と小さな吐息を漏らしてから、レイナはかぶりを振った。全力で、死に物狂いで駆け抜けた短い青春。だからこそ、鮮烈に刻まれているのだろう。唇をきゅっと結んで、端末のスケジューラーを起動する。
「とにかく一度、聖地に行きましょう。アンジュから先方に連絡を取ってくれたので」
赤い瞳がそっけなく逸らされる。
「勝手なことを……。必要ない。別に、我慢出来ないほどじゃないしな。カナタには筋肉痛とでも言っておいてくれ」
シュリが紙の束を顔の前で振った。この話は終いだ、という合図だが、レイナは食い下がる。「食って寝れば直るって言い張るんだけど、絶対おかしいって!」と懇願されているのに、筋肉痛で誤魔化せるわけがない。
「では、言い方を変えましょうか」
レイナの声が一段、低くなる。
「これは、他の守護聖にも――カナタにも起こりうる症状です。そうなった時、適切に対処できるよう、前例があった方がいいでしょう?」
フェリクスの死とその顛末は、星間ネットワークを通じて即時共有された。カナタの落ち込みは目も当てられないほどで、その時はアンジュとヴァージルだけでなく、普段忙しくしているゼノとタイラー、サイラス、それにロレンツォまでもが探偵事務所に集まった。遠方過ぎて連絡が届かなかったユエとノア、出歩ける状態ではないというミラン以外の、懐かしい面々が勢揃いしたあの日から、そう長くは経っていない。
「お前……言うようになったじゃないか」
「おかげさまで」
チ、と小さい舌打ちと、大仰なため息。面倒そうに頭を掻いた後、ようやく「頼む」とシュリは頭を下げた。
カナタがゼノと共に辺境の惑星に向かった日、シュリとレイナは極秘裏に聖地を訪れた。二人を迎えたのはアンジュとサイラスで、生体データの解析から「神鳥のサクリアを補充することが手っ取り早い対処法では」と女王陛下と炎の守護聖オスカーに話を付けたと言う。
神鳥の宮殿は、あの飛空都市を思い出させる。一同が少しばかりの懐かしさを感じながら向かった先には、既にオスカーが待ち構えていた。
「お嬢ちゃん方の頼みとあれば、男にサクリアを注ぐ苦行にも耐えてみせるさ」
アンジュとレイナにウィンクを飛ばしてから、オスカーは目の前の男に目線を移す。意識を切り替えて、視界に一つ、フィルターを被せた。人から放たれるサクリアにピントを当てる。シュリの頭の先からつま先まで検分するように眺める。特に頭と、胸。本来サクリアが湧き出るように見えるはずの部位に、それが見えない。欠落している。
試しに、アンジュを見つめてみる。濃くは無いものの、全身からふわふわとサクリアが立ち昇っているが、シュリからはそれが感じられない。
「しばらく会わない内に、随分と枯れちまったな」
オスカーがシュリの肩に手を置いた。そのまま、シュリが跪いて頭を垂れる。
「これで、どこまでマシになるか判らないが……耐えろよ」
炎のように激しく噴き上がったサクリアが、オスカーの手のひらからシュリへと、燃え広がるように伝播した。サクリアの奔流はシュリの全身を包んだ後、その中心、心臓に向かってじりじりと収束していく。さりげなくサイラスが前に出て、レイナとアンジュを庇うように立った。サイラスが翳した検出器からピーッとけたたましい警告音が鳴って、光のヴェールが花弁のように広がった。
(シュリの色とは全然違う。なんて、激しくて力強い。これが、神鳥の……)
防護幕越しにも伝わる熱に、レイナは息を飲んだ。
「心配はいらない。元は同じサクリアだ。じきに馴染む」
後ろに控える三人に言い聞かせるような口調だった。苦痛に喘ぐシュリを見守ることしか出来ないもどかしさに、レイナとアンジュはどちらともなく、震える手を取り合った。
「シュリ、聖地に居を移せ。ここの時の流れは体への負荷も少ないだろうし、サクリアもすぐに補ってやれる。男を飼う趣味はないが……まぁ、事情が事情だしな」
オスカーは、わざとらしく手を広げて肩をすくめてみせてから、右手を差し出す。シュリはその手を取らずに、立ちあがった。痛みを堪えるように鳩尾を押さえて、片足に重心を掛けているが、その目は生命力に溢れている。
「此度の対応には感謝する。が、これ以上の温情は不要だ」
どうして、とアンジュが食い下がるが、オスカーは右手を挙げてそれを制した。
「……心残りは」
「無い。俺は十分に生きた。それに、首輪を付けられるのは性に合わないからな」
そう言い残して、シュリは足早に聖地を去って行った。
「ご苦労だった。本人が決めたのならば、何も言うまい。だが……残念だったな、オスカー」
サイラスの報告を聞いたジュリアスは、窓の外を見遣り、深く息を吐いた。
「ええ。久々に、振られてしまいました。……懐きませんね、手負いの狼というやつは」
軽口とは裏腹に、アイスブルーの瞳は憂愁を湛えて揺れていた。
*
もう聖地に来ることはない――シュリの決意は、ノアの訃報によってすぐに覆された。『スオウ』で療養しているというミラン以外の関係者が集まり、その死を悼んだ。
ノアの死は、彼らにとって衝撃だった。元々サクリアが減っていたフェリクスは、多少納得ができる。しかし、無尽蔵のサクリアを宿したままのノアが「次」だとは、誰も予想をしていなかった。――ユエ以外は。
「おかしいと思ったんだよ。あの引きこもりが、ばんばん仕事をしたい、だなんて」
遺体は、煙のように消えてしまったという。身に着けていた衣類をユエが持ち帰ったものが唯一の遺品だった。
「あいつ、さっさとサクリアを使い切ろうとして……死ぬために旅してたんだよ」
「ユエ……それを知っていて、何故止めなかった」
「っ、……本望だ、って」
シュリに肩を掴まれたユエは、苦虫を噛み潰したような表情で呻いた。
「本望だって言ったんだよ! 自分の力を誰かのために、目一杯使う。それが願いだって。そうしたらようやく終われるんだって、笑いやがった」
硬く握りこんだ拳に血が滲む。
「死ぬために、精一杯生きるなんて……意味わかんねぇし、バカみてぇだよな? でも、あいつが望んで決めたんだ。あの、全部を諦めていたノアが、だぜ?」
ユエが顔を上げた。真っ直ぐにシュリを射貫いた碧い瞳は、涙を湛えていた。
「じゃあ、俺は……見届けるしか、ないだろ? あいつの対として、最期まで」
シュリの拳に、ぼたぼたと熱い水滴が落ちる。長い付き合いだが、ユエの泣く姿を見たのは初めてだった。悪かった、と小さく謝って、シュリはだらりと腕を降ろした。
「ノア様の遺品は、高強度のサクリアを帯びています。クラヴィス様のお力添えを頂きながら闇の力の半減期を待つことになったので、その、お墓には何も入れられなくて……。こんな形で、ノア様にも、皆様にも申し訳ないのですが」
タイラーが一同を案内したのは、聖地を一望できる丘の片隅だった。せめてもの手向けにと、墓の周りを囲むように花を植えたという。
「何も残らないんて……オレ、そんなの嫌だよ。ノアさん……寂しいよ」
「カナタ。不意の落命も、亡骸が棄て置かれることも、珍しいことじゃない。空の墓だとしても、こうして弔われるだけ幸せだろう」
「言葉が足りませんよ、シュリ」
ヴァージルがシュリを短く諫める。首の後ろを右手でさすりながら「柄じゃない事を言いますけど」と予防線を張って、また口を開く。
「弔いは遺された者のためのもの。だから、いいじゃないですか。明るいけど適度に木陰で、静かで。英雄のように仰々しく銅像にされたり、厳かな神殿に祀られるよりも、ずっとノアらしい」
「俺は銅像になってもいいぜ?」
ユエの合いの手を無視して、ヴァージルが祈るように目を閉じた。緩く留められた上着が涼し気に風にはためいている。
「風がよく通る、気持ちがいい場所だ。……俺も、こんなところで眠りたいものです」
爽やかな笑みを向けられたタイラーが「そういうの、今は無理ですマジで」と頬を引き攣らせた。
「しかし……前の水も、よく泣く男だったが」
シュリの目線の先には、墓標に縋りつくようにしているカナタがいた。フェリクスの時は実感が湧かなかったのか、呆然としていたが、今は張り詰めた糸が切れたかのように、ゼノに肩を抱かれながら声を上げて泣いている。隣に座るレイナとアンジュもさめざめとしているものだから、「耳がいたい」とノアも嘆いていることだろう。
「水の習性なのか? あんなに泣いて、目が溶け落ちそうだ」
神鳥(こちら)の水の守護聖も、慈悲の塊のような優男だ。きっとたおやかに頬を濡らすのだろう。
「素直にカナタが心配だと言えばいいでしょう? しかし、あれを見てしまうと……そうそう死ねないぞ、という気分になるな」
噛み締めるような口調だった。心配そうにこちらを伺うタイラーの肩を、シュリが雑に小突く。「カナタは大丈夫だ」とだけ言って、背を向けた。
「あぁ……重たいな」
ヴァージルが独り言のように零した。風に煽られた上着の裾を固く握りしめて、シュリの背中に呼びかける。
「もう、降ろしても良いんじゃないですか」
――心残りは。
要領を得ないヴァージルの提案が、いつかのオスカーの言葉に重なる。その問いかけがシュリの脳裏に浮かぶたび、鈍い痛みが鳩尾からじわりと広がる。
悔いはない。オウルは無事に神鳥に転移した。それを機に、忌ま忌ましい鉄条網に囲まれた小汚いバラックや半地下の街は「浄化」され、ダンプをはじめとするスラム街は姿を消した。住民たちは戸籍と支援を得て、徐々に社会に溶け込んでいったとされている。当時を知る人間などもはや存在していなかったが、歴史書がそれを証明していた。
つまり、シュリとコーディの約束は既に果たされている。シュリが守ると誓ったのはダンプという箱ではなく、そこに暮らす人々の生命だったのだから、ダンプという概念が失われたのはこの上ない成果とも言える。
戯れに始めた探偵稼業も悪くはなかった。依頼の多くはペットや人、失せ物探し、子守り、除霊などで、ほとんどが児戯に等しい。それをカナタは嘆いているが、失われた青春の埋め合わせとして申し分ないとシュリは感じていた。
ばたばたと羽音が頭上を横切った。鳥が群れを成して空を渡っていく。大きく旋回するたびに、一、二羽の鳥が遅れ、そのうちにまた合流して、を繰り返しながら。
あとは――。
「待って、よ、シュリさん! 置いてかないで」
思索にふけっていたシュリの腕を、カナタがひったくるように掴んだ。慌てて走ってきたのだろう。涙で濡れたままの頬が、雨上がりの草原のように光っている。
「別に、どこにも行かない。少し歩きたくなっただけだ」
「行かないでよ……シュリさん」
「だから」
「オレより先に、死なないでよ」
唯一つの心残り。そして、願いがあるとすれば。
(俺が死んでも、泣いてくれるな、と言いたいが)
「……それは、無理な注文だな」
苦笑まじりの返事に、カナタの瞳からまた涙がぼろぼろと零れた。
掴まれた手を一度解いて、しっかりと握り直した。ガキじゃない、という抗議の声を無視して、シュリはもう一度ノアの墓前へと歩き出す。追いかけるような足音が続いて、遠慮がちに指が握り返される。草を踏む音が同じリズムになった。
*
「身辺整理は結構だけどね。君、ここを物置だと思ってない?」
ラボに持ち込まれた箱には、本や衣類、ナイフ、木彫りの小物が満載されている。荷物に埋もれたロレンツォがうんざりとした声を上げた。
「守護聖が死んだ後も、所持品にはサクリアが残るんだろう?」
ならここに持ってくるしかないだろうが、とシュリは開き直ってみせた。バン、と荷物を叩く。大量に舞い上がった埃が、ロレンツォの口を塞いだ。そもそも、フェリクスの荷物も保管している手前、ロレンツォは強く言えない。
「まあ、それはそうだけど……それにしても、紙の本が多いな。この分厚い本とか、腕が千切れそうだよ。しかも全百三十一巻だって??」
地層のように積まれた本の背表紙を検分して、ロレンツォが顔を顰める。
「電子データで読めば良いのに。ある意味贅沢な趣味だが……へぇ、最近は歴史書と……相変わらず推理小説がお好み? なるほど、探偵だから」
半分独り言のような会話を荷ほどき中のシュリに投げかけるが、返ってくるのは沈黙だけだ。
「……カナタには、何か遺してやらないのかい」
ロレンツォはカウンターに座って適当な小説を読みながら、さも世間話のようなふりをして本題を切り出した。舌打ちや悪態の代わりに、シュリは酒瓶を差し出した。
「おっと。昼間から? いいけど」
「馬鹿を言え。カナタに、だ。この酒と……これを。オウルから持ち込んだものだが、動作は問題ない。ゼノが部品を揃えてくれている」
「あぁ、……この前も、オーバーホールを頼んでいたね」
ロレンツォの眼前に腕時計が差し出された。手に取ってみると、金属の硬質な冷たさの奥に、沸き上がるような熱が――炎のサクリアが感じられた。
「いいよ。時々、ゼンマイを巻いておこう。しかし、君が着けていたなら、カナタにはかなり大きいはずだけど」
「む……工具を貸せ。調整する」
「それこそ、ゼノに頼めばいいじゃないか」
「情緒の無い奴。自分でやるから意味があるんだろうが」
シュリがアジャスターパーツに工具を差し込んだ。カチリと小さな音がして、金具が外れた。
「カナタの手首のサイズなんて、判るのかい」
「大体な」
――掴んだ腕の頼りなさは、今でも覚えている。忘れられるわけがない。
作業に集中し始めたシュリにちょっかいを掛けるのを諦めて、ロレンツォはコーヒーの準備を始めた。ゴリゴリと豆を挽く音と、腕時計の金具が擦れる音が交互に響く。
「こんなものだろう。じゃあ、預けたからな」
「……確かに。ついでに手紙でも書く?」
ほら、と淹れたてのコーヒーカップと共に差し出されたレターセットをしばらく睨み付けた後、シュリは一行だけの手紙を書いた。
「それだけ?」
シュリは無言で頷く。封蝋を垂らして手紙を封印し、ロレンツォに押し付ける。
「手紙は、渡しても渡さなくてもいい。見ての通り、大したことは書いてないからな」
「私の判断に任せる、ということ? いつ渡すかも含めて?」
「ああ」
「そう。まあ、いいけどね。気が向いたら、アンジュにも手紙を書いてやってほしい。随分気にしていたから」
ロレンツォは預かった品を後ろに下げて、コーヒーに口を付けた。シュリもそれに倣う。冷めかけたコーヒーはどこか味気なく、すぐに飲み終わってしまった。
「最後に一つ聞かせてくれないか。君にとってカナタは、何だったんだ? 君が彼に罪悪感を抱く必要は」
カタン、といささか荒くカップを置く音が、ロレンツォの言葉を遮った。
「俺がミステリを好む理由はいくつかあるが――一番は、スカっとするからだ。お前みたいな人の機微に首を突っ込む悪趣味な奴は……最初の被害者か、真犯人と相場が決まっているからな」
「悪党や極悪人じゃなく? それは光栄だ」
特大の舌打ちと共に、シュリが席を立った。店のドアが不機嫌そうに鳴って、薄暗い店内に光の帯が伸びていく。
「シュリ。私は結構、君のことが好きだったよ。じゃあね。次があれば、また」
見送りの言葉とは裏腹に、ロレンツォは逆光に顔をしかめる。底抜けに明るい陽射しが大きな背中を飲み込んだ。
「……また、だなんて」
ぎぃい、と重くるしい音が途切れる。暗闇と静寂が店に満ちて、ロレンツォはひとつ、ため息を落とした。
――むず痒いな。
乾いていないはずの喉が、干上がったように張り付いている。逆光に灼かれた目がちかちかして、きつく瞼を閉じた。
網膜に焼き付いたシュリのぎょっとした顔はここ百年で一番の傑作だった。「何て顔だ、今生の別れだっていうのに」と大笑いしてやりたかったが、不思議と頬が強張って上手く笑えなかった。
「あぁ……この感覚も、未知(はじめて)か」
掠れ声の独白は、静謐の空間にいつまでも異質に響いていた。
*
特に行く当てはなかったから、どうせなら、と知っている星を終着地点に選んだ。一度だけ訪れたことはあるが、シュリにとってそれはろくな記憶では無い。
どんな場所かと訊ねられたレイナは「水の星です」とやわらかく笑った。
レイナの言葉通り、コバルトに輝く、美しい惑星だった。一億年の歴史を誇るという大国や、この星で一番高いという霊峰、果てしない砂漠、深い密林、氷河の国。適当な仕事で路銀を稼ぎながら、様々な場所を気ままに走り回った。
そして最後に、アンジュが「ここが、私たちの故郷」と示した小さな島国を訪れた。
海が良く見える丘にバイクを止めた。シュリはヘルメットとサングラスをハンドルに引っ掛けて、適当な木に寄りかかるように座った。
随分と伸び始めた前髪をかき上げると、遠くに獣たちが走っているのが見えた。二匹。大きいのと、小さいの。親子か、兄弟だろうか。
責任や、誰かの命を背負わずに過ごすのはいつぶりだろう。この上なく身軽で楽だが、少しだけ背中が冷える気がした。
身を起こして、ジャケットの懐から小さな手帳とペンを取り出す。フェリクスの真似というわけではないが、見た風景や起きた出来事を書き付けていく気まぐれな随筆は、一人旅の慰みのようなものだ。
初めはひたすら独り言を書いていたが、段々と、日記から手紙の様な文章に変わっていった。取り留めのない事こそ、誰かに伝え共有したくなるのだろうか。見返すとそれなりに面白い。
「この花はたしか、サクラ……だったな」
頭上で咲き誇る花には見覚えがあった。女王試験前にバースの様子だとサイラスに見せられたものだ。それに、淡いピンクと、その先に広がる空色のコントラストは馴染み深い。
そういえば彼女に手紙を書けと、ご丁寧に封筒を渡されていたことを思い出す。手帳のページを破って短いメッセージを書き、地面に散らばる花と一緒に封筒に入れた。どうやって届けるか、は後で考えればいいだろう。届く前に花弁が朽ちるかもしれないが、それを迷惑がるような女でもない。
一仕事を終えて、煙草を咥える。火をつけようとしたその時、シュリの視界に人影が映り込んだ。
「調子はいかがです」
久々に耳にした、だがとうに聞き飽きている甘ったるい猫撫で声に、シュリは顔を顰める。
「……お前。なんだ、その生ぬるい腑抜けた気配は」
ヴァージルは答えず、差し出された煙草を片手で断ってから風上に腰を下ろした。
「本当に、貴方は言葉が足りない。何も言わずに出て行かなくてもいいでしょう」
「説教するためにわざわざ来たのか? こんなところまで?」
この星に来るために次元回廊を使ったが、発信機の類などは全て捨てた。どうやってこの男がここを嗅ぎつけたのかシュリには想像もつかないが、とにかく、何の感慨もなしに始まった小言は気に食わない。
せっかくの一服が台無しだ。ふぅ、と相変わらずお綺麗な顔に吹きかけた煙は、鼻を摘まんでやり過ごされた。
「あのな。俺はそろそろ死にますので、さようなら――なんて、お前なら言うのか?」
「それは……」
過去の自らの行いがヴァージルの口を噤ませた。シュリはそれに気付かないふりをして、紫煙をくゆらせる。
「湿っぽいのは苦手だ。昔、正直に別れを伝えたら子供達に大泣きされてな。あれは、なんというか……ひどく、骨にこたえる」
沢山の泣き声と悲鳴が、耳の奥にこびり付いて離れない。一際大きい叫び声がフラッシュバックして、シュリは思わず目を閉じた。眉間の皺がさらに深くなる。
「気持ちはわかりますが、爆散とか失踪とか、物騒な手段を取りすぎなんですよ。同僚です、と傷だらけの火だるま男を紹介されたこちらの身にもなってください」
呆れたように言って、ヴァージルは姿勢を崩した。
「そんなこともあったか。まぁ、大目に見ろ」
次はないから。シュリの軽口に、ヴァージルは返事をしなかった。
それから、二人は無言で海を眺めていた。遥か昔にも、こうして肩を並べて景色を見たことがあったような気がしたが、それを確認したところで今更何が変わるでもない。
海風が草原を撫でる。ヴァージルが鼻をひくつかせて、僅かに眉を顰めた。
「アンジュ達の故郷は、良いところですね。豊かで、穏やかで……でも、暖かいせいか、この星の海はなんだかむせかえるような……」
「色々な生き物の匂い、だそうだ。バースの生き物は海から生まれて海に還るらしい。母なる海、と言っていたか」
「ああ、それで……水の星、と。なるほど」
シュリの視線を感じとり、ヴァージルは勝ち誇ったように笑う。
「俺は、独自の情報網で貴方を見つけましたが――カナタに教えるつもりはありません。でも、彼はきっと辿り着きますよ。追っかけっこは俺仕込みですから」
「偉そうに。じゃあ、のんびりと待つとするか」
シュリは大きく伸びをして、草の上に横たわる。それを横目で見下ろしたヴァージルが、納得したように呟いた。
「終わったんですね、ようやく」
「終わった? 何がだ」
「貴方の戦いが、ですよ」
青い海が太陽を飲み込んで、空と海面が黄昏に染まり始めていた。
ヴァージルは言いたいことを言ってすっきりしたらしい。やはり、何の感慨もなく「よかったですね、では」の一言で去って行った。遠くなる背中を見送りながら、一体どこから走ってきたんだ、とシュリは呆れていた。
もうすぐ日が暮れる。シュリは慣れた手つきで野営の支度を始めた。テントを張って、寝床を作る。雨は降りそうになかった。この気温なら、外で寝ても良いかもしれない。
薪を組んで火を付け、湯を沸かす。シートの上に置かれていた見覚えのないコーヒー粉と携帯食はありがたく頂いた。
そのまま、しばらく炎を眺めていた。揺らめく炎は心臓の鼓動や脈拍に似ていて、どこか心を落ち着かせる。遠くに見える山の端が、ぼんやりと明るみを帯びている。街灯りだろうか。夜に火を焚けるのは、ここが安全で、平和な証拠だ。バース出身者達に共通する優しく善良な気質は、この穏やかな土地で養われたのだろう。
強さを司るサクリアが、何故自分に宿ったのか。深く考えたことはなかったが、今は分かる気がする。
人と獣の進化を別ったのは、火だ。
夜に沈み、獣の様に生きていた自分に、人としての輪郭を与えたのは炎の灯りだ。その灯りの下で、文字を読み、知識を養い、苛烈な環境で生き延びるための知恵を付けた。星灯りから身を隠し、息をひそめて暗闇にまぎれている時でも、瞼の裏に焼き付いた炎は消えない。
――炎が、俺に力を与えた。俺は、炎を得て人に成った。
小さな枝を折って、ナイフで手早くささくれを作る。いくつかまとめて焚き火に放り込むと、生木の水蒸気がバチ、と音を立てて爆ぜて、火の粉が頬を焼いた。立ち昇った煙が淡い暗闇に溶けていく。
「この宇宙が棺桶……だったか?」
胸元から手帳を取り出す。旅先で助けた老人の『ソーシ曰く』の御高説が見開きいっぱいに書かれたページを開いた。勿論、その文字はシュリには解読できないが、その迫力ある筆跡は達筆と呼ばれるものなのだろう。
老人によると、自然のもの全てが弔いになるから、特別なものは何もいらない、という内容らしい。ほぼ全てを聞き流していたので、覚えているのはこれだけだ。太陽と月――朝と夜を司る星を双璧と例えることが気に入っている。
厳しい冬を越えたとはいえ、まだ夜は少し冷える。シュリは手帳を懐にしまい、本革のジャケットの前を閉めて、草むらに寝っ転がった。
沈みゆく太陽を惜しむように、月が現れ、軌跡を追っていく。月は半分近くが欠けていて、丁度、今の自分のようだった。また心臓のあたりが鈍く疼いたが体は痛みに慣れてしまった。
息を大きく吸い込む。桜の花の香りに交じって、湿った土の匂いがする。小さな虫が指を這い上がって、こそばゆい。波音に獣の遠吠えと虫の声が混ざって賑やかだ。
そうやって自分を取り巻く小さな自然に意識を向けているうちに、夜空にぽつぽつと星が輝き出した。見える星の数も、輝きも、聖地に比べて遥かに少ない。それでもシュリは、美しい、と思った。
――棺桶にしては、上等だ。そうだろう?
空っぽの墓にちょこんと座ったノアが、満足げに微笑む。「悪くないよ」雨の降り始めみたいな、静かな声でそう言った。
「それでも、あいつらは泣くんだろうな」
だが、耳を澄ましても、声は聞こえなかった。
そうか。終わったのか。シュリは独り言ちた。
同意するように、柔らかな風が草を揺らす。水分を含んだ空気が火照った頬を冷やして、心地よかった。全身の体の力を抜いて、絶え間ない波の音に身を委ねる。
海に――知りもしない、母の腕に抱かれて眠る赤子の気持ちを想像しながら、シュリはゆっくりと瞳を閉じた。
一覧に戻る