しばし天より遠ざかり



 もしも願いが叶うならどうしたいか、と問われて、言葉に詰まった。
 令梟の宇宙が壊れないように……は、多分無理だ。みんなあらゆる手を尽くしてきて、この結果になったんだ。
 好きな人と結ばれるように、なんてそもそも願ってないし、願ったこともない。大好きなあの人が幸せなら、それでいい。
 家族と幸せに暮らしたい……とか、今更どうしたらいいんだろう。たとえ過去に戻れたとしても、生まれついたこの身体ではその後の未来を変えられない気がする。けど、この身体を否定したら、もう自分ではなくなるんじゃないか。
 美味しいものをお腹いっぱい食べたいとか、静かなところで好きなだけ寝たいとか、そんなふんわりした願いは、神鳥の宇宙に来てから、もう叶ってしまった。

 もしも願いが叶うなら、僕は一体どうしたいんだろう。

 *

 部屋の主に名前を呼ばれ顔を上げた。
 膝をついた絨毯越しに伝わる床の冷たさは、手放してきた自分自身の執務室のそれと似ている。
 闇のサクリアが満ちる空間は居心地が良い。けれどそれは同時に、自分が失ったものを思い出させもした。
 大きな手が伸びてきて、細く長い指で頭をそっと撫でられる。

「答えが見つかるまで、いつまででもここにいたら良い」

 クラヴィス様の言葉が祈りのように降り積もる。嬉しい。自分たちの力不足で居場所を失ったのに、こんなにも親切にしてくださる。ずっと憧れてきた人の気高さと優しさに、心が震えた。
 それなのに、曖昧な笑みを返してしまう。自分にとってこんなにもありがたいお話はないのに、どうしても「はい」の一言が言えなかった。

 どうしていつもこうなんだろう。
 居た堪れなくなって退室し、行く当てもなく宮殿の廊下を歩いていると、反対側からロレンツォが歩いてくるのが見えた。
 名前を呼び合うと、まるでそこが令梟の宮殿の一角かのように思えて、ちくりと胸が痛む。

「今日はどうしたの」
「報告だよ。令梟のサクリアによる悪影響が観測されたから、対応をジュリアス様に相談にね」

 緑あふれる庭園で、二人で腰を下ろしたガゼボの中は、時折暖かい風が流れる。ロレンツォが、明日の天気でも話しているような平坦な口調で、令梟のサクリアによる神鳥宇宙の天変地異の話をする。

「やっぱり聖地に近いほうが安定度が高い。離れるほど、リモージュ陛下の御力が届きにくくなるから、色んなことが起きてる」
「……たとえば?」
「常夏の星に氷山が現れたとか、深い森に大きな地割れが起こったとか、他には……そうだね、日が昇らないとか」

 眠れない子供に絵本でも読み聞かせるかのように、ロレンツォはタブレットから浮かび上がった報告書のページをゆっくりとめくる。
 神鳥の宇宙では、守護聖が動かずとも大抵は周りの人間が何とかする。記録を辿るのが大変なほどの年月をかけて積み重ねられてきた経験とシステム、女王の力、それから宇宙そのもののポテンシャル。そういったものが、根本的に令梟の宇宙とはまるで異なっていると知ったのは、こちらに越してきてからのことだった。

「気になる?」
「え……」
「ずっとこういう報告を受けては対応するような仕事をしてきたからね。突然もうしなくていいと言われて、取り上げられたような気持ちになってしまったかな」

 頷くことも、首を振ることもしなかった。できなかった。もやもやしていた感情を急に言い当てられたような気がするけれど、それが本当に合っているか、考える時間が欲しかった。
 なのにロレンツォは肯定と受け取ったように話を進める。

「神鳥のトラブルは基本的に小規模で、女王陛下や守護聖が視察に行くようなことはごく稀なんだそうだよ。聖地にいて、日々の平和を祈りながらサクリアを送る。ただそれだけで宇宙が円滑に回っている。こんなにも違うのかと……愕然とした」

 言葉と同時に息を吐いたロレンツォは、タブレットに手をかざして表示を消した。
 ロレンツォがショックを受けている姿は、片手で数えるほどしか見たことがない。なんと声をかけるか迷っていると、ロレンツォの方から「でも、だから大丈夫」と言葉を括った。
 この宇宙で大変なことが起きても、さほど間を置かず解決する。だから我々の出る幕はない。そう言いたいのだろう。
 でも、そこで人が死んでいるかもしれない。
 宇宙規模で見れば、一回の災害で人が一人死のうが百人死のうが、実際には大したことはない。それは長年守護聖を務めてきたのだから理解できる。
 だけど、人がひとり死んだら、その瞬間にその人の人生は終わる。その人に関わるすべての未来が途絶える。その人と関わりのあった人の人生だって変わる。変わってほしくないことも、変えたくないことも、否応なく変わってしまう。
 そのことも、長い濃密な時間を生きてきたノアは、痛いほど理解していた。
 そしてその原因が、自分のサクリアにあるかもしれない。もしかしたら、日が昇らない星で、眠るように死んでいるかも。

「思い詰める必要はないんだよ。私たちにできることは実際もうほとんどないんだ」

 前髪の隙間から盗み見たロレンツォの表情は、令梟にいた頃とまるで変わらないように見えたが、紡がれる言葉は当時と比べものにならないほど優しかった。

「私たちに与えられた使命は霧散した。やるべきことがないなら、何をしてもいい。時間は無限にある。何度か言っているけれど、これから先は余生なんだよ。途方もなく永い、ね」


 年の割に幼さが残る元同僚の頭をぽんぽんと叩き、ロレンツォはジュリアスの執務室へと足を向けた。
 宮殿の廊下をゆっくりと歩きながら、先ほどのノアの様子を反芻する。
 ノアには通じただろうか。もう自由に生きていいのだ、と。
 令梟の聖地にいた頃からノアは希死念慮があった。正確には、聖地に上がる前からだろう。それを、使命という鎖で縛りつけていたにすぎなかった。その鎖がなくなった今、彼に自由に生きろというのは、つまり。

「こんな伝え方をしたと知ったら、君は怒るだろうな」

 小さく呟いて、ロレンツォは一人、苦笑した。
 好きに生きていいというのは事実であり、本心だ。けれど、ノアが今まで背負ってきたものはあまりにも重い。もうすべて手放してよいのだと誰かが言ったところで、ノアは聞き入れないだろう。
 失ったもの、守れなかったもの、零れ落ちたもの……数えきれないほどのものを失くしてきたというのに、ノアにはたくさんの思い出と、途方もない力がまだ残っている。
 これからどのような生き方をするかは、ノアが決めることだけれど。

「彼の場合、生き方というよりも……命の使い方、という方が正しいかもしれないな」


 ロレンツォの背中を見送ってから、ノアはガゼボの天井を見上げた。
 何をしてもいい、という言葉が頭をぐるぐると回る。
 自由、願い、未来。これらが欲しくて堪らなくて、それでも手に入れられずに死んでいく人もいるのに。なんて贅沢なんだろう。僕はこんなにも恵まれているのに、どうしてこんなに……と思いかけて、守護聖になる前の日々が脳裏を掠めた。
 僕の人生は、恵まれていただろうか。
 やりたいことや願いが見つからないのは、恵まれているからではなく、本当は逆で、僕の人生が空虚だからなんじゃないのか。
 ハ、と。口から吐息が漏れた。
 生まれたところではやめろと言われ、やれと言われ。聖地に上がって環境が変わったらひたすらやれと言われ。別の宇宙に来て余生と呼ばれる時間をもらって初めて、やりたいことを探せと言われている。
 本当に何をしてもいいなら、もう終わりにしたい。それがダメならせめて、やらなくていいことを目一杯やりたい。そうしたら、もしかしてこの空虚な心が満足するかもしれない。
 それなら、なにかをしたという満足感を得られることをやろう。
 そうだ。守るものも、やるべきこともなくなったのに、自分の力のせいで困ったことは遠くのどこかで起きている。なら、僕がやるべきことは――――
 ガゼボの外にいた白い小鳥が、何かを見つけてパタタと飛び立った。ノアは目で追ったものの、あっという間に見失ってしまった。青空に浮かぶ白い雲に溶けるように、何物にも囚われないで。
 一筋の光を見つけたノアはすっくと立ち上がり、ロレンツォが向かったのとは別の執務室へと向かった。


「今まで、本当にありがとうございました」

 そう言って、ノアが精一杯の勇気で笑顔を作り、「行ってまいります」と頭を下げた。クラヴィスはただ、静かな夜を湛えた瞳でノアを見ていた。

「……決めたのだな」
「はい」

 クラヴィスが目を閉じて頷いたのを見て、ノアはもう一度頭を下げて、執務室を後にした。
 いつかこんな守護聖になりたかった。もう決して叶うことはないけれど。最後に憧れの人に送り出してもらえて良かった。
 感傷的な空気に鼻の奥がツンとなるのを感じながら重い扉をそっと閉じると、背後の廊下に物言いたげな気配があった。
 大きくため息をついて振り返ると、眉根を寄せたユエが腕組みをして立っていた。

「大体察しはついてんだぞ。長年の付き合いってやつだからな」

 こんな時ばかり勘がいい。

「そう。じゃアンジュには伝えておいてよね」

 優しい僕らの女王陛下は、このことを知ったら泣いてしまうかもしれない。そんなこと、自分では伝えられないけれど、ユエならきっとうまくやるだろう。これで気になっていたことは全て片が付く。心置きなく飛び立てる。

「は? お前が行くなら俺も行く」

 さもそれが当たり前のように、ユエは親指で自分自身を指した。

「え……帰ってくる予定、ないけど……」
「分かってる」

 ここで言い争っても、きっとユエは考えを変えない。それくらい分かる。長年の付き合いってやつだから。

「……好きにしたら」

 ノアが大きく肩をすくめると、ユエは白い歯を見せて微笑んだ。

 令梟の光と闇が神鳥の宮殿を共に歩いたのは、この日が最後となった。

 *

「ユエ、もうすぐ着くみたい」

 ノアが静かに俺を呼んだ。高速艇の窓に額を寄せると、宇宙空間に浮かぶ無数の星の中のひとつに、少しずつ船が近付いていくのが分かる。

「ここか」

 ノアが最初の目的地として定めたこの星には、ロレンツォのデータによると長い間雨が降っていないらしい。
 きっとここには、助けを求めている誰かがいる。
 高速艇が大気圏を抜け、地表が目視できたところで、着ていた室内着から執務服に着替えた。首から下げたブローチのきらめきが視界に入ると、自然と気が引き締まる。
 ハッチを開けて大地に降り立ち、ぐるりと周囲を見渡す。目に入るのは、岩場と荒地ばかりの茶色い世界だった。
 辛うじて残っている植物も、風に吹かれるたびに葉が崩れていく。事前情報でこの星の生態系が人類以外の生物で構成されていることは分かっていた。中型の動物の骨に虫が集まっていたり、岩場の影にはトカゲのような生き物が身を潜めているのが見えた。
 ノアと二人で、高速艇の移動中に資料や図鑑にはできるだけ目を通してきた。それでも、目の前の生き物がこれだと言い当てられるほどの自信はない。
 だが、生きた植物が見当たらないこの星で、水なしで生きていける生物は多くはないことくらいは分かる。
 なんとかしねえと。
 現状を正確に把握するため、タイラーから借りた端末でサクリアを計測する。そこに表示された数値は、埃っぽい空気の中に濃い光のサクリアが淀んでいることを示していた。

「……ユエのせいじゃん」
「な……俺⁉ いや、状況的にはそうかもしんねえが、俺がわざとやったわけじゃねーだろ!」

 そう言い返すと、ノアはそれを鼻で笑ってサクリアを放とうとしたので、思わず止めた。
 端末が自動で調整する時計によると、時刻は昼前。これから一番日が高くなる――つまり、光のサクリアが一番強い時間帯になる。経験上、こういう時は日が傾いてからの方が効果が高い。

「じゃあどうするの。ここでぼーっと夜まで待つって?」
「いーや。視察に行く。でないと、サクリアを送った結果が確認できないかもしれねえだろ。ほら、行くぞ」

 歩きたいわけではなさそうなノアの手を引き、ひび割れた大地を歩く。行けども行けども、見渡す限りの荒野で、森や山のような緑はなさそうだ。少し離れたところに大きな岩陰を見つけたので、そこで折り畳みの椅子を広げた。
 ノアが、ふうっと息を吐いて椅子に腰を下ろしたので、高速艇から持ってきていた水のボトルを手渡す。息をするたびに砂を吸い込み続けて、喉がいがらっぽくなっているから、休憩にはこれがいいはずだ。歩き疲れたノアは反発する元気もないようで、素直にありがとうと言って受け取った。おう、と返事をして、自分のボトルに口を付ける。ゴクリと水を飲み込むと、全身に染み渡るようだった。それから、二人でこの星の対処について話し合った。
 令梟宇宙では守護聖が送ればそのままうまく循環していたサクリアも、神鳥宇宙ではそうはいかない。大体が溶け込むことさえなく霧散するが、稀に吹き溜まりのような場所ができる。それによって生じる星や大陸の異常も、神鳥宇宙においては、様子を見ていれば自浄作用がはたらくように自然と元のあるべき状態に戻る。
 いつだったか、これらはひとえに女王と守護聖の力の賜物だ、と研究員の誰かが言った。それを間髪入れずサイラスが否定した。これこそが宇宙のポテンシャルだと。
 一つの花から取れた種を同じ土に蒔き、同じ量の水をやり、同じ場所で同じ時間の光を当てれば、まったく同じ花が咲くか? 否。蕾がつかない苗に肥料をやれば、すべての苗に蕾が付くか? 否。立派な花が咲けば、次の年も立派な花を咲かせる種を残すか? 否。宇宙も同じである、と。
 大輪の花が咲いた種と同時期に取った種を後から育てた時、後続の花も立派に咲くことを期待するのは仕方がない。植えた人間も、花が立派に咲くよう尽力した。植え付けの時期を確認し、土を整え、気温を管理した。水の量を確認し、日当たりを常に意識し、肥料を与える時には知識ある者に相談した。日々心を寄せ、何か他にできることがないか考えた。けれど、やっとのことで咲いた花は、すぐに枯れてしまった。
 大輪の花を咲かせ続けている方々は素晴らしい。しかし、それができなかった者の力が及ばなかったというわけではない。どうしようもなかったことで、誰の責任でもない。
 サイラスがそう締めくくった時、アンジュは大粒の涙をぼろぼろと零した。

「というわけで、神鳥宇宙に令梟のサクリアが何かやらかしたとしても、それも誰の責任でもありません」

 そう言って、サイラスはアンジュにハンカチを差し出した。

「新陳代謝を促すカンフル剤みたいなものだと考えればいいんです。神鳥研究員の面々は、レアな研究データが手に入るかもと浮足立っていますよ」

 ハンカチを受け取ったアンジュは、困ったように笑って、また泣いた。

 あのやりとりを、昨日のことのように思い出せる。首座たる己の命に代えても、女王にあんな涙を流させてはいけなかった。
 この旅に出たのは、自らの誇りと使命感によるものだし、きっとノアもそうだ。ノアが自主的にクラヴィス様のところを出たのが、その何よりの証拠だと思う。
 けれど、あの日の胸の痛みと悔しさは、他の誰に背負わせるものでもない。これから後悔しない生き方をする。そう決めていた。
 だから、この星の対応では光のサクリアを動かすことを提案した。が、ノアが珍しく強く自分がやると主張するので、今回は譲った。こいつにはこいつなりの思いがあるのだろう。
 黒髪の隙間から覗く金色の瞳は、今までにないきらめきを放っているように見えた。

 やがて日が落ち始め、空の色が紫がかる頃、ノアは「よし」と立ち上がった。
 すう、と大きく息を吸って、両手で水を掬い上げるように腕を差し出す。
 この星に必要なのは、水。だけどそれは直接的なもので、本質的には張り詰めた大気を和らげること。すなわち、安らぎ。
 闇のサクリア行使の邪魔にならないよう、数歩下がる。ざり、とブーツが砂を踏む小さな音でさえ邪魔になる気がするほど、ノアは集中している。
 一瞬風が止んだと思ったら、ノアの全身からサクリアが吹き出し、一直線に空へと突き抜けた。サクリアは目に見えないはずなのに、闇のサクリアが溶けた空は一気に暗くなったように思えた。
 直後、湿気まじりの冷たい風が頬を冷やした。遠くから雷の音が近付いてくる。雨が、来る。

 大急ぎで乗ってきた高速艇まで走ったが、ハッチに辿り着く直前で、ポツリと雨に鼻先を濡らされた。それから数秒後、ざあっと大粒の雨が大地をまだらに染め始めた。

「ふぃ~、ギリギリセーフ」
「アウトだよ……」

 マントについた雫をぱんぱんと叩き落とすと、隣の黒い執務服がその雫をすべて吸い込む。ノアは、「もう」と文句を言いながらそれを丁寧にハンカチで拭った。
 つい先ほどまで、一歩進むたびに砂埃が舞い上がり、乾いた風が鼻をくすぐっていたことなんて忘れさせるほどに、周囲は雨の匂いに満ちていた。
 雨音に紛れて、生き物が動く気配がする。高速艇の窓から二人で外を覗くと、狐に似た獣が一匹、ふらふらと岩陰から現れるのが見えた。
 皮膚病だろうか、毛はまだらに抜け落ち、痩せぎすの細い足でなんとか踏ん張っているという様子で、小さな水たまりの水を飲み始めた。水たまりは飲み干されることなく、どんどんその水面を広げていく。
 獣は休むことなく水を飲み続ける。雨はざあざあと降り続ける。他の生き物も動き出し、各々水を飲み始める。
 その様子を見守りながら、高速艇はそっとその大地から飛び立った。

 遠くなる水たまりを見つめながら、俺は胸が高鳴るのを抑えられないでいた。
 ノアはすごい。
 こいつがこんなにも直接的に星に影響を及ぼす力を使うところは初めて見た。本気を出せばお前はもっとすごいのにとこれまで幾度となく言ってきたが、これほどかと。
 ……俺も、こんな風に誰かのために力を使いたい。助けになりたい。あらゆる生命が誇りを持って生きられる宇宙を作りたい。
 この志は、どの宇宙にいようとも、胸のブローチと共に生涯輝かせ続ける。絶対に。
 指先でそっとブローチの輪郭をなぞると、俺に呼応してくれているように感じた。

 雨雲を抜けた高速艇が、星々の瞬く空を飛んでいく。
 このきらめき達が、少しずつでも俺の中にも宿るといい。それが沢山集まれば、ノアにも負けない力になるかもしれない。そう思った。

 *

「大きな星は異常が見つかりやすいから、聖地からの介入も優先度が高くなる――逆に、人類が生息しない土地や小惑星、人工衛星などはどうしても後回しになってしまう」

 俺たちの出発前、ロレンツォはそう言って、後回しにされてしまった星をリストにして渡してくれていた。
 そこから次にノアが選んだのも、また小さな星だった。

 資料によると、この星はここのところ異常に夜が長く、曇りがちの日々が続いているという。降り立った地の空気はどんよりと重く、息苦しい。

「蓋をされた鍋の中にいるみてえだ」

 この小さな鍋の中でも人類は生活をしており、そのうちの多くが長い眠りについているという報告の文字。ノアがそれを指でなぞり、数秒動きを止めるのを、横目で見ていた。

「早く解放してあげないと……」

 思い詰めたようなノアの呟きは、聞いていないふりをした。
 手元の計器の測定値は、ノアのサクリアとクラヴィス様のサクリアが変な混ざり方をして、うまく溶け込まずに淀んでいることを示していた。
 分離した水と油は、ドレッシングと同じように、丁寧に混ぜても放っておけばいずれまた分離する。この地ではおそらくそうなってしまうんだろう。それなら、本来この地には存在しないはずの、令梟のサクリアを取り除いたほうが早そうだ。

「僕がやるから」
「頼む」

 鍋の中で固まった油を少しずつ取り除くイメージで、ノアがサクリアを動かす。もとい、動かそうとしている。
 しかし、前の星のようにすんなりとはいかないらしく、闇のサクリアが放たれても、なかなか状況が変わらない。
 何かしてやりたいが、ノアの様子とサクリアの測定値を交互に見ながら様子を窺うことしかできない。やっぱり昼に闇のサクリアを行使するのは効率が悪いんじゃないだろうか。
 それでも、早く助けたいというこいつを止めることはできなかったし、今から止めることもできない。ノアの意志の強さはそれほどだった。
 どこかに力が入っているのか、目の前のノアのこめかみに汗が光り、しまいには顎に伝い始めた。それに応えるように、少しずつ、少しずつ、空に張り付いた二つの闇のサクリアが散っていく。
 その数値の変動とともに、ノアの顔色は悪くなっていく。焦点が合っていないように見える。止めたい、止めないと。でも、こんなに必死なノアを止めることは、俺にはできない。
 どれほどの時間が経っただろう。ノアは最後のひとかけらのサクリアを握り潰すように両の拳をギュッと握った。そしてそのまま気が抜けたのか、がくんと膝をついた。

「おい!」

 慌てて近付くと、ノアはゆらりと立ち上がった。

「……さすがに……疲れた……」

 ノアが空に向かって、はあっと大きく吐いた息は、白く染まった。力を振り絞って赤く染まったノアの頬と対照的だと思った。二人で見上げた空には、いつの間にか星がちらつき始めていた。
 しばしぼんやりとしていると、急に寒気に襲われて、襟元を顔に引き寄せた。開いた鍋蓋から冷気が降りてくるように、気温が下がり始めたようだ。これがこの星本来の気候なんだろう。
 もしここが雪の降る地域なら、フェリクスの故郷に似た景色が見られたのかもしれない。
 訪れたこともない元同僚の故郷に思いを馳せていると、ノアがくしゃみをして、ぶるりと震えた。汗をかいていたから、俺よりも寒く感じるだろう。肩のマントを外して、頭から掛けてやった。

「ちょっと今日のは強引だったんじゃねえか? 風邪引く前に撤退するぞ」

 ノアの背中を押して高速艇に乗り込む。船が高度を上げる時、民家の明かりがあちらこちらで灯されるのが見えた。ああ、人の営みが帰ってきた。
 そう感じてほっとした時、ノアが窓の外に向かって小さく言った。

「……よかった」

 その言葉には、何も言わず、けれどしっかりと頷いた。

 ノアはその日の夜からしっかり熱を出し、丸二日ほど下がらなかった。
 誰かの看病をするのは久しぶりだ。故郷の妹達のことが思い出されて、自然と口元が緩んだ。
 汗を拭くタオル、着替え、薬にお粥。両手両脇でそれらを持ち、パーティションを足でずらす。熱にうなされるノアの枕元に腰かけ、そっと声をかけた。

「ノア。ノア。飲み物、冷たいのと冷たくねえの、どっちがいい」

 俺の声に反応してうっすらと目を開けたノアは、冷たくないの、と吐息交じりに答えた。「りょーかい」と返事をし、持っていたものをその場に置いて、常温のボトルを取りに行った。

「寝転んで飲んだら変なとこ入るぞ。起ーきーろ」
「うう……」

 ノアの上体を起こそうと背中に手を差し入れると、ノアの背中の汗が手ににじんだ。起き上がったノアに、蓋を開けたボトルを手渡すと、ノアはぐいっと中身を飲んだ。

「……なにこれ」
「ヴァージルとシュリが教えてくれた、疲れた体に効くってレシピだ」

 水分と塩分と糖分、それからいくつかの栄養。味見はしていないが、材料は理想的なものを入れたので、自信がある。いつまでも料理と相性が悪い俺様ではない。
 フフンと鼻を鳴らすと、ノアは訝しそうにボトルを見た。

「……ほんとに?」
「いいから飲め。ゆっくりだぞ」

 まずいとまでは言わないけど、などと首をかしげながらも、ノアはゆっくりと時間をかけて飲み干した。
 その様子がどうにも懐かしくて、顔がにやけるのを手で隠した。それを見たノアが、顔を覗き込んでくる。

「? なに」
「……今だけ俺様を、『お兄ちゃん』って呼んでもいいんだぜ」
「気持ち悪」
「あっ可愛くねーな! 弱ったときは誰かに遠慮なく甘えたいだろうと思ってだな」
「逆じゃないの。甘えてほしいの? オニイチャン」

 くだらないやり取りをしていると、令梟にいた頃の気安さを感じられて、少しほっとした。
 この旅に出てからのノアはずっと張り詰めていて、熱を出して当然だと思えるほど力を使っている。それは、あの頃とは別人のような働きぶりだった。
 がむしゃら……とは違う。闇雲というか……鬼気迫る、とでも言うのだろうか。
 なんでノアはそんな力の使い方をしているんだ? 人助けのため、はそうだろうが、こんなになるほど無茶をするほどの理由にはならない気がする。
 そもそも、どうして急に人助けをする気になったんだ? いや、そもそも、ノアの目的は本当に人助けか……?

「オニイチャン、着替えるから出てって」

 ノアに声を掛けられ、ハッと我に返った。

「ちゃんと食えよ」

 そう言いながらパーティションを閉じると、「分かってる」とぶっきらぼうな返事があった。ノアはいつも通りだ。おそらく発熱の山場は越えたのだろう。
 そのことに安心しながら自分の寝台で横になり目を閉じたものの、先ほどのもやもやのせいで、なかなか寝付くことはできなかった。

 翌朝、俺がノアに起こされたときにはもう、次の目的地の上空だった。
 一見、星そのものは正常に動いているようだが、レポートの精密な観測結果によると、民は原因不明の不眠に苦しんでいるという。
 どういうことかと首を傾げながら、現地に足を下ろすと、突然息苦しさと眩暈に襲われた。
 俺よりも一足先に出たノアがたまらず前かがみになるも、なんとか一人で深呼吸をして姿勢を正していた。昨晩で熱は下がったものの、体力は完全には戻っていないんだろう。

「俺は耐えられるけどよ、お前病み上がりだろ。もう一日くらい休んでもいいんだぞ」

 困っている人は助けてやりたい。それは分かる。できるだけ早く。それも分かる。だがそれらは、自身が万全であってこそだ。違うのか、ノア。

「大丈夫」

 ノアは俺の顔も見ずにそう言い、サクリアの気配を読み始めた。
 旅の目的について、迂闊に聞けばはぐらかされるだろう。あるいは嘘や沈黙で逃げられる。なら、こちらから特定するまでだ。お前は、どうしてそこまで。
 じっと観察していると、何かしらの反応を得たらしいノアがゆっくりと目を開いた。

「……ジュリアス様のサクリアが強すぎる」

 手元の計測値を確認する。ノアの言っていることはおおむね間違っていない。だが。

「それは言葉が足りなさすぎる。これは……お前のサクリアとジュリアス様のサクリアの衝突か?」

 令梟の闇のサクリアがどこからか流れ込んだのを、神鳥の光のサクリアが散らそうとして、一時的に力が強くなっている。端末にはそう読み取れる数値が示されていた。

「うん。僕の責任だ」
「それも言葉が足りねえ。『俺たちの』責任だ」


 二人で高速艇から降り立った丘を下り、町の見えた方角へと歩く。この間の星ほどではないものの、やはり寒い。
 現地時刻に自動調整された時計には、間もなく日没と示されている。生き物が多く生息する星でのサクリアの操作は、夜に行うのが影響が小さいと俺が予想し、ノアもそれに賛成した。これからは、夜の活動が増えるのかもしれない。
 町に近付いても、明かりが増えないことに違和感を抱いた。もうかなり暗くなってきているというのに、明かりがついている民家が少ない。人々は家の中にいないのだろうかと町の中を二人で視察したところ、通りの人出もまた少なかった。多くの人が、明かりをつけていない家の中にいるようだ。
 くるしい。しんどい。あたまがいたい。ねむりたいのに、ねむれない。
 窓から見える屋内の様子では、大人は顔色が悪く、小さな子供はぐったりとしていた。
 おそらく、俺たちが介入しなくても、あと数日もすれば自然と解消する現象だろう。それはサクリアの推移予測から分かる。
 だが、こうなるまでに、もうそれなりの日数が経過しているはずだ。それに、この町の様子を目の当たりにして、放っておくことなどできない。
 そう思った瞬間、不意に路地から男が現れ、ノアの肩を掴んだ。

「あんたら、一般人じゃないな! 聖地からの助けか!」
「え、」
「俺の母親が! もうずっと病気で……!」

 男は長身ながらも痩せぎすで、上着の長袖の先から見える手首は骨ばっていた。獣のような目がぎらぎらとしている。
 ノアがそれと目を合わせてしまい、反射的に息を呑むのが分かった。咄嗟に、青年の骨ばった手を剥がし、ノアを後ろ手に庇って一歩下がり、距離を取った。
 クソ、気配薬を使っておくべきだった!
 歯噛みしながら、じりじりと間合いを広げていく。相手の出方を窺っていると、背後のノアがそれを制止した。

「多分……大丈夫だよ。どうしたのか、話くらい聞いてあげよう」

 ノアの言葉を聞いた男は、泣きそうな顔をして短く礼を言い、嗚咽交じりに話し始めた。

「もうすぐ星になるんだろうってくらい具合が悪いのに、眠れないんだ……頼むよ……助けてくれ……眠らせてやりたいんだ……」

 そこで初めて男の顔を直視した。よく見ればまだ若く、ノアやゼノと変わらない年頃ではないのか。
 男自身も目の下のクマは色濃く、健康状態も良くはなさそうで、疲労感が全身を包んでいた。それでも母親の安らぎを求めて――偶然か必然か――闇の守護聖に助けを求めてきた。
 その話を聞いて、ノアは指輪を抜き取った。
 ノアが初めて守護聖として宮殿に招かれたいつかのあの日、執務服と一緒に渡されていた、あの指輪。ノアの闇のサクリアが刻み込まれている――それ故に、他の誰も身につけることはできなかった――あの。
 それが、ハンカチに包まれて、ノアの手から初対面の男の手に渡された。

「どうしても見ていられなくなったら、この指輪をお母さんにつけてあげて。間違ってもあなたがつけちゃダメだからね」

 渡された男の目に、光が宿った。そして深く深く頭を下げて、飛び出してきた路地を走って戻っていった。
 愕然とした。信じられなかった。
 守護聖として、自分自身とずっと共にあったものを、あんなにも未練なく手放せるのか。これからも旅をするのに、サクリアの制御を最も行いやすい執務服の一部を失っていいのか。
 ……失っても、いい?
 それは、つまり――?

 俺の考えがまとまる前に、ノアが足早に町を通り抜ける。その後ろをついていく。町全体を見下ろせる高台に登ると、ノアは祈るように指を組み合わせた。
 ごめんなさい、と小さな声がして、闇の力が宙に放たれた。
 ノアの内側から、激しい川の流れのようにサクリアが湧き出す。その大いなる奔流が、ジュリアス様の強い力に全力でぶつかる。……が、うまくいかない。
 上空で待ち受ける強固な光の存在感は、ノアの闇の力でもたじろがない。
 それなら逆に、とノアは力をゆるめた。強くぶつけるのではなく、混ぜ込むように柔らかく力を送っているようだ。すると、ジュリアス様のサクリアが闇のサクリアで中和され始めた。
 ゆっくりと、けれど着実に。しばらくすると、星全体を覆っていた息苦しさが和らぎ、うっすらと雲が覆ったようになっていた星空がクリアになってきた。
 ノアの瞳は変わらず力強い光に満ちている。人々が安らぎに包まれて、眠れますように。そんな思いが伝わってくる。
 しかし、自分自身をすべて捧げるようなやり方で、何もかもを手放してもいいかのような振る舞いで、本心で願うことは、それではないだろう。ノア、お前の、願いは。

 闇のサクリアが夜空いっぱいに広がり、神鳥の光のサクリアと令梟の闇のサクリアが対消滅するのを見届けて、ノアはその場に倒れこんだ。

「ノア!」

 急いで駆け寄り、抱き起こす。腕の中のノアは、浅い呼吸を繰り返しながらうっすらと目を開けた。

「…………ここまでやっても、まだ、死なない、んだ……」

 まさかと思っていた。信じたくなかった。だから考えないようにしていた。

「バカ! ……怪しいと思ってたんだ。お前にしちゃ何かと意欲的すぎるって……けどまさか本当にこんな、こんな……」
「こんな……緩やかな自殺みたいなこと、すると思わなかった?」
「!」

 いつからそんな願いを? ずっと? 答えを聞きたくない質問が口をついて出そうで、うまく言葉が選べない。
 何も言えずにいると、ノアは俺の腕を支えにして、よろめきながら立ち上がった。ぐらついても、ノアは一人で踏ん張り、背筋を伸ばした。

「本望、なんだよ。自分の力を、誰かのために、目一杯使えるなんて」
「ノア……」
「やっと持てた願いを叶えて、それで僕は、ようやく終わることができる」

 はあ、と深く吐かれたノアのため息は、白くなって闇に溶けていく。俺はじっとノアを見つめた。金色の瞳には星の光が映る。
 頬は赤みを帯びていて、俺が長年見てきたどの横顔よりも生気があった。

「……お前は、どうして旅をするんだ」

 ようやく選んだ言葉は、とてもシンプルだった。それに対するノアの言葉もまた、シンプルだった。

「……精一杯、生きるため」

 願いを叶える生き方を、ノアは選んだんだ。誰にも揺るがすことのできない、誇りある生き方を。


「それより、まだついてくる気? ユエは一度ジュリアス様のところに」
「お前を独りにはしない」

 最期の時に独りなんて、そんなのは許さない。お節介だと思われようと、絶対に見届ける。宇宙で一番誇りある生き方をする、対のことを。
 相棒の即答に、ノアは苦笑した。困ったように、けれど生き生きと。

「好きにしたら」

 *

 僕の前髪が長くて良かった。
 こんな不意打ちで泣きそうになっているところを、他でもないユエに見られずに済んだ。
 ずっと、最期を迎える時は独りだと思っていた。そばに誰かがいてくれるなんて、思いもしなかった。いや、やっぱり少しだけ期待していた。ユエのお節介は筋金入りだから。

 星空の下を、光と歩く。
 行きたい星を自分で選んで、たくさんの人を助ける。やりたいと思ったことを、全力でやる。
 ユエはいつも肯定してくれる。どうしたらいいか、一緒に考えてくれる。
 言い合いになっても、喧嘩しても、険悪になっても、必ず隣にいる。
 闇のそばには光がいないと、って、当たり前みたいに。

 もしも願いが叶うなら、共に生きてくれた光に誇れる生き方をしたい。
 そう思った。





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