さよなら探偵助手



 洗面所で、顔を洗う。化粧水をまぶした手で、頬をぱん!と叩く。昨日は上手く眠れなかった。目の下のクマはあまり目立たないけど、顔全体が少し浮腫んでいる気がした。ワックスを髪に馴染ませる。サイドを下げて輪郭を隠して、口の端をぎゅっと上げる。
 大丈夫、目の前の自分は、なんでもないって顔で笑えてる。
 こうやって鏡を見るたびに、お前、誰だよって叫びたくなるのをぐっと飲み込んで、上を向く。涙がこぼれないように。昔の人がそう歌ってたから。全然、涙はこぼれるけれど。

 チリリン。小さなドアベルが来客を知らせる。いつもの開店時間よりもだいぶ、いや相当早い。今日は(正確に言えば、今日も)特に依頼は入っていないが、飛び込みの客だろうか。朝一で掃除を終わらせておいてよかった。
 はーい、と返事をしながら急いでリボンタイを結んで、バックヤードの鏡の前で身だしなみをチェックする。シャツ、ベスト、問題なし。手を洗って、腕時計を付け直す。これはただの、飾りだ。しばらく前に動かなくなってしまって、なんとなく、そのままにしている。

「お待たせし――って、なんだ、ロレンツォさんか」

 勝手にカウンターに座っていたのは見慣れた顔だった。何に影響されたのか、着流しに羽織、手元にはチューリップハットなんて出で立ちだ。大方の予想はつくが意外と似合っているのが嫌だった。

「やぁカナタ。すっかりバーテンダーが板についたじゃないか」
「つっても無資格のモグリだけどね……」

 主星のとある地方都市。ビジネス街の一角、看板のない小さなバーが新しい探偵事務所だ。素性がばれないように数年おきに引っ越しを繰り返しては、サクリアに関するトラブルを請け負う「怪異専門探偵事務所」を開いてきた。
 次の移転先を考える時に「さすがに大学生はそろそろ終わりにしようかな」と何気なく言ってみたら、真に受けたアンジュが「探偵はバーにいる」と言い出した。「その探偵はバーに入り浸ってるだけの客じゃん?」という疑問は受け流され、レイナによってあっという間に居抜き物件が用意されてしまった。
 もちろん、オレは飲食に関する免許は何一つ持っていないし、酒のこともよく知らない。店に置く蒸留酒やリキュール、グラス、軽いつまみまで、全部レイナが選んでくれた。

「ギムレットくらいは作れた方がいいわ。探偵だもの」と言われたものの、レイナからは中々合格点を貰えない。

 だから表向きは「やたらそれっぽい雰囲気の探偵事務所」。お客さんには、置いてある酒は好きに飲んでくれと言っているだけだ。
 ただ一つ、棚の一番右奥にある酒を除いて。
 
「どう、客入りは」
「今までの事務所よりも少ない。けど、その分精度は高いからトントンかな。バーだと思って入ってくる人ばっかりだけど、三割くらいはドンピシャで依頼に繋がってるし、そうじゃなくても情報が集まるから」

 兼業探偵という都合で今までは学生街に事務所を構えていた。だが、今回はバーという趣向もあって社会に疲れた大人の顧客が多い。
 ある意味、大学生という身分は便利だったと思う。人の集まるところに身を置いていれば自然と情報が集まるし、白昼にその辺をフラフラしていても「研究のためのフィールドワークです」という体裁が取れた。その肩書きが取れた途端にナンパ野郎か職業不詳の不審人物の出来上がりだ。だったら、訳有りの客を集めて話を聞きだす方が早い。探偵がバーにいるのは、めんどくさいとか暇で飲んだくれてる、とかじゃなくて、きっとそういう理由だろう。
 それに、こういう場所なら、あの人がフラっと帰ってきてくれるかも――なんて、淡い期待もあった。もう、そんなことは起きないって、知ってるけれど。

「酒は悩みや痛みを溶かしてくれるからね。こういう場には自然と訳有りの人間が集まる素地があるし……あとは、水のサクリアの効果もあるのかもしれない」
「水、の?」

 差し出した報告書を手早くスワイプしながら、ロレンツォさんは続ける。

「彼らは大抵、人に言いにくい悩みを抱えていたり、心に傷を負っている。君の力を無意識に求めているんじゃないかな」

 水槽に映った自分の顔は、引くくらいニヤけていた。だって、仕方ない。自分のサクリアがトラブルの種じゃなくて、誰かの癒やしになっているんだ。昔みたいに。

「それは、結構嬉しい」
「相変わらず素直でいい子だね、君は。……安心したよ。一人で大丈夫かと心配してたんだ。アンジュも今度様子を見に来ると言っていたんだけど」
「あんたら、いつまで経ってもオレのこと子供扱いするよね。ちゃんとやれてるってば」
「フフ、それはどうしても……ね。まあシュリほどではないだろう?」

 ヒュっと喉が鳴ったのが、自分でも判った。一気に血の気が引いて、音が遠のく。カウンターの後ろの壁にもたれかかって、はぁ、っと大きく息を吐いた。前髪の隙間から見えたロレンツォさんとは、目が合わなかった。もう、オレに興味を失ったらしい。

(まだ吹っ切れてないのか、ガキだな、とか。思われてんのかな)

 腕時計を右手で強く握り込んだ。金属の金具がガチャ、と鳴ったのが聴こえた。硬質で冷たい音だけど、握った手のひらには確かな熱が灯る。掴んだ熱を離さないように、ぎゅっと目を閉じて、上を向く。


 ――あの人との関係を表す言葉を、オレは見つけられないままだった。
「カナタ先輩~この前一緒に歩いてた赤いでっかい人、お兄さんですか?」
「お兄……や、それはちょっと無理あるっしょ」
「そうですか? 目元とか結構似てません? 仲良い兄弟だなーって思ったんすけど」

 大学生探偵を自称していた頃、良く聞かれては、答えに詰まっていた。ぱっと浮かぶのは保護者、同僚、同居人。あとは――兄貴。いや、それは流石に無理。「相棒」って言ってみたいけど、それもちょっと、まだ違う。というか、言えない感じ。これはオレのプライドの問題。
 探偵業のことは、隠していなかった。助手だと話すと女の子達は「全部見透かされてるような鋭い眼光。素敵」「今度紹介して」「バイト募集してないの?」などと囃し立てる。
 あの人そういうの興味ないからね、と釘を刺すけれど、正直わかる。ガタイが良くて、顔がシュっと整っていて、ちょっとワルそうなのに普通に子供とかに優しい。眩しそうに目を細めて、口の端を少しだけ上げて笑うのも大人っぽくてズルい。

「そりゃ守護聖やっててもやってなくてもモテるよ。かっこいいもん」
「は? 何を言っている。さては……好きな女でも出来たな?」

 ぎらりと目を光らせて、頓珍漢なことを言う。多分これがギャップ萌えってやつだ。

「違うってば。えーと、オレは準備完了。いつでもいいよ」
「フッ……連れ込むときは言えよ。じゃあ行くか」

 したり顔でシュリさんが言う。椅子に引っ掛けていた革ジャンを羽織って、サングラスを胸にひっかけたその姿は、とりあえず見た目だけは完全にハードボイルド探偵だ。

「これで行き先が猫の集会場でなければ、完璧なのに」

 伸縮性の網、捕獲用の籠、猫の餌、発信機もろもろでパンパンに膨らんだリュックを背負って、タンデムシートに跨がる。

「やっぱずるいなあ」

 分厚い背中に投げかけた言葉は、バイクのエンジン音にかき消されてしまった。


 あれが、二人での最後の「仕事」だった。忘れもしない。二年前の、今日。

「しばらく依頼も無いし――まぁいつもだが、溜まった用事を済ませてくる。一人で大丈夫か?」

 オレの頭は、大きな手の置き場にされた。

「何か困ったことがあれば、レイナに言えよ」
「だーから、ガキじゃないって」
「そうだったな。いってくる」
「ん」

 最後にわしゃわしゃと頭を撫でまわして、せっかくのヘアアレンジを乱していく。大きな犬にやるみたいに。それに、オレがマジでやめてって睨んで、シュリさんがすまん、ってぶっきらぼうに受け流す、いつものやりとり。押すな押すな、みたいなものねってレイナが呆れる。
 違ったのは、その手がもう一度、頭を撫でたことだった。存在を確かめるみたいに輪郭を辿っていく。猫に引っかかれまくって、赤い筋がいくつも走っている手首がゆっくりと離れていったのを、やけに鮮明に覚えている。
 それだけだ。明確な別れの言葉なんて、無かった。
 なんの躊躇いも、未練も見せないまま、大きな背中は扉の向こうの光溢れる世界に消えていった。
 あの日以来、おやすみは揃わなくなって、おかえり、と、いってらっしゃい、は返ってこない。それでもオレは、ただいま、いってきますってちゃんと言う。いただきますとご馳走様と同じように。言わなくなったら「認めた」ことになりそうだから。

「結局、手付かずのまま?」

 投げかけられた言葉が、憂鬱な現実を連れてくる。見下ろしたカウンターには、コーヒーカップが二つ。
 勝手に淹れさせてもらったよ、と言いながら、ロレンツォさんが椅子に座りなおした。
 彼が指すものは、淹れたてのコーヒーではない。目線を追わなくても分かる。棚の一番右奥にあるボトルだ。オレの故郷の酒で、シュリさんの遺していったもの。アンジュとロレンツォさんの店で、レイナと四人で少しだけ飲んだ。それ以来、開けていない。開けられない、今のオレには。

「あれからもう、半年は経っているけど。探しにいかなくて良いのかい?」
「探す? オレが……探して、いいのかな」

 どうして? とロレンツォさんが質問を重ねた。

「遺品は見つけられる可能性が高いだろう? なにより、知りたいと思わない? シュリがあれから、どこにいたのか。何を見て、どんな経験をしたのか」

 そもそも、居なくなった時だって探そうと思えば探せただろうに、と心底不思議そうに言う。

「でも……オレは、シュリさんのこと何も知らなかったから。知られたくなかったなら、追っかけられるのも嫌かなって」
「知られたくない? 何故そう感じるのかな」

 渡されたカップを覗き込む。褐色の透明な液体を見ると、苦いものがこみ上げてくる。

「……泥水ってさ」
「ん?」
「良い匂いの泥水って思ってたんだ。小さいとき、親のコーヒーをこっそり飲んだ時に。あ、今は平気。お客さんに出すから、よく飲んでるし」

 証明するように、一口、飲んで見せる。欲を言えば、砂糖はいらないがミルクはあった方が好みだったから、冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。

「四個目の事務所だったかな……子供の依頼人が来るからジュース用意しなきゃ、みたいな流れで、その話をして。そしたらシュリさん、何て言ったと思う?」
「シュリの思考を私に聞く? そうだな……まだまだ子供だな、とか?」

 カウンターに座って、もう一口飲んでから、牛乳を注ぎ足した。

「上等な泥水で良かったなって、笑ってたよ」

 手元が狂って、思ったよりも牛乳がどばっと入ってしまって、よりにもよって砂場みたいな色になった。また口の中が苦くなる。

「味、知ってたんだなぁって後で気付いて。守護聖になる前はどんなキツい生活してたんだろうって思ったけど……でも本人が言わないことをわざわざ訊くのもナシでしょ」
「え? 私だったら訊くけど」
「オレはその辺、わきまえてるから」

 日々の生活を共にしていれば察することもある。尾行の上手さや武器の使い方、交渉術、警戒心の強さ。着替えの時に見える、体のそこかしこに残る傷。そもそも守護聖時代からして荒事担当だったのだから、安穏とした環境で育った自分とは明らかに「違う」のだろう。

「泥水? 好奇心でもお勧めしませんね。運が良ければ、腹を壊すだけで済みますが」

 揶揄うように笑った彼も「そう」なんだと、なんとなく判っていた。二人とも好き好んで過去の話はしないから、こういうこぼれ話の後は、しまったな、とでも言いたげに目線が逸れる。その目線の先の、知らない世界を覗こうとするオレを、壁になった横顔が阻む。
 オレも、「あぁ、踏み込めないな」と線を引いてしまう。なんで話してくれないんだ、とも思わなかった。人にはそれぞれ、事情があるから。

「ふうん。そういう正しさや優しさは、必ずしも大人を定義するものではないと思うよ。スマートではあるけどね」

 紫の瞳に見透かされそうで、思わず顔を背けて壁を作る。視線を泳がせた先で、水槽の魚たちが退屈そうに水草をつついていた。
 魚たちは争わない。争う意味がないから。水槽にいる限り、飢える心配はない。天敵もいない。もしかしたら、気に入らないヤツがいるかもしれないけど、喧嘩したところでこの空間から出られるわけでもない。明日も明後日も、ずっと同じ奴らと暮らしていかなきゃいけない。だから、衝突しないようにお互いの境界線を上手く引いて、日々を生きている。
 きっと、オレは魚と同じだ。相手を傷付けないように、は、自分が傷付かないように、の裏返し。シュリさんや、ジルさんがしてきた経験してきたこと。背中を預けてきた相棒。必死に守ってきた誰か。ゼノの故郷の人たち。皆、もう死んでしまった。死んじゃった人には追い付けない。

 オレは昔、ゼノが引いてくれた線を踏みにじってしまった。それ以来、怖じ気づいて、焦がれる思いにも蓋をして、必死に喰らい付くことを諦めて、聞かない、と境界線を引いた。
 だからオレは、優しくなんて無い。大人になりたいって言いながら都合よく子供と大人を使い分ける。そんな自分の狡さにだって、とっくに気付いてる。

「この時計もさ、すごく大事なものなんでしょ。多分……その、コーディって人の形見とか、そういう」

 シュリさんが自分のことを話すのは、決まって酔った時だった。姿を消す一年くらいから、深酒の頻度が増えた。ほとんどは少し無茶しすぎた仕事の後で、今思えば、痛みを酒で誤魔化していたのかもしれない。

 ――俺はな、コーディが家族を持ったのが嬉しかったんだ。あいつの子供を抱いた時ほど感動したことはない。だから、カナタ、お前も所帯を持て。
 ――だからさ、オレはコーディって人のことロクに知らないんだってば。
 ――俺の相棒だ。なぁ、一緒にダンプを守る約束をしただろう……俺は、……。

 満足そうな顔で寝落ちするシュリさんの腕で、いつも誇らしげに光っていた時計。生っちょろいオレの腕には、少しゴツくてアンバランスだ。

「詳しくは知らないが……確かに、贈られたものだと言っていた」
「……それで、今は正真正銘、シュリさんの形見ってわけ」

 相棒の証みたいなものじゃないか。刻を止めたままの時計が鈍く光って、お前には不相応だと責められているような気がした。

「神鳥に来る時に、シュリさんは……あんた達は、オレに好きなことをしていいって言ってくれた。今もこうして、オレがやりたいことを出来るように色々してくれてる」
「そうだね。私達にはそれを制限する理由はないし、君を支援する力も、余裕もある。君は好きなように、満足する生き方をすればいいと思っているよ。人道に反しない範囲で」

 じんどう。ロレンツォさんは噛み締めるように繰り返したあと、それを打ち消すようにフっと冷たく笑った。それはきっと、ロレンツォさんにとっての、知られたくないこと。あからさまに作られた壁を、オレは乗り越えない。

「シュリさんは、好きに生きたと思う?」
「だろうね」
「ずっとオレのお守りをしてたのに? オレは――あの人の居場所に、なれなかったのに」
「どんなに居心地が良いところでも、そこを「家」に出来るとは限らない。でも、それはシュリのせいでも、ましてや君のせいでもない。誰が悪いわけでも無いんだよ」

 一口、コーヒーを飲んでからロレンツォさんが言葉を続ける。

「言うなれば、自我を持ったヒトの性(さが)……本能と言ってもいい。抗えないよ。永遠に近い時を生きる我々なら、尚更ね」

 あの、ミランとフェリクスでさえ。ほとんどため息みたいな呟きが付け足された。え、と思わず漏れた声は、曖昧な笑顔で――オレにはまだ出来ない、上手な大人の表情で――やり過ごされてしまった。

「話を戻そう。君との生活について、少なくとも、私は不満を聞いたことがない。おそらくアンジュも。だから、気に病む必要は」
「じゃあ、なんで……っ」

 自分で話を遮っておいて、いったん口を噤んだ。答えを聞くのが怖くて、次の言葉を吐き出すまでに時間がかかった。

「……なんで、黙っていなくなったんだよ!」

 涙が出てこないように、目の奥にぐっと力を入れた。

「心配をかけたくなかったから、とアンジュもレイナも言っていただろう? もう少し正確に言うと、死に際を見せたくなかったから、かな」

 ロレンツォさんはコーヒーポットを持ち上げて、残っていたコーヒーをカップに注ぐ。いる?と目線で聞かれたけど、首を振った。まだ「上等な泥水」がなみなみと残っていたから。

「君にこれ以上、喪失を経験させたくない、という想いと……君の手が放せなくなる前に離れようとしたんじゃないか? 時間を重ねてしまうと、離れ難くなるものだろう? 知っての通りシュリは情に厚い男だし、存外、寂しがり屋だからね」

 それから、個人的な見解、と付け足してロレンツォさんがカップを置いた。

「言葉を選ばずに言うなら――君への罪悪感もあっただろうし」
「そういう……っ」

 左手首がずっしりと重い。腕から伝わった熱で体全体がじわじわと火照ってきて、段々と抑えが効かなくなる。

「勝手に連れてきて、勝手にいなくなって! こんな大事なもの、一方的に託して!」

 カウンターを叩く。ガチャンと音がして、残っていたコーヒーがソーサーに溢れた。みっともない。こんなの八つ当たりだ。でも、一度溢れだしたら、もう止められない。

「それで、勝手に……独りぼっちで死んじまって、なんなんだよ? ほんと、ムカつく!」

 ぼたぼたと零れた涙を拭う。顔に触れた腕時計が鉄臭くて、血の――命の匂いがした。
 逝ってしまった人たちの顔が浮かぶ。フェリクスさんがミランさんのいたずらに怒っている顔。ユエさんの話を眠そうに聞き流すノアさん。死ぬために生きてたってユエさんは泣いてたけど、絶対、それだけじゃないって、オレは思う。
 海斗。また一緒に海外行きたいなぁって話したのにね。オレは海外どころか、別の宇宙に来ちゃったよ。ステージで、引き攣った顔でピアノを弾いてた母さんに、恥ずかしそうに花束を渡しに行った弟。父さんはやたら嬉しそうで。オレは、大人になっても習い事ってやっても良いんだなぁなんて呑気にそれを眺めていた。
 シュリさん。目尻に皺を寄せて、小さく口を歪めて不器用に笑う。

「オレ……誰にも、さよならって、言えてないんだよ」

 ロレンツォさんは何も言わない。鼻をすする音と、水槽のエアレーションの音だけが部屋に響いている。同じだ。執務室に引きこもっていた時と。オレはあの時から、ずっと同じところをぐるぐるしてる。

「カナタ。その時計は、壊れていたんだよ」

 オレの呼吸が落ち着いたころ、ロレンツォさんが静かに口を開いた。

「君が守護聖になる前から、ずっとね。君が来て、女王試験があって……聖地に戻ったくらいか。ようやく、ゼノに直してもらったんだ。正直、驚いたよ。誰にも触れさせない、と頑なだったから」
「ど、して……」
「どうしてだろうね? 生憎、そんなことを打ち明けあう仲では無いから、これも私の推測に過ぎないが。その心境の変化の一因は――」

 カウンター越しに、とん、と心臓の辺りを突かれた。そのあと、白い封筒が差し出される。

「これは、シュリからだ。読んでも、読まなくてもいいと」

 言われるがままに、軽くて、薄っぺらい手紙を受け取る。シュリさんの簡潔な業務日誌を思い出す。そっと封蝋を剥がして、便箋を開く。

『俺は、生きたいように生きた。お前もそうしろ。』
「……ほんとに、一言じゃん」

 顔を上げると、ロレンツォさんが、真っ直ぐにオレを見ていた。口角を片方だけ上げて、なんだか眩しそうに目を軽く細めている。
 ――この人、こういう笑い方もするんだ。

「君も、時間を進めなさい」

 不器用な笑顔のまま、ロレンツォさんが言った。何故か、シュリさんを思い出してしまう。顔の作りも雰囲気も、全然、似てないのに。

「君の鳥籠も、止まり木も、もう無いんだ。飛び立つ時が来たんだよ」

 喉の奥がぐっと強く締め付けられる。返事をしなきゃと思ったのに、苦しくて、声にならなかった。


 ゼノと会うのは、随分久しぶりだった。最後に会ったのは、サイラスの映画を見た時。お土産のポップコーンを食べながら、映画の感想――半分くらいは文句だったけど――を言いながら、だらだらと朝まで話した。それがすごく青春って感じで、オレは地味に感動していた。その後、シュリさんのことがあって、ずっと連絡をしていない。
 それが気まずくて、アポを取らずに部屋を訊ねた。「居なかったら仕方ない」って、自分に言い訳をしながら。
 時計を見たゼノは、何も言わずにすぐに修理に取り掛かってくれた。全部バラバラにして一つ一つの部品をチェックして、眼鏡洗うやつみたいな機械に入れていく。キーンと鳴り続ける高い音でなんだか耳がもやもやしてきて、ソファで待たせてもらった。

 ゼノの部屋にいると、飛空都市にいる気分になる。あの時の私室が住みやすかったから、似たような作りにしたらしい。オレは、あの頃を思い出すと懐かしさよりも恥ずかしさやもどかしさが勝って、ちょっとむず痒くなる。それに、見慣れた部屋で、見慣れない服を着ているゼノにも、モヤっとする。ゼノには秘密だ。

「予備パーツは大体持ってるんだけど、現物合わせで造形する部品があって……。ちょっと時間かかっちゃうけど、カナタ、待てる?」
「うん、大丈夫。急に来たのにありがと」
「よかった。でも、その……俺のお腹が待てないっていうか……だから、ごはん食べない?」

 手を洗って、キッチンに並んで立つ。ゼノが提案したメニューは、生姜焼き。必要な材料は、全部揃っていた。

「オレが来るって、知ってただろ」
「あはは……ロレンツォ様から、もしかしたらって連絡もらって」

 シュリさんが神鳥の人に助けて貰ったのを、オレだけが知らなかった。ゼノは知ってたのに、オレに黙っていた。それを知ってから、ゼノのことを避けていた。何通もメールを貰ってたけど、開いてすらいない。
 別に、ゼノが悪いわけじゃない。シュリさんが知られたくないことを勝手に教えたら駄目だから。でも、オレは割り切れない。なんなら、ゼノが独りで神鳥の人間になるって決めたことだって、未だになんでって思ってる。
 人には人の事情がある。どうしようもないこともある。口ではそう言って大人ぶってみても、ずっと喉の奥がチクチクと痛い。小さな魚の骨が刺さってるみたいだ。

(ほんと、オレだけガキのまんまだよな)
 ぼんやりとキャベツを切っている間に、ゼノは生姜焼きに味噌汁、卵焼きまで作り終わっていた。慌てて盛り付けると、キャベツの隣にお手製のマヨネーズを添えてくれた。
 いただきます、と手を合わせる。それからは、無言で食べた。肉をがぶりと噛みちぎって、奥歯で噛み砕いて、ごくりと飲み込んだ。懐かしい味が感情を昂らせる。
 悔しい。会いたい。どうして。知りたかった。もやもやした気持ちが一気に溢れそうになって、汗を拭くふりをしようとして、本当に汗をかいていることに気が付いた。
 これ、オレ好みの辛さだ。ゼノには辛すぎない? そっと隣を盗み見ると、やっぱりゼノは顔を真っ赤にして、ごくごく水を飲んでいる。

「ん、何?」
「あ、いや……前にも、こんな風にメシ食ったことあったなって、思い出して」

 好みの味にしてくれてありがとう、なんて言うのも気恥ずかしくて、誤魔化した。

「え? いつ?」
「とぼけんなって」
「だって、カナタと二人だけでごはん食べる時って、大体カナタ凹んでない?」
「うっせ」

 はは、と笑い声が揃った。

「俺はね、カナタのそういうとこ、良いと思うよ」
「ん、何が?」

 箸休めの卵焼きを齧る。いつもは甘いやつだけど、今日はしょっぱい。やっぱり俺の好きな味にしてくれている。

「ちゃんと、悲しいとか寂しいって感情を出すところ。しまい込んでると、忘れちゃうからさ。勿論、嬉しいって感情もね。カナタは、全部ちゃんと抱えながら前を向こうとしてるでしょ。それって凄いことだよ」

 ゼノがふにゃりと笑って、また水を飲んだ。何かを――多分、「俺と違ってさ」みたいなことを――飲み下した。
 良く見てるんだな、オレのこと。親じゃん、もう。料理も上手いし、飯食ってるオレをいつでも笑って眺めてるし。
 タレとマヨネーズでしんなりしたキャベツを茶碗に乗せて、最後の肉で米とキャベツを巻く。それを、ばくりと一口で食べる。これが一番美味い食べ方だ。食事マナーに煩かった母親ですら「ここまで美味しそうに食べるなら、お行儀なんてどうでもいいわ」としみじみと言っていたのだから、間違いない。

 御馳走様、と合わせた手を、そのまま胸のあたりに持ってきて、跳ねる心臓をジャケットの上から握りこむ。胸ポケットに入れたシュリさんの手紙に触れた感触があった。
 今日、オレは線を越えるために来たんだ。

「あのさ。ノアさんのお墓のこと……ちょっとショックだったんだよね。何も残らない、空っぽの墓なんて、おかしいじゃんって。タイラーだってきっと色々考えて、悩んだはずなのに」
「お墓はね、時々行ってるよ。掃除して、おやつ食べて、ついでに昼寝したり」
「サボりじゃん、罰当たり」
「タイラーも一緒だし。それに、ノア様は怒らないよ」

 確かに、あの人なら一緒に昼寝に付き合ってくれるだろう。穏やかな風が吹く、陽射しの柔らかな木陰でぼぅっとするのが好きだったから。

「あの時のオレ、ボロボロだったんだけど。シュリさんが手、繋いでくれた。普通、男同士で手なんて繋がないじゃん、子供みたいで恥ずかしくて……でも、振り払わなくてよかった」
「うん」
「なんか、嬉しかったんだ」
「うん」
「誰かと一緒に食べるメシって美味しくて、暖かくて……家族、みたいだと思った。ゼノは神鳥の加護を受けて……いつもオレを待っててくれて……きっと、いつか……オレが……」

 うん。耳元で、相槌が聴こえた。降り注ぐ光の中で聴いた子守歌みたいに、優しい声だった。
 

「シュリ様の居場所、探してみようか? ここのシステムなら、多分」

 遠慮がちな提案に、大丈夫と即答してみせる。

「オレ、これでも探偵だから。人一人くらい、探せなきゃシュリさんに笑われちゃうよ」

 ひらひらと手を振ると、ゼノがピカピカに磨いてくれた腕時計がちゃら、と軽い音を立てた。あんなに不釣り合いで重たく感じていた腕時計が、なんだかすごく、馴染んでいる気がした。

「そっか。何か持ってく? こっちの物置にも色々あるんだけど」

 案内された物置は、物置じゃなくて倉庫だろって広さで、整理はされているものの、仕事道具なのか趣味の発明品なのか、判別出来ない物であふれていた。張り巡らされたコードを踏まないように気を付けながら通路を進むと、シャッターの前に見覚えのある乗り物があった。

「あ、これって……借りていいやつ?」
「もちろん!」

 声を弾ませて、ゼノが駆け寄っていく。カバーを外してスイッチを押すと、すぅっとタイヤが浮かんだ。

「元々、カナタのために作ったんだよ? いつ渡しても大丈夫なようにしてたんだから。ついでにこれと……これも!」

 差し出されたのは、ヘルメットとゴーグルだった。ゼノが着けているものと同じデザインで、レンズの部分が薄い青色になっている。

「へへ、お揃い」

 はにかんだゼノに、いいじゃんって笑い返そうとして――ぐにゃりと視界が歪んだ。

「……あの、さ。オレ、ゼノにこんなに良くしてもらってるのに、心配してくれてるのに、勝手に自分だけが一人で辛いんだって、ずっと思い込んで……」

 貰ったヘルメットとゴーグルを抱き締めて、頭を下げた。これが、オレの最後の線。傷付く覚悟も、傷付ける覚悟も出来なくて、あの飛空都市の夜に置き去りにしてきた。

「スピネルの――ゼノが泣けないこと。おかしいなんて、言って……ごめん」

 また涙があふれそうで、ぎゅっと目を瞑る。カナタ、と足元から声がして、頭を下げたままおそるおそる目をあける。ゼノがしゃがんで、オレを見上げていた。
 目が合った。金色の瞳がゆるやかな弧を描いている。オレの涙がゼノの頬に降り注ぐ。流れ星が溢れていくみたいで、綺麗だった。

「そのバイクも、時計も、メンテナンスが必要なんだ。だから、時々――ううん、用があっても無くても、いつだって顔、見せに来てよ。待ってるから」

 立ちあがって、オレを抱き締める。また、喉がきゅうっと詰まったけれど、もう、痛くはなかった。

「うん。ちゃんと、会いに来る」
「約束だよ。……行ってらっしゃい」

 シャッターが開く。埃っぽい倉庫に、聖地の清々しい風が吹き込んだ。ばさばさと音をたててカバーが吹っ飛んでいく。慌ててメットを被ってゴーグルを付けて、シートに跨がる。

「行ってきます! またな!」

 返事の代わりに突き出された拳に、こつ、と自分のそれを合わせて、そのあと、パン!とハイタッチをした。
 ハンドルをぎゅっと掴んで、目の前に広がる青空に飛び込んだ。

 空は自由だ。道も、信号も、壁も、何も無い。境界線なんて、見えやしない。
 ロレンツォさんが言った意味が、なんとなくわかった。自分でハンドルを握って、自分で決めた道を往く。それが大人ってこと、かもしれない。
 もう、涙は乾いていた。だから振り返らない。一足飛びに超えられる線なんて無い。だったら足掻いて、進むしかない。弱さも、悔しさも、全部抱えたまま、オレは前に進む。そういう熱を、あの人から貰ったんだ。
 ミラーに映ったゼノがどんどん小さくなっていく。それでも、ゼノはいつまでも手を振ってくれていた。

 *

「あの二人……揃いも揃ってうちの店を物置扱いして」

 カウンターに置かれた大きな水槽を前に、ロレンツォが頭を悩ませている。やっとシュリの荷物を整理し終えたところを見計らったように、カナタが「サイラスに預けたら改造されるか解剖されるかわかんないでしょ」と持ってきたものだ。タイラーは?と聞いたら「あの人はちゃんと忙しいから悪いし」とさらりと言ってのけた。

「シュリに似て太々(ふてぶて)しくなって……いっそ、食べてしまおうか」

 憎まれ口を叩いているけれど、優雅に泳ぐ魚を覗き込む目は穏やかだ。この人、結構押しに弱いんだよね。笑いを噛み殺している私に気付いて、ロレンツォが何?と怪訝そうに目線を向けてくる。

「ロレンツォが愛されてるなぁ、と思って」
「興味や信頼と、好意は全くの別物だよ。ましてや愛、だなんて」

 縋るように伸ばされた手を握ると、そのまま体ごと引き寄せられる。

「……知れば知るほど、気安く口に出来なくなってしまった」

 抱き竦められて胸に埋まった顔を上げる。深い緑の髪が乱れて、彼の表情は窺えない。

「私は貴方を、愛していますよ」
「君の愛を疑ったことなんて無いよ。ただの一度もね」

 深いため息とともに、ロレンツォの体の緊張が解けていくのがわかった。彼は私を解放して、カウンターに腰を下ろす。机に置かれていた、読みかけの文庫本を手に取って呟いた。

「……アンジュ。カナタはシュリを見つけられると思う?」
「勿論。賭けてもいいですよ」
「即答かい? 持ち物だって、もう朽ち果てているかもしれないのに」
「大丈夫。だって、カナタは探偵だもの」

 クク、とロレンツォが小さく笑ったけれど、彼が握っている本の表紙――パイプを携えたトレンチコートの探偵の表情はアンバランスに歪んでいる。

「……寂しいですね」

 頭を優しく撫でながら、乱れた前髪をかき上げる。小さく震えた瞼にそっとキスを落とした。
 
 *
 
『皆さんこんにちは~お食事、楽しんでますか? ここからの時間は、マンスリーパーソナリティの……』

 昼のピークタイムを過ぎ、閑散とした店内。有線から流れるアイドルのトークを聞きながらテーブルを拭いていると、外を掃除している店長の元気な挨拶が聞こえた。続いて、扉が開く。

「いらっしゃいませ~」

 ヘルメットを携えた若い男。ツーリング客か。ダスターを畳んで、レジカウンターに入る。

「お決まりになりましたら、伺います」

 彼は小さく会釈をした後、レジの上のメニューを真剣な顔で睨んでいる。たっぷり三分ほど考え込んでから、意を決したようにカウンターのメニュー表を指さした。

「このセットで。ええとポテトはサイズアップで……ドリンクは、ジンジャーエールを」
「ありがとうございます。お作りしますので、少々お待ちください」

 一礼してキッチンに下がる。丁度店長が戻ってきていたので調理はお任せして、カウンターに戻ってトレイとドリンクの準備をする。

「ええと、お会計、これで合ってるかな」

 きゅっとつり上がった瞳が印象的な、溌剌とした顔立ち。自分と同じか、少し上? 大学生か社会人なりたて、くらいに見える。その割に落ち着いた雰囲気を感じさせるのは、丁寧な所作と、左腕のレトロな腕時計のせいだろうか。なのに、小銭の扱いは不慣れそうで、言葉も少したどたどしい。
 一言でいえば、ちぐはぐ。そんなことを考えているうちにフードが出揃っていた。

「はい、丁度頂きました。ごゆっくりどうぞ」  
「ども。ああ、なんかめっちゃ懐かしいな。いただきます」

 トレイを受け取った青年は爽やかに言って、カウンター席に座った。軽く手を合わせてから、ばくっとハンバーガーにかぶりついた。

「……変わらない味、サイコーすぎる。企業努力ってスゲー」

 一口、また一口と、目を閉じて噛み締めるように味わう様が可笑しくて、「そこまで?」と店長と顔を見合わせた。
 

「お兄さん、長いこと海外でも行ってたの?」

 ハンバーガーを食べ終わり、僅かに残ったポテトを齧っているお客さんに店長が話しかける。海外だとしても、ウチは全世界共通の味付けだから、そんなに変わらないはずだけど。

「そっすね、海外っていうか……別の星? 別の銀河? 昔の話だけど」
「なるほど。本場仕込みのアメリカンジョーク」
「店長、違いますって! 星外留学ですよ」
「……ああ! 今流行りの。コレね」

 店長が得心したように、店の四隅にあるスピーカーを指さした。

『以上、ここまでのパーソナリティはミラン君でした~。新曲を聴きながら、お別れです。ライブもよろしくね~ばいば~い!』

 ブフっと音がして、お客さんが苦しそうに咳き込んでいる。慌ててウェットティッシュを持ってきて渡すと丁寧に頭を下げられた。

「宇宙人アイドルなぁ。タコでも来るのかと思ったけど、ちゃんと人間でびっくりしたよ」
「あ、それ差別用語ですー。すみません、お聞き苦しいところを」

 コンプラ意識の低い店長をどついてお客さんに頭を下げる。星外留学を昔の話、などと言うのであれば結構年上の超エリートだろう。同い年くらいかな、なんて予想外れにもほどがある。
 彼はその若作りな顔の前で「全然、気にしないんで」と手を振ってから、「えーっと、今の人、何?」と歌が流れているスピーカーを凝視した。

「何って……ミラン様ですよ。太陽系一周ツアーでバースにも来てるんです。そのセットのナッツサラダもコラボメニューで」

 思わず、御存じないんですか?と詰めてしまいそうになったけど、遠い星に留学していたなら知らなくても不思議ではない。不思議ではないけれど――妙な人だ。年齢といい、立ち居振る舞いといい。異端さを感じさせる理由は、留学だけではない、気がする。
 御馳走様でした、と手を合わせた彼から、トレイを受け取る。

「お兄さんはツーリングですか? 変わったバイク……あれ、バイク、ですよね?」

 普段はどんな客だろうと気にかけることは無いが、妙な違和感がやけに引っかかって、思わず詮索してしまう。

「まぁそんな感じ。あのバイクは友達がカスタムしてくれたやつなんだ。かっこいいっしょ」
「へぇ~道理で。見慣れない形だなって思ってて。それで、どちらへ行かれるんです?」
「そうそれ。丁度聞きたかったんだよね。この座標の場所ってこの先の細い道で合ってる?」

 デバイスを出して、人差し指でくるりと円を描く。ここ一帯の地図が映し出されているが、何かフィルター処理がしてあるのか、彼が示した場所を中心にグラデーションが掛かっている。
 地図を覗きこんだ店長が「うぅん」と唸った。

「合ってるけど……何もないよ? だだっ広い草原で、海が見えるくらいで。なぁ?」
「この時期なら桜の写真撮ってる人がちらほらいますけどね。お兄さんも?」

 シャッターを押す仕草をして見せると、彼は首を振って、半開きのバックパックから覗いている酒瓶(それも結構、高そうなやつ)のキャップをするりと撫でた。表情が翳ったように見えたのは、伏せた睫毛が目元に影を落としたせいだろうか。
 そんな大人びた横顔は一瞬だけで、彼はすぐにカラっとした笑顔を見せる。

「ずっと、追いかけてる人がいて」

 人が、待ってる? ……あんなところで?

「えぇ? あんなとこにぃ? それはないんじゃないかなぁ?」

 流石に踏み込めないなと飲み込んだ疑問を、店長はあっさり口に出してしまう。ノンデリさに内心イラついたが、「この辺の人は、あまり近付かない場所なんですよ」とフォローする。

「そうなの? 桜の名所っぽいのに。あぁ、今ってお花見とかしない感じ?」
「あそこで宴会するつもりですか!? ぁ、いえ……あの場所は、うーんと」

 不思議そうに首を傾げている青年に向かって、身を乗り出す。別に他に客はいないが、なんとなく、この手の話は小声で話したい。

「幽霊が出るって、言われてて」
「ゆうれい? マジで?」
「ホントですって。火の玉を見た人もいるんですから」
「火……」

 半笑いだったお兄さんが、大きく目を見開いた。オカルトに詳しくないなら、ピンと来ない言葉だったかもしれない。

「人魂とか鬼火とか、ウィル・オ・ウィプスってやつですよ。つまり誰かが、その……えっと」

 思わず口籠もる。これからそこに行こうという人には不愉快な話だっただろう。実際、お兄さんは今にも飛び出しそうな勢いで身支度を始めている。

「てっ、天体観測には向いてるんですけどね! 街灯もなくて、真っ暗なんで……。とにかく、誰かと会うなら明るいうちじゃないと」
「そうだなぁ。行くなら今だよ。急げば、日暮れ前には着くだろうから」

 言いながら、店長が紙袋を持ってきた。大きさから推測するに、バーガーとポテトが二つずつ。一番下に土台代わりのナゲットの大箱が入っている、と思われる。いつ用意したんだ。

「え、テイクアウト頼んでない……ですけど」
「いやぁ、お兄さんの食べっぷりにおじさん感動しちゃったんだよね。作りすぎたから、オマケしちゃう。一緒に食べなよ」

 久々に会うんだろ、と店長がウィンクをする。「作りすぎ」は明らかに嘘だが、確かに旧友と桜を眺めながら食べるハンバーガーはさぞ美味いことだろう。恐縮してるお兄さんに、もらってやってください、と目で訴える。

「じゃあ、ありがたく。随分長く待たせちゃったからなぁ……これで勘弁してもらお」
「そうしなさい。飲酒運転はダメだよ」

 店長がバックパックを指差すと、お兄さんはニヤっと不敵な笑みを浮かべる。

「あぁ、あの酒? 良く見てんね」

 その悪戯っぽい表情や仕草は、放課後の教室でおしゃべりしている高校生そのものだった。やっぱり、ちょっと不思議な人だ。
 

「良い旅を!」

 一度だけ大きく手を振って、青年は地平線の向こうに姿を消していった。土の道に生い茂る雑草が、風圧で綺麗になぎ倒されている。

「……空飛ぶバイクって、実用化されてたんですね」

 流星もかくやという速度に腰を抜かした店長を引っ張って、店に戻る。土埃でいがらっぽくなった口をすすいだ。それから、二人で賄いを食べて、店内の掃除と次のピークの準備を急ぐ。
 ゴミ袋を持って外に出ると、辺りはもう暗くなり始めていた。はぁ、と吐き出した息がほんのりと白く霞む。

「あぁ、花冷えだ。……お兄さん、会えたんですかねぇ」

 雨上がりの空みたいな綺麗な目をしていた。雨が、降っていないといいけれど。

「会えただろ。ず~っと追いかけてりゃ、いつかは会えるもんだ。あの星みたいにさ」

 北斗七星と、それを追う一際明るい二つ星が見える。アークトゥルスとスピカ。春の夜空の代名詞ともいえる二連星は、数万年かけて徐々に近付き、遂には仲良く並んでしまったらしい。

「じゃあ、今度は、二人で来てくれるかも」

 言ったものの、なんとなく、その願いは叶わない気がした。
 ポケットに手を突っ込む。渡しそびれたクーポン券を、ぐしゃりと握り潰した。





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