旅路の向こうに



 夜の闇のいたるところで、囀りのような軽やかな音がしました。

 ねえねえ。
 ひそひそ。
 くすくす。

 ご存じでしょうか。
 神鳥の聖地では、ひときわ美しい夜に、命なきものたちがおしゃべりをするのです。
 サクリアは命あるものたちだけでなく、宇宙に存在するものにあまねく存在します。
 そのサクリアに満ちた土地ですから、不思議なことではありません。
 ジュリアスは、その夜、書斎にあるデスクの上に私を置いたままにしておきました。
 いつでも、あらゆるものをきちんとあるべき場所にしまう人ですから、とても珍しいことです。
 このときは、私に呼吸をするための時間をくれたのだと、そう思います。
 ずいぶん長いこと、抽斗(ひきだし)の奥にしまわれていたものですから。
 窓に瞬く星の光は美しく、風の気配が私の心をざわめかせます。
 私のなかの翼あるものが、外の世界を恋い焦がれるのです。
 あるいは、かつて彼と旅した記憶がそう思わせるのかもしれません。
 すぐ隣にいた文箱が、話しかけてきました。
 君の話を聞かせてくれる?
 もちろん、と私は答えました。
 私の胸に、数え切れないほどの思い出が蘇りました。忘れ得ぬ、あの素晴らしい日々。
 私の長い物語は、二つの光からはじまります。




 私は主星にある職人通りの片隅で、腕の良い職人によって作られました。
 年老いた職人の節くれ立った指は、まるで自分の命を与えるように、私の身体に見事な神鳥の意匠を彫り込みました。
 かつて金の塊であった私は、ブローチと呼ばれる装飾具に姿を変えました。
 そうして、私は小さな飾り箱にしまわれました。
 同じ職人の手に成る箱は、私が傷つかないよう、内側に柔らかく上等な布が張られていました。
 それはまるで女王のベッドのようで、ゆっくりと眠るのにぴったりでした。
 心地よい眠りについてから、どれほどの時が経ったのでしょうか。
 声が聞こえました。彼方で響く風のような、微かな声でした。
 蓋がゆっくりと開いたとき、遠ざかりつつある淡い微睡みのなかで、私は鮮烈な光の眩しさと、その後に続く暖かさを知りました。
 天から降り注ぐ二つの光を、懐かしい、と感じたのはなぜでしょう。
 私の身に刻まれた神鳥がそう思わせたのかもしれません。
「ジュリアス様、このブローチは」
 すぐ近くで、息を飲む気配がしました。
「私からの贈り物だ。ユエ、首座の守護聖としての務めは、終わりなき旅路にひとり臨むようなものだ。令梟宇宙の状況を鑑みれば」
 少しの間をおいて、ジュリアスは続けました。
「そなたの旅は困難なものとなるだろうが、これを身につけていれば、女王陛下の加護により災いから護られよう」
「女王陛下の?」
 不思議そうに問いかけるユエを、穏やかな声音が包み込みました。
「神鳥宇宙の女王陛下の御力が、直接令梟宇宙に及ぶことはない。だが、心は違う。陛下のご慈悲は、友なる世界への祈りは、宇宙を超えてそなたに良い影響をもたらすだろう」
 ややあって、形の良い、輝くような指先が、箱から私を取り出しました。
 それまで素晴らしい寝床で過ごしていた私は外気の寒さに身をすくませましたが、一方で、これからはじまろうとしている物語に目眩がするような喜びを覚えたものです。
「ありがとうございます」
 そのときの私はまだ知りませんでしたが、二つの宇宙の光は、この日はじめて出会い、交わったのです。
 清々と澄んだ声で言ったきり、ユエと呼ばれた人は唇を結び、なぜか、泣くのをこらえるような表情をして、ジュリアスと長いこと視線を合わせていました。




 光が私に物語を与えてくれましたが、世界にあるのは光だけではありません。
 目映い光があるところにはいつも、ひっそりと闇が息づいていました。
 令梟宇宙で、首座の守護聖として懸命に勤めを果たそうとするユエの周りには、自然と、人の輪ができました。
 ユエの放つ光は煌びやかであると同時に、どこか、人の心を和ませる力がありました。
 彼の胸で、彼の光によって輝けることを、私は誇りに思いました。
 そうして、ユエの一番近くにいるうちに、彼の眼差しの向こうには、いつも、闇を纏った静かな人がいることに気がつきました。
 彼はノアという名で、どこか背を丸めて眠る小さな動物のような雰囲気を持っていました。
 ユエの毎日は、まるで闇との追いかけっこでした。ノアにどんなに冷たくあしらわれても、ひどい喧嘩をしても、翌日にはけろりとして、ユエはノアの執務室を訪れるのでした。
 それは、令梟宇宙がなくなって、ユエとノアが守護聖と呼ばれることがなくなってからも、変わりませんでした。
 ユエの守護聖としての旅路は目的地に着かないまま終わりを迎えていましたが、それはまた、別の旅のはじまりでもありました。
 そして、新しい日々に続く旅の道連れは、やはりノアなのでした。
 たいてい、ノアは夜のうちに行き先を告げずふらりと出かけてしまうので、ユエは旅支度もそこそこに、慌てて彼の後を追います。
 ユエは令梟宇宙の守護聖であったときと同じ服を身に着けていましたが、私だけがマントから外され、金の鎖に結びつけて首から下げられていました。
 ユエが守護聖の任を降りたのだと知らしめられているようで、寂しくはありましたが、彼の温かい鼓動を感じることができるのは、幸せでした。
 宿屋の一室で燭台を間に挟んで、あるいは深い森のなかで火を囲んで、ユエとノアは、時々、むかしの話をしました。
 そこで、私は知りました。
 ユエとノアが守護聖ではなくなった今も、身体にサクリアが残っていること。女王を深く愛していたこと。言葉にはしなくても、二人の心がまだ、故郷の宇宙に残されたままであること。喧嘩ばかりしているようで、彼らがお互いをとても大切に思っていること。

 ある星にやってきたとき、ノアが深い溜め息をつきました。
 そこでは、長いこと雨が降っていませんでした。雨のない世界で、大地に生きる命あるものすべてが苦しんでいました。
 光のサクリアがあまりにも強すぎたのです。
 その光からは、ジュリアスではなく、ユエのにおいがしました。
「予想通り、だね。令梟の光のサクリアの影響だ。ユエも感じてると思うけど」
 ユエは歯噛みしました。
「なら、サクリアを俺のなかに戻して」
「それには及ばないよ。僕のサクリアをぶつけて、打ち消す」
「待てよ。これは俺のサクリアが引き起こした事態だ。俺が責任を持って」
「ユエにサクリアを戻したとしても、また何かの拍子で放出される可能性がある。そんなの、無意味な堂々巡りだ。僕たちの仕事は……終わらせること」
 彼らが何を終わらせようとしているのか、私にはわかりませんでした。
 でも、ユエはすべてを承知しているのだと思いました。
 彼はきれいな碧い瞳で、ノアを凝視しました。
 ノアは普段からとてもゆっくりと静かに話す人ですが、このときは、とくべつ、夜明け間近の深く重たい闇を思わせる声で言いました。
「ユエは僕のこと、信じられない?」
 ユエはぐっと言葉を飲み込みました。それが、ユエの答えでした。
「僕たち、対の守護聖だったと思うけど」
 認めたくないけどね、と言い添えて、ノアは微かに唇に笑みを浮かべました。

 その日の夕暮れどき、私は高速艇のデッキで、濡れたユエとノアと一緒に、痩せこけた大地に響く雨音を聞いていました。




 私たちの旅は途方もないほど長く、果てはなく、すぐ近くを流れゆく年月のなかで、星々では無数の命が生まれ、消え、また生まれては消えていきました。
 ノアは、自分のサクリアがどの星で、どの土地で求められているのか、ちゃんと知っていました。
 そして、たとえ大きな苦しみを伴うとしても、必要とされているなら、迷うことなく自らの一部を分け与えました。
 サクリアの混乱であえぎ、苦しんでいた星々は、安らぎを取り戻しました。
 そんなとき、他の誰でもなくノア自身が、安らいだ、穏やかな表情をしているのでした。
 ただ、ユエは違いました。
 ユエは、ノアがサクリアを使うとき、まるで痛みを堪えているかのように、ひどく固い顔をして、対の守護聖を見つめることがありました。
 時には、サクリアを行使しようとするノアを制止することもあり、言い合いになることもありました。
 このときのユエの瞳には、どのような未来が見えていたのでしょうか。
 旅を重ねるにつれて、ノアの身体はだんだんと弱っていきました。
 彼らがカステラと呼ぶ柔らかいケーキと温かいミルク以外はほとんど何も食べなくなって、指も首も、ますます細くなりました。
 寝ている時間が増え、動くことのできる時間が短くなりました。
 ユエはそんなノアを心配して、何かにつけて世話を焼きましたが、ノアはそれを冷たく払いのけました。
「君は、早くどこか別の場所に行きなよ」
 ノアは、かすれた声音で告げました。
「僕をひとりにして」
「……できるかよ」
 ユエは絞り出すように言いました。
 でも、その美しい、青碧の眼差しは、もっと多くのことをノアに伝えたいのだと叫んでいました。
「ユエがいると、迷惑なんだ」
「迷惑? 俺は……」
 ユエは片方の眉を上げました。
「放っておいてよ」
 そこまで言うと、ノアは、ぷつりと糸が切れたように眠りについてしまいました。
「ああ……クソッ!」
 握り合わせた拳を膝に叩きつけるようにして、ユエは項垂れました。

 宿屋のベッドにノアを残し、ユエが食料を求めて街に出たことがありました。
 出かける前、ユエは私を首から外してノアに持たせました。
 彼に危険がないように、女王の加護があるようにと。
「ユエって、本当にバカだよね。街中に出る方がよっぽど危ないのに」
 呆れたように言うノアの唇が、柔らかい笑みをつくりました。
 すっかり皮ばかりになった指先が、神鳥のラインをゆっくりとなぞりました。
 ノアの指にはめられていた銀の指輪は、旅の途中である青年の元に渡りました。
 どんなにノアの指が細くなったとしても、彼ならば必死にしがみついていたのだろうと思うと、たまらなくなりました。
「君は、僕を不幸だと思う? そうかもしれない。失ったものも、手に入れられなかったものも、届かなかったものも、たくさんある。でも」
 しゃべるだけでも苦しいのか、だんだんと、息が途切れがちになります。
 ノアはそれでも、物語ることをやめませんでした。
「クラヴィス様と僕のサクリアが溶け合うとき、世界がとても静かになる。僕の欠片がこの宇宙の一部になって、それがいつか令梟の宇宙に繋がる、そんな気がするんだ。女王陛下が、僕たちを導いてくれているみたいに。僕は生きているって、今、とても思う」
 子どもみたいに笑って、ノアは、私をぎゅっと握りしめました。
 もし私に腕があったなら、きっと彼を抱きしめていたでしょうに。
「こんなこと言ったら、またユエに怒られるかな」

 それからほどなくして、ユエに手を握られながら、ノアは眠るように息を引き取りました。夜明け前、一日で一番闇が深く、濃いときでした。




「やあ、ユエ」
 神鳥の王立研究院で出会った男は、深い緑の髪を揺らして微笑みました。
 ユエの古い知り合いらしく、ユエは驚いたようでした。
「ロレンツォ!」
「直接顔を合わせるのは、どれくらいぶりだろう? 月日を数えるのをやめてしまったから、見当もつかないが。とにかく健勝な様子で何よりだ」
「お前も。じゃあな」
 片手を上げてすたすたと立ち去ろうとするユエを、ロレンツォは引き留めました。
「そんなに急いでどこへ?」
「お前には関係ねえだろ」
「聞くところによると、ずいぶん忙しくしているようだね」
「誰からの情報だよ」
「想像にお任せするよ」
 軽く唇の端を上げたロレンツォに、ユエは噛みつくように言いました。
「ああ、そうだよ。行くところがあるんだから邪魔すんな」
 はっきりとは口にしませんでしたが、ロレンツォはノアという人のことも、彼の死も知っているのだと思いました。
「令梟の宇宙から持ち込んだサクリアは、神鳥の宇宙と同化が進んでいるようだ」
 彼は、ゆったりとした口調で告げました。
 主の腕が動くたび、胸元を飾ったアクセサリーが、しゃらり、しゃらりと誇らしげに歌うような音を立てました。
 私もユエの胸にいるのが嬉しいものですから、その気持ちがとてもよくわかります。
「最近ではほとんど異常値がみられなくなった」
「そうか」
「君は、十分に役目を果たしたと思うが」
「……驚いた。お前、人に気遣いとかできるんだな」
「褒められている気がしないな」
「褒めてねーからな」
 ここではじめて、ユエの顔に笑みが浮かびました。
「お前、ひとつ間違えてるぜ。役目を果たしたのは俺だけじゃない」
 ユエは、まるでその先に星の光が見えているかのように、青く澄み渡った空を仰ぎました。




 いくつもの朝が巡りました。
 ユエはそのひとつを、ある星で迎えました。
 白い息とともに、ユエが気持ちよさそうに欠伸をするのを、私は、大きく弾む胸の動きで感じていました。
 温かい深呼吸からは、深い安堵と喜びが伝わってきました。
 それは、特別な朝でした。
 その星は、終わりのない、長すぎる夜に苦しめられていました。
 長すぎる夜をもたらしたのは、失われたはずの力、令梟宇宙の闇のサクリアでした。

「闇のサクリアが多すぎる?」
 神鳥の王立研究院で、ユエは驚きを無理やり抑えたような声で尋ねました。
 ユエの前にいた細身の男が頷きました。
「はい。いつまで経っても朝が来ず、民が困り果てている、とまあそんな状況です。ご覧下さい」
 男が最後まで言い終わる前に、ユエは身を乗り出してディスプレイを凝視していました。
「そんなに近づいては、逆に見にくいんじゃないでしょうか」
「これは……クラヴィス様の力じゃねえな」
「ワーパチパチパチ、といったところでしょうか。ご明察です。もしかして、この展開を予想されてましたか?」
 男の口元は笑っていましたが、心は笑っていないように見えました。
「神鳥と令梟の闇のサクリアが混在している、ってわけか?」
「つまりはそういうわけですね。令梟の……元女王が自らの宇宙を神鳥の宇宙に吸収合併させた際に、サクリアの混濁が発生した模様です。長い年月を経て、それが顕在化したと」
「だが、令梟の闇のサクリアは」
「主を失っている。なので、あなた様をお呼びしたのです。対の守護聖であったユエ様なら、どうにかできるかと思いまして」
 以前にも、同じような事案を扱っていらしたようですし、と男は言い添えました。
「おいおい、ずいぶん大雑把じゃねえか。それ、王立研究院の分析の結果なんだろうな」
「いえ、言うなれば私の勘です。……信じてないというお顔をされてますね。思い切り」
「そりゃそうだろ」
 サイラスは唇の端を引き上げました。
「さらに正確に申し上げれば、私の勘というよりはこちらの意思という方が近いでしょうか。手、お借りできますか」
「手?」
「おっと、握手じゃありませんよ」
 ユエの掌に、小さな、銀の指輪が置かれました。
 まるで古い友人と再会したようで、私は懐かしさでいっぱいになりました。
「おや、勘なるものを信じておられなかったはずでは? まあ、いいでしょう。ご存じの通り、私はあなた方のように特別な力は持っていません。ですが」
 男は画面を閉じて、ゆっくりと立ち上がりました。
「あなたと旅がしたい。そう言っているように聞こえるんですよね」

 こうして、私と、銀の指輪とは並んでユエに寄り添うことになりました。
 指輪は私と違って無口なたちでしたが、ときおり、鈴の鳴るような澄んだ音をさせて、こんな風に歌いました。
 
 昔々あるところに、梟の名を戴く宇宙がありました。その宇宙は滅びつつありました。
 新しく即位した女王さまは、ご自身の命を削り、星々にサクリアを与え、時を操りましたが、宇宙のほころびは大きくなっていくばかり。
 これは定められた運命なのだと、宇宙の梟はいいました。
 女王さまは泣きました。
 泣いて泣いて、それから泣くのをやめて、神鳥の名を戴く宇宙の女王さまにお願いしました。
 私の宇宙を助けてください、と。
 二人の女王さまたちは遠い場所にいましたが、お互いの手をしっかりと握りあいました。

 翼あるものの名を戴いた二つの宇宙がひとつになるとき、宇宙の境を中心にして目のくらむような巨大な光の渦が現れました。
 それはまるで、今まさに失われつつある宇宙が、大きな光の翼に抱かれているように見えたということです。

 ユエの掌が、胸のあたりを軽く叩いた気配がして、春の微睡みから覚めたように、指輪の歌がやみました。
 どんなに分厚い上着を身につけていても、ユエが私に触れるとすぐにわかります。
 彼の輝きは、それほどに強いのです。
 私と触れあった拍子に、指輪がかちりと小さな音を立てました。
 気持ちよくうたっていたのを邪魔されたせいか、大仕事を終えてくたびれていたのか、文句を言うような響きを帯びていました。
 彼は、少々気難しいのです。
 ですから、ユエのどの指にも、彼は収まろうとしませんでした。
 けれど、文句を言いながらも、彼はちゃんとやるべきことを果たしていました。
 数刻前、天から落ちてきた闇を、小さな銀の指輪は、見えない腕を広げるようにして受け入れました。
 ノアの闇のサクリアは、指輪に吸い込まれて眠るように消えました。
 白い息を吐きながら、ユエは夜明けの空を眺めていました。
 ユエは、ひとりでいるときもよくしゃべる人でしたが、このときはずっと黙っていました。
 夜の終わりと朝のはじまり。
 幾度も繰り返していくその営みのなかで、たったひとつを、大切に愛おしむような沈黙でした。
 ユエが何を思っているのか、私には、いえ、私たちにはわかる気がしていました。
 星が巡り、だんだんと空が白んできます。
 朝日に照らされた彼の横顔を、冷たい風に揺れる金の髪を、たとえようもなく美しいと思いました。




 たくさんの子どもの声がします。
 笑い声、泣き声、はしゃぐ声。
 どの声にも、小さな身体から溢れんばかりの命の力強さがありました。
 それは、ユエの光にも負けないほどの輝きを放っていました。
 主星にある小さな館には、朝も夜も、生まれたての星のような、目映い小さな光が満ちていました。
 私は相変わらず、ユエの胸元に隠れていました。
 私の針は鋭くて、子どもたちが触れると柔らかな肌を傷つけてしまうかもしれないからです。
 ノアの指輪は、自らの役割を終えたあと、どこかへ連れていかれました。
「ユエ、こっちに来て」
「僕の方が先だよ」
「私も私も」
 腰のあたりにまとわりつく小さな影のひとりひとりに、ユエはそれぞれちゃんと応えました。
「わかったわかった。お前たちはちょっと待ってろ。順番を守ってな」
「どうすればユエみたいにきれいな字が書けるの?」
「そうだな……まず、集中すること」
「集中って」
「自分と、自分の書きたいものに、きちんと向き合うことだ。一生懸命にな。適当にやってると、いい字は書けねえ」
「ユエ」
 背後から名前を呼ばれて、ユエは顔を上げました。
「ヴァージル、いつ遠征から戻ったんだ?」
「はい、つい先ほど。俺は報告があるので、彼を風呂に入れてくれませんか。あと食事も」
 着崩した軍服姿の男は事務的に用件を告げて、自分のマントにくるんだ何かをユエに差し出しました。
 布地が重なったところから覗いたのは、子どもの顔でした。
 ユエの返事を聞く前に、ヴァージルは風のように去っていきました。
 かつて風の守護聖であったというヴァージルは、いつもこんなふうでした。
「ちょっ、おま、ヴァー……まあいい。こっちが先だな。俺はユエ。お前、名前は?」
 泥にまみれた子どもは、ぼんやりと視線を漂わせるだけで、返事をしません。
「これから、お前を風呂に入れようと思う。それとも飯が先の方がいいか?」
 飯と聞いたとたん、ぱっと表情が輝きました。
「オッケー。じゃあ飯にしよう。いきなりたくさん食うと身体に負担がかるから、柔らかいもんとミルクにするか。ああ、そういえば今朝焼いたカステラがあったな」
 ヴァージルという人について私は多くを知りませんが、彼はいつもふらりと現れて、ユエの元に子どもを置いていきます。
 ジュリアスとの話によると、ヴァージルは神鳥の宇宙に来てから王立派遣軍に入り、遠征先で行くあてのない子どもを見つけてはユエのところに連れてくるのです。
 もちろん、ヴァージルは理由もなくそんなことをしているわけではありません。
 ユエがいるのは、王立派遣軍が運営している施設のひとつで、戦争や災害で故郷を失った子どもたちが暮らしています。
 ジュリアスの紹介で王立派遣軍の仕事をしていたとき、ユエはこの施設の存在を知り、やがて管理を任されるようになりました。
 故郷で弟や妹の世話をしていたユエは、子どもたちとつきあうのが上手でした。子どもたちは皆ユエが好きでした。
 ヴァージルが連れてきた子どもは、あっという間にミルクを飲み干し、ぺろりとカステラを平らげました。
「もっとほしいって? 気持ちはわかるが、ちょっとずつだ。胃がびっくりしちまうから」
 大きな目を見開いて、じっとユエを見つめる眼差しを、私は知っていました。
 失われた人を、その人が纏っていた温かい闇を、今は空になった隣の場所を、私は思いました。
「安心しろ。次は夜、その次は明日の朝、ちゃんと毎回食事が出る。それに、夜寝るベッドはふかふかなんだぜ。なんせ、このユエ様が光をあててるからな」
 ユエは、相手をおびえさせないようにゆっくりと膝を折って、視線を合わせ、にっと笑いかけました。
「これから、よろしくな」
 私は、幸福でありました。

 私の物語があまりにも長すぎたのか、文箱はもう、くたびれて眠ってしまったようです。
 私は冴え冴えと夜空を彩る星光の彼方に、懐かしい人の面影を見ていました。




 明くる日の夕刻、光の守護聖の執務室に来客がありました。
 男は、大仰な動作で腰を折りました。
「ジュリアス様、本日は貴重なお時間をいただきまことにありがとうございます」
「回りくどい挨拶は良い。そなたに預けたいのは、これだ」
「……なるほど。触れてもよろしいですか?」
「好きにしろ」
 男は白い手袋をはめ、体温を感じさせない指で私を持ち上げました。
「これはこれは。名工の手になる逸品とお見受けします。素晴らしい品です」
 にこりと笑って、男は私を元の場所に戻しました。
 それから、ぴたりと笑みを止めて、ジュリアスに視線を移しました。
「差し出がましいこととは思いますが、本当に、私がお預かりしても?」
「宇宙は違えど、私も彼も光の守護聖であることに変わりはない。物を介さずとも、感じることはできる。どこにいても、いかなるときでも」
 何を、とジュリアスは言いませんでした。けれど、男はすべてを承知したように頷きました。
「左様ですか」
 私は、ここに来たときと同じように、小さな箱に収められました。
 まさに蓋が閉じられ、永い眠りにつこうとした瞬間、金に輝く光が差し込みました。
「かつて、ユエはこう言ったものだ。いずれ時が来たら、己の宇宙……梟を彫り込んだ品を私に贈りたいのだと」
 深く、静かに響くジュリアスの言葉の向こうに、描くことのできなかった未来と、出会うことのなかった友の姿を求めましたが、そこには、強く優しい光があるだけでした。
 ユエのあの伸びやかな明るい声が、輝くような笑顔が、心地よい体温が、永遠に届かない場所にいってしまった夜、私は、消えゆく小さな光の群れを、必死で追いかけようともがきました。
 流れるはずのない涙が身体を伝いました。
 別れの悲しみが消えたわけではありませんが、今このとき、ジュリアスと同じように、私もまた、彼の存在を確かに感じているのです。
 夕べの残光を惜しむように、私は、微かに身を震わせました。
 光は沈み、間もなく夜が訪れます。
 たとえ二度と目覚めることがなくても、その誇り高き光の美しさを、傍らに寄り添う闇の深さを、私は幾度となく夢見ることでしょう。
 それはきっと、素晴らしく優しい夢でありましょう。





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