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鳥籠
・・・・・・・・・・

 おや、そこの方。こちらの店にご用ですか。
 奇遇ですね。私もです。少々入りにくい店構えですが、入ってしまえば意外と寛いで過ごすことができると思いますよ。店主の気分次第で、とは申し添えておきますが。

 それでも扉を開ける勇気が出ない?
 そう仰るのなら、微力ながら私がお手伝いしましょう。あなたは大事なお客様とお見受けしますから。
 おっと、ボヤボヤしてると日が暮れてしまいますよ。
 店主の淹れた熱いコーヒーが冷めないうちに、共に参りましょうか――

・・・・・・・・・・



 最近、男は妖精と二人暮らしを始めた。
 本当に妖精かと問われると、自信はない。そう彼は答えた。
 久々に訪れた裏路地の市場で、彼が「そこそこの金と時間を持て余している無職独身」だと知っている商人に押し売りされたからだ。鑑別記録もなければ同定書もない。ついでに言えば、男はその妖精とやらの姿を見たことすらなかった。
 
「幸福の妖精だとか。今までの持ち主はみな、大願を成就させたって話で」と見せられたアンティーク調の鳥籠には、その売り文句の胡散臭さを補強するかのように、純白のレースが幾重にも被せられていた。

「一攫千金も夢じゃないって? 最高だねぇ。俺なら売らないで自分で愛でるけど?」
「そうしたいのは山々なんですけど……聞いたことのない言葉を喋るから、気味が悪いってもんで。お安くしますよぉ」

 商人はわざとらしく声を潜めて「妖精の言葉、あんたなら理解(わか)るんだろう? だってあんたは……」と嫌らしい笑いを浮かべた。
 男は一瞬言葉に詰まったあと、「こんなくたびれた中年に、何を期待しているんだか」と気怠げに無精ひげを撫でた。無造作に伸びた髪と皺の寄ったシャツを見せつけるように、くるりと背を向けるが、厭世家らしさを強調した男の努力も空しく、商人は無慈悲に鳥籠を押し付けた。

 書斎の机に鳥籠を置いて小窓を開けた。鋼製の檻は冷たく、華奢な見た目に反してずっしりと重い。細やかな意匠を凝らした工芸品の対価と思えば、商人が提示した金額は確かにはした金ではあった。
 吹き込んだ風が目隠しのレースを小さく揺らしている。たっぷりと重ねられた繊細なレースは花嫁の纏う純白のヴェールか、姫君の閨の天蓋か。ともかく、自分のような凡人ごときが触れて良い代物ではない、という気分にさせられる。
 自分のような……といえば、さっきは危なかった。あの商人、確実にこちらの素性を知っている。口を滑らせた覚えはないが、たかが商人と舐めて掛かるのはやめた方が良いだろう。

「面倒ごとは御免だし、しばらく大人しく……って、まるでミステリの第一被害者のセリフじゃないか。縁起でもない。いや、むしろ主人公ってパターンも……? お前、どう思う?」

 妖精とやらに問い掛けるが、返事どころか目隠しのレースすらぴくりとも動かない。
 好奇心旺盛なそよ風がどうにか捲り上げてはくれないものか。男は椅子に腰を下ろし、しばらく遠巻きに眺めていたが、今日の風は乙女の秘密を暴く勇気はないらしい。

「そういえば、世話の仕方も何も聞いてないな。こいつ、何食べるんだ?」

 おおかた、人の言葉を真似る鳥に他言語を仕込んだのだろう。ペットショップでエサを見繕ってもらうとして――とりあえずは、水か? 

『いらない。かわりにあなたの望みを聞かせて』

 キッチンに向かう男の耳元で何かが囀った。ぎょっとして振り返ると、いつの間にか鳥籠の扉が開いて、レースの覆いも捲れあがっている。
 右肩に気配があった。反射的に手で振り払うが、何かに触った感触はない。頬の近くを素早く横切ったような空気の流れを感じたが、視認が出来ない。
 男は、見えざる妖精を捕まえることを早々に諦め、抽斗(ひきだし)から翻訳機を取り出した。
 さっきの発音、冒頭だけは聞き取れた。おそらく否定を示す言葉。似たような響きを聞いたことがあったはずだ。思い出せ。

「確か……前代の故郷の……」

 類似した言語がインプットされていれば、そこから言葉と文法を推測していけば良い。ぶつぶつと独り言を唱えながら、年季の入ったデバイスをいじる。

「これか。ええと……君、は、妖精?」

 たどたどしい言葉で、彼は虚空に話しかけた。ややあって、答えが返ってくる。

『n@G聯l■a”dR*ー』

 音と認識はできるが、言語として検知できない。どうしたものか、と男が考え込む。すると、それはまた別の言語で言葉を発した。

『あ……な、たの望みは?』

 
 それ以来、男はこの妖精と暮らしていた。妖精本人から妖精だという宣言がないので、呼び名は便宜上の仮称だ。
 確かに、望みが叶うようになった。といっても、大したものではない。いつも固くて難儀する瓶の蓋が簡単に開けられたとか、猫の集会に出くわしたとか、酒が無くても眠れるようになったとか。そんな些細な幸運が、立て続けに舞い込んだ。
 日々、妖精は彼に問いかける。『本当の望みは?』と。「特にない」そう答えると、不満そうにレースの覆いをバタバタと揺らした。

「……望みなんて、持たないほうが楽なんだよ」

 決まって、彼は唱えた。
 一人と一匹の生活はしばらく続いた。試しに手を出したギャンブルが散々な結果に終わったところで、この妖精について、男は一つの確信を得た。


 男は古都と呼ばれる歴史ある街を歩いている。以前職場で聞いた、「不思議を集める」「探し物が見つかる」「都市伝説に強い」、そんな謳い文句の店に向かっていた。
 先に訊ねた「怪異専門探偵事務所」はもぬけの殻で『移転しました』という張り紙にぶら下がっていたのは、噂の店と思わしきショップカードだった。思わぬ繋がりに何かの強烈な意志を感じ――「前職」ではよくあったことだ――男は少しの不安と星屑程度の期待を抱きながら、目的地を変更した。

 人通りも生活の匂いもない閑散とした街並みを、カードに書かれた大雑把な地図を頼りに歩き続ける。道が判らなくなったときは、妖精が騒ぐほうへ進めばよかった。小一時間彷徨って、いい加減腕と足が悲鳴を上げ始めたころ、古めかしい建物が立ち並ぶ裏路地に辿り着いた。色褪せた屋根、蔦に侵食された壁。壁だけでは飽き足らず、街路樹までをも蔦が飲み込みかけている。

 ――まるで、ある一点で歴史が止まってしまったかのような。

 都市伝説に強い、というよりも、店そのものが都市伝説ではないのか。うすら寒くなった男は鳥籠を両の腕に抱きしめ、なるべくゆっくりと足を進める。そうして辿り着いた袋小路の最奥に、目的の店はひっそりと存在していた。
 目印らしき梟のドアチャイムも地図上のマークと一致している。元々店として建てられたものではないようで、ショウウィンドウも覗き窓もなければ看板すらもなく、中の様子を伺い知ることはできない。

 一応、重厚な木製のドアについたランプが灯っているから「営業中」ではあるらしいが、そもそも店かどうかも確信はない。まごつく男を急かすように、鳥籠が激しく揺れる。
 男は恐る恐る、人差し指でドアノブに触れる。扉が開く気配はない。今度はドアノブを軽く押し下げる。モーター音は聞こえない。まさか、この主星に完全手動の扉が残っているとは思わなかった。重たい上に建て付けが悪いのか、手の力だけでは進まない。全体重を預けて押し開けると、たかが扉一枚に苦戦する男を嘲笑うようにカランカランと能天気に梟が鳴いた。

「こんにちは」

 どこかから凛とした女の声が聞こえた。窓のない店内は薄暗く、いくつかのランプが淡い光を放っているだけで、声の主の姿は見えない。男は暗順応を待ち、店内を進む。カウンターから姿を現した女性店員の顔を見て、息を飲んだ。
 妖精が飛び出してまとわりついたのか、彼女の髪がふわりとそよいだ。柔らかな薄紅色と、その奥の蒼い瞳が露わになる。勘違い。他人の空似。あるいは子孫。いや、そもそも幻覚かも。そうであってくれ――。

「いらっしゃい」

 思考を巡らせていると、突然、真後ろから声がかけられた。あの重い扉が音もなく開いている。差し込んだ陽の光を後光のように背負った男性は、驚きで声も出せない客から鳥籠を取り上げた。逃がさないよ、と言わんばかりに。

「どうしてここへ?」

 カウンターに鳥籠を置き、男性が――この店の店主であろう――が尋ねる。空気を震わせる、低く深い声だった。

「もっと行くべきところがあっただろう? だって君は――」

 全てを詳らかにせよと迫る紫の瞳に気圧され、客の男が観念して口を開こうとしたところで、「ダメですよ」と女が店主の肩を掴んで座らせた。

「ごめんなさい。この人いつもこうで。何でもかんでも追及しないと気が済まないの。悪い癖」
「おや、心外だな。暴くのは君の」
「黙って?」

 店主は満更でもなさそうに口の端を歪めてから、改めて彼に着席を促した。
 男は妖精との一部始終を語った。妖精との出会い。妖精が叶えた慎ましい望みの数々。妖精は行き場を失ったサクリアの集合体であること。そして、「不思議な店がある」と噂を聞いて訪れたということも。

「サクリアは人々の希求に呼応するもの。でも、サクリア自体は願いを察知する力を持っていません。だから、これは自ら望みを問うのだろう、と」
「うん。おそらく、君の推察は正しい。でも、これの正体が判っているのなら」

 長い指が滑らかな手つきで閂を外す。檻から解き放たれたそれは、空を切って店の中を、正確に言うと、店主の隣に立つ女性の周囲を飛び回る。妖精の姿が見えているのだろう、彼女は虚空に手のひらを差し出して聖母のような微笑みを浮かべた。

「今の話を研究成果としてまとめて、王立研究院(まえのしょくば)に戻ればいい」
「っ……覚えて、いらしたんですか」

 勿論、と店主が頷く。

「聖地勤務の研究員の顔と名前は全て記憶している。みな、大事なパートナーだからね」

 コーヒーを差し出して、店主はウィンクを飛ばした。光栄です、と答えて男はカップを口へ運ぶ。あの頃もランチミーティングの度にコーヒーを振る舞われていた。傍らにあるサイフォンは、女王候補時代の陛下からの贈り物でね、と惚気られたものと同じだろうか。
 男がシャツの首元を軽く緩める。意を決したように深く息を吐き出してから、口を開く。

「神鳥への統合を機に、故郷に視察に行ったんです。内心、ちょっとした凱旋気分で」
「あぁ。女王自身が推奨していたね。喜ばしい体験になるかは人によるだろうけど」
「ええ、まあ、お察しの通りで……誰も、居ませんでしたよ。家族も知己も、墓も……彼らの、そして自分自身の存在した記録すら無かった。そんなこと分かっていましたけどね。いえ、分かっているつもりでした。そりゃあ、仮にも長年、王立研究院に勤めていたんですから」

 自嘲気味に嗤い、芝居がかった口調で言葉を続ける。

「仕方ない、覚悟してただろう、選ばれたんだから、諦めなさい――そんなセリフを嫌になるほど吐いてきたんですよ、俺は。でも、実際に目の当たりにすると」

 コーヒーカップを握りこんだ男の指が小さく震えている。それを無理やり引き剝がして、ゆっくりとカウンターに手を着いた。

「貴女たちが命がけで救った宇宙が、途端に無価値なものに思えた」

 店主と女は、無言で耳を傾けている。その顔にはどんな感情が浮かんでいるのだろう。俯いた男にはわからなかった。

「結局、自分はただの凡人だったんです。それを自覚した途端、責任の重さに耐えきれなくなって逃げました。仕事も生活も恋人も、全て投げ出して、ろくな引き継ぎもせずに。だから、今更……同僚(なかま)達に合わせる顔なんてありません」
「……今の私たちは、あなたに傅かれるような立場ではないですよ」

 顔を上げてください、と微笑む女は玉座にいた頃と変わらず、美しかった。

 ――変わらず、美しい?

 彼らが神鳥の聖地から降ったのは、自分が出奔するよりもずっと前だったし……何より、星々の移転でサクリアを使い果たしたのではなかったのか? 下界(こっち)は、あの時から何年経った? 男の瞳が不安げに揺らいだ。

「陛下……いえ、アンジュ様、ロレンツォ様。貴方達は、ここで一体、何を?」


「長い神鳥の歴史において、宇宙の移動というのはそう珍しいことではないそうだ」

 店主が空になったカップに新たなコーヒーを注ぎ足した。実際、現在の宇宙も、現女王の就任時に生み出された新しい宇宙であるという。

「が、元々ある宇宙に別の宇宙を統合させる、というのは例を見ない試みだった」

 ミルクが注がれる。漆黒と乳白色が拡散して混ざり合った。

「リスク検証には君も携わったね」
「はい。最も危険視されていたのは移動時の重力干渉ですが、亜空間を経由し、一時的な緩衝帯として利用することで解決しました」

 カップを受け取った男はシュガーポットから星型の砂糖を取り出して、薄茶色の液体に落とした。深煎りの苦みにもう少し甘さが欲しくなり、更に一粒放り込む。

「両研究院の尽力で、諸々の懸念はほぼ解消しました。ですが、私達のサクリアだけは……」

 女が俯いた。組んだ手は、固く握りしめられている。

「令梟の宇宙の延命と、大移転でほぼ使い果たした、と聞いておりましたが……」
「それがね、神鳥の陛下のお力は強大で、意外と残ってしまったんだ。だが、それを知られると方々に気を遣わせるだろう?」
「まさか……本当に……」

 優れた研究者でもあった女王補佐官が、シミュレーションを行った。だが、何千回の試行をもってしても、計算結果は覆らなかった。

 ――その身に宿すサクリアが消えるまで、彼らは何百年、何千年と生き続けるでしょう。

 男は冷めきったカップを煽る。冷えて析出した砂糖が舌に残って、ジャリ、と嫌な音を立てた。

「まあ、我々の体のことは大したことではない。問題は、宇宙に広がったサクリアだ」

 大問題だ、と口を挟む隙は与えられなかった。

「私達のサクリアが徐々に拡散して消失していく過程で、こちらのサクリアと反発したり、局地的に飽和してしまうことが判りました。様々なトラブルが各地で起き始めています」

 いつのまに戻ってきたのか、妖精が自己主張のように鳥籠のレースを揺らした。「あなたみたいな可愛らしいトラブルで済めばいいんだけど」と女性がそれを撫でる。

「ある程度は、予想されていたことだがね。ここは、令梟のサクリアが起こす様々な事象の調査・研究を行うラボだ。彼女の私設機関ということになっているから、君が知らなかったのも無理はない」

 物が溢れる店内を見廻した男は、困惑の視線を店主に向けた。

「サクリアに関係のない物も沢山持ち込まれるんだ。だからといって、調査もせずに馬鹿馬鹿しい、と切り捨てるわけにもいかないだろう?」

 店主のうんざりしたような口ぶりに、男の顔に同情の色が浮かぶ。

「あの、それは……お疲れ様です」
「全くだ。この前は、時の流れを操る時計、なんてものもあったよ。……人生をやり直せると言われたら、君ならどうする?」
「研究者としては、試しますけど。でも、俺なんかの人生を巻き戻したって宇宙の運命は変えられませんから」

 万馬券でも買いますよ、と笑う。妖精を信じて財布をすっからかんにしたあの日に戻るくらいなら、バチも当たらないだろう。

「とはいえ、ホンモノが持ち込まれることもありますし、ここのことは特に秘密にするつもりはないんですけど。人手が足りないから、どうしてもひっそりになっちゃうだけで」

 事業統合したら余剰人員が出ると思ったのになぁ、と女が口を尖らせた。

「もしかして、件の探偵事務所というのも……」
「あっちはカナタとシュリ、レイナの担当。うちの出先機関みたいな感じですね。ユエとノアはジュリアス様達のところにお世話になっています」
「ヴァージルは王立派遣軍にいて、サイラスとタイラーと……ゼノが神鳥(こちら)の王立研究院の所属になっているのは、知っているだろう?」
「はい。では、ミラン様とフェリクス様はここに?」
「いいや。それぞれ旅をしながら、サクリアの対処をしているよ。ほら」

 指し示された壁には、いくつかの風景画が飾られている。独特の色彩感覚を活かした画風には見覚えがあった。

「あのぅ、失礼ですが、皆様……意外と、楽しんでらっしゃる?」
「長い人生だからね。刺激は必要だろう」

 神鳥の宇宙は、令梟とは比べ物にならないほど安定している。たとえ令梟のサクリアが何か不具合を起こしたとしても、各地の研究院や王立派遣軍が各々対処し、解決してしまうだろう。神鳥の守護聖や女王が直接手を下さなくとも、この宇宙はそれなりに上手く回っていく。長い歴史の中で、そういうシステムが出来上がっている。それは、男が無力感を抱いた理由の一つでもあった。
 だからこそ、「令梟の守護聖は失職」と言われていたのに。この人達は、わざわざ役目と責任を背負いなおしたのか。

「ワーカーホリック……」

 男の不敬な言葉に、店主達はにこやかに微笑んで見せた。


「ということで、どうかな、君。古巣に戻る気が無いなら、うちの外部調査員というのは。定期的に調査報告書を送ってくれるだけで構わないから」
「お給料は前職年俸の六割、残業代無し、別途成功報酬でどうでしょう。あと、このレースは買い取らせてもらえる?」

 畳みかけるようなスカウトと提示された金額に圧倒され、男は頷くより他なかった。これはせめてコーヒー代として……と鳥籠から外したレースを差し出した。
 もう少し経費を抑えたほうが、と言おうとして口を噤んだ。懐かしそうにレースを撫でる元女王とそれを眺める元守護聖の表情から、それが彼らにとって特別な何かであることは明白だった。
 
 とんとん拍子に再就職が決まり、「満足したらそのうち霧散するだろう」と悪霊のように言われた妖精と男の共同生活も続くことになった。

「え。これ、回収してくれないんですか?」
「本人に離れる気が無いなら仕方ないだろう。使いようによっては、調査の役に立つかもしれないし」
「そうですね。サクリアの歪みや澱みもその子が教えてくれるでしょう。ただ、ずっと鳥籠の中にいるのは嫌みたい」

 いや、お前勝手に出て来てるだろ、と情けなくボヤいて、男は入り口の扉に手をかけた。扉は拍子抜けするほどあっさりと開いた。軽やかなドアチャイムの音が、茜色に染まる街に響いて消えた。

『ねえ、望みはみつかった?』
「そういえば、そんな触れ込みの店だったなぁ」

 顔の周りをヒュンヒュンと掠める風切り音が耳障りで、男は顔を顰める。

「お前ねぇ……本当に消える気あるの?」
『多分。そのうち。あの人たちもそう言ってた』
「そのうち、って……」

 悠久の時を生きる彼らの「そのうち」がどれほどのものか。考えるだけで眩暈がする。

「まぁいいや。ほどほどのとこで成仏して。それが当面の望み」

 彼の答えに満足したのか、いい加減はしゃぎ疲れたのか。キィ、と小さな音を立てて鳥籠の扉が閉まった。
 ふと、来た道を振り返る。静寂の街には暗闇が迫っていた。あの店ももうじき飲み込まれるだろう。

「折角出られた檻にまた戻るなんて、俺ならお断りだけど。流石、主役は違うねぇ」

 ヒュっと短く吹いた口笛は、妖精の羽音のようだった。
 店先の仄かな灯りが消えるのを遠目に見届けて、一人と一匹は再び家路についた。
旅路の向こうに
 夜の闇のいたるところで、囀りのような軽やかな音がしました。

 ねえねえ。
 ひそひそ。
 くすくす。

 ご存じでしょうか。
 神鳥の聖地では、ひときわ美しい夜に、命なきものたちがおしゃべりをするのです。
 サクリアは命あるものたちだけでなく、宇宙に存在するものにあまねく存在します。
 そのサクリアに満ちた土地ですから、不思議なことではありません。
 ジュリアスは、その夜、書斎にあるデスクの上に私を置いたままにしておきました。
 いつでも、あらゆるものをきちんとあるべき場所にしまう人ですから、とても珍しいことです。
 このときは、私に呼吸をするための時間をくれたのだと、そう思います。
 ずいぶん長いこと、抽斗(ひきだし)の奥にしまわれていたものですから。
 窓に瞬く星の光は美しく、風の気配が私の心をざわめかせます。
 私のなかの翼あるものが、外の世界を恋い焦がれるのです。
 あるいは、かつて彼と旅した記憶がそう思わせるのかもしれません。
 すぐ隣にいた文箱が、話しかけてきました。
 君の話を聞かせてくれる?
 もちろん、と私は答えました。
 私の胸に、数え切れないほどの思い出が蘇りました。忘れ得ぬ、あの素晴らしい日々。
 私の長い物語は、二つの光からはじまります。




 私は主星にある職人通りの片隅で、腕の良い職人によって作られました。
 年老いた職人の節くれ立った指は、まるで自分の命を与えるように、私の身体に見事な神鳥の意匠を彫り込みました。
 かつて金の塊であった私は、ブローチと呼ばれる装飾具に姿を変えました。
 そうして、私は小さな飾り箱にしまわれました。
 同じ職人の手に成る箱は、私が傷つかないよう、内側に柔らかく上等な布が張られていました。
 それはまるで女王のベッドのようで、ゆっくりと眠るのにぴったりでした。
 心地よい眠りについてから、どれほどの時が経ったのでしょうか。
 声が聞こえました。彼方で響く風のような、微かな声でした。
 蓋がゆっくりと開いたとき、遠ざかりつつある淡い微睡みのなかで、私は鮮烈な光の眩しさと、その後に続く暖かさを知りました。
 天から降り注ぐ二つの光を、懐かしい、と感じたのはなぜでしょう。
 私の身に刻まれた神鳥がそう思わせたのかもしれません。
「ジュリアス様、このブローチは」
 すぐ近くで、息を飲む気配がしました。
「私からの贈り物だ。ユエ、首座の守護聖としての務めは、終わりなき旅路にひとり臨むようなものだ。令梟宇宙の状況を鑑みれば」
 少しの間をおいて、ジュリアスは続けました。
「そなたの旅は困難なものとなるだろうが、これを身につけていれば、女王陛下の加護により災いから護られよう」
「女王陛下の?」
 不思議そうに問いかけるユエを、穏やかな声音が包み込みました。
「神鳥宇宙の女王陛下の御力が、直接令梟宇宙に及ぶことはない。だが、心は違う。陛下のご慈悲は、友なる世界への祈りは、宇宙を超えてそなたに良い影響をもたらすだろう」
 ややあって、形の良い、輝くような指先が、箱から私を取り出しました。
 それまで素晴らしい寝床で過ごしていた私は外気の寒さに身をすくませましたが、一方で、これからはじまろうとしている物語に目眩がするような喜びを覚えたものです。
「ありがとうございます」
 そのときの私はまだ知りませんでしたが、二つの宇宙の光は、この日はじめて出会い、交わったのです。
 清々と澄んだ声で言ったきり、ユエと呼ばれた人は唇を結び、なぜか、泣くのをこらえるような表情をして、ジュリアスと長いこと視線を合わせていました。




 光が私に物語を与えてくれましたが、世界にあるのは光だけではありません。
 目映い光があるところにはいつも、ひっそりと闇が息づいていました。
 令梟宇宙で、首座の守護聖として懸命に勤めを果たそうとするユエの周りには、自然と、人の輪ができました。
 ユエの放つ光は煌びやかであると同時に、どこか、人の心を和ませる力がありました。
 彼の胸で、彼の光によって輝けることを、私は誇りに思いました。
 そうして、ユエの一番近くにいるうちに、彼の眼差しの向こうには、いつも、闇を纏った静かな人がいることに気がつきました。
 彼はノアという名で、どこか背を丸めて眠る小さな動物のような雰囲気を持っていました。
 ユエの毎日は、まるで闇との追いかけっこでした。ノアにどんなに冷たくあしらわれても、ひどい喧嘩をしても、翌日にはけろりとして、ユエはノアの執務室を訪れるのでした。
 それは、令梟宇宙がなくなって、ユエとノアが守護聖と呼ばれることがなくなってからも、変わりませんでした。
 ユエの守護聖としての旅路は目的地に着かないまま終わりを迎えていましたが、それはまた、別の旅のはじまりでもありました。
 そして、新しい日々に続く旅の道連れは、やはりノアなのでした。
 たいてい、ノアは夜のうちに行き先を告げずふらりと出かけてしまうので、ユエは旅支度もそこそこに、慌てて彼の後を追います。
 ユエは令梟宇宙の守護聖であったときと同じ服を身に着けていましたが、私だけがマントから外され、金の鎖に結びつけて首から下げられていました。
 ユエが守護聖の任を降りたのだと知らしめられているようで、寂しくはありましたが、彼の温かい鼓動を感じることができるのは、幸せでした。
 宿屋の一室で燭台を間に挟んで、あるいは深い森のなかで火を囲んで、ユエとノアは、時々、むかしの話をしました。
 そこで、私は知りました。
 ユエとノアが守護聖ではなくなった今も、身体にサクリアが残っていること。女王を深く愛していたこと。言葉にはしなくても、二人の心がまだ、故郷の宇宙に残されたままであること。喧嘩ばかりしているようで、彼らがお互いをとても大切に思っていること。

 ある星にやってきたとき、ノアが深い溜め息をつきました。
 そこでは、長いこと雨が降っていませんでした。雨のない世界で、大地に生きる命あるものすべてが苦しんでいました。
 光のサクリアがあまりにも強すぎたのです。
 その光からは、ジュリアスではなく、ユエのにおいがしました。
「予想通り、だね。令梟の光のサクリアの影響だ。ユエも感じてると思うけど」
 ユエは歯噛みしました。
「なら、サクリアを俺のなかに戻して」
「それには及ばないよ。僕のサクリアをぶつけて、打ち消す」
「待てよ。これは俺のサクリアが引き起こした事態だ。俺が責任を持って」
「ユエにサクリアを戻したとしても、また何かの拍子で放出される可能性がある。そんなの、無意味な堂々巡りだ。僕たちの仕事は……終わらせること」
 彼らが何を終わらせようとしているのか、私にはわかりませんでした。
 でも、ユエはすべてを承知しているのだと思いました。
 彼はきれいな碧い瞳で、ノアを凝視しました。
 ノアは普段からとてもゆっくりと静かに話す人ですが、このときは、とくべつ、夜明け間近の深く重たい闇を思わせる声で言いました。
「ユエは僕のこと、信じられない?」
 ユエはぐっと言葉を飲み込みました。それが、ユエの答えでした。
「僕たち、対の守護聖だったと思うけど」
 認めたくないけどね、と言い添えて、ノアは微かに唇に笑みを浮かべました。

 その日の夕暮れどき、私は高速艇のデッキで、濡れたユエとノアと一緒に、痩せこけた大地に響く雨音を聞いていました。




 私たちの旅は途方もないほど長く、果てはなく、すぐ近くを流れゆく年月のなかで、星々では無数の命が生まれ、消え、また生まれては消えていきました。
 ノアは、自分のサクリアがどの星で、どの土地で求められているのか、ちゃんと知っていました。
 そして、たとえ大きな苦しみを伴うとしても、必要とされているなら、迷うことなく自らの一部を分け与えました。
 サクリアの混乱であえぎ、苦しんでいた星々は、安らぎを取り戻しました。
 そんなとき、他の誰でもなくノア自身が、安らいだ、穏やかな表情をしているのでした。
 ただ、ユエは違いました。
 ユエは、ノアがサクリアを使うとき、まるで痛みを堪えているかのように、ひどく固い顔をして、対の守護聖を見つめることがありました。
 時には、サクリアを行使しようとするノアを制止することもあり、言い合いになることもありました。
 このときのユエの瞳には、どのような未来が見えていたのでしょうか。
 旅を重ねるにつれて、ノアの身体はだんだんと弱っていきました。
 彼らがカステラと呼ぶ柔らかいケーキと温かいミルク以外はほとんど何も食べなくなって、指も首も、ますます細くなりました。
 寝ている時間が増え、動くことのできる時間が短くなりました。
 ユエはそんなノアを心配して、何かにつけて世話を焼きましたが、ノアはそれを冷たく払いのけました。
「君は、早くどこか別の場所に行きなよ」
 ノアは、かすれた声音で告げました。
「僕をひとりにして」
「……できるかよ」
 ユエは絞り出すように言いました。
 でも、その美しい、青碧の眼差しは、もっと多くのことをノアに伝えたいのだと叫んでいました。
「ユエがいると、迷惑なんだ」
「迷惑? 俺は……」
 ユエは片方の眉を上げました。
「放っておいてよ」
 そこまで言うと、ノアは、ぷつりと糸が切れたように眠りについてしまいました。
「ああ……クソッ!」
 握り合わせた拳を膝に叩きつけるようにして、ユエは項垂れました。

 宿屋のベッドにノアを残し、ユエが食料を求めて街に出たことがありました。
 出かける前、ユエは私を首から外してノアに持たせました。
 彼に危険がないように、女王の加護があるようにと。
「ユエって、本当にバカだよね。街中に出る方がよっぽど危ないのに」
 呆れたように言うノアの唇が、柔らかい笑みをつくりました。
 すっかり皮ばかりになった指先が、神鳥のラインをゆっくりとなぞりました。
 ノアの指にはめられていた銀の指輪は、旅の途中である青年の元に渡りました。
 どんなにノアの指が細くなったとしても、彼ならば必死にしがみついていたのだろうと思うと、たまらなくなりました。
「君は、僕を不幸だと思う? そうかもしれない。失ったものも、手に入れられなかったものも、届かなかったものも、たくさんある。でも」
 しゃべるだけでも苦しいのか、だんだんと、息が途切れがちになります。
 ノアはそれでも、物語ることをやめませんでした。
「クラヴィス様と僕のサクリアが溶け合うとき、世界がとても静かになる。僕の欠片がこの宇宙の一部になって、それがいつか令梟の宇宙に繋がる、そんな気がするんだ。女王陛下が、僕たちを導いてくれているみたいに。僕は生きているって、今、とても思う」
 子どもみたいに笑って、ノアは、私をぎゅっと握りしめました。
 もし私に腕があったなら、きっと彼を抱きしめていたでしょうに。
「こんなこと言ったら、またユエに怒られるかな」

 それからほどなくして、ユエに手を握られながら、ノアは眠るように息を引き取りました。夜明け前、一日で一番闇が深く、濃いときでした。




「やあ、ユエ」
 神鳥の王立研究院で出会った男は、深い緑の髪を揺らして微笑みました。
 ユエの古い知り合いらしく、ユエは驚いたようでした。
「ロレンツォ!」
「直接顔を合わせるのは、どれくらいぶりだろう? 月日を数えるのをやめてしまったから、見当もつかないが。とにかく健勝な様子で何よりだ」
「お前も。じゃあな」
 片手を上げてすたすたと立ち去ろうとするユエを、ロレンツォは引き留めました。
「そんなに急いでどこへ?」
「お前には関係ねえだろ」
「聞くところによると、ずいぶん忙しくしているようだね」
「誰からの情報だよ」
「想像にお任せするよ」
 軽く唇の端を上げたロレンツォに、ユエは噛みつくように言いました。
「ああ、そうだよ。行くところがあるんだから邪魔すんな」
 はっきりとは口にしませんでしたが、ロレンツォはノアという人のことも、彼の死も知っているのだと思いました。
「令梟の宇宙から持ち込んだサクリアは、神鳥の宇宙と同化が進んでいるようだ」
 彼は、ゆったりとした口調で告げました。
 主の腕が動くたび、胸元を飾ったアクセサリーが、しゃらり、しゃらりと誇らしげに歌うような音を立てました。
 私もユエの胸にいるのが嬉しいものですから、その気持ちがとてもよくわかります。
「最近ではほとんど異常値がみられなくなった」
「そうか」
「君は、十分に役目を果たしたと思うが」
「……驚いた。お前、人に気遣いとかできるんだな」
「褒められている気がしないな」
「褒めてねーからな」
 ここではじめて、ユエの顔に笑みが浮かびました。
「お前、ひとつ間違えてるぜ。役目を果たしたのは俺だけじゃない」
 ユエは、まるでその先に星の光が見えているかのように、青く澄み渡った空を仰ぎました。




 いくつもの朝が巡りました。
 ユエはそのひとつを、ある星で迎えました。
 白い息とともに、ユエが気持ちよさそうに欠伸をするのを、私は、大きく弾む胸の動きで感じていました。
 温かい深呼吸からは、深い安堵と喜びが伝わってきました。
 それは、特別な朝でした。
 その星は、終わりのない、長すぎる夜に苦しめられていました。
 長すぎる夜をもたらしたのは、失われたはずの力、令梟宇宙の闇のサクリアでした。

「闇のサクリアが多すぎる?」
 神鳥の王立研究院で、ユエは驚きを無理やり抑えたような声で尋ねました。
 ユエの前にいた細身の男が頷きました。
「はい。いつまで経っても朝が来ず、民が困り果てている、とまあそんな状況です。ご覧下さい」
 男が最後まで言い終わる前に、ユエは身を乗り出してディスプレイを凝視していました。
「そんなに近づいては、逆に見にくいんじゃないでしょうか」
「これは……クラヴィス様の力じゃねえな」
「ワーパチパチパチ、といったところでしょうか。ご明察です。もしかして、この展開を予想されてましたか?」
 男の口元は笑っていましたが、心は笑っていないように見えました。
「神鳥と令梟の闇のサクリアが混在している、ってわけか?」
「つまりはそういうわけですね。令梟の……元女王が自らの宇宙を神鳥の宇宙に吸収合併させた際に、サクリアの混濁が発生した模様です。長い年月を経て、それが顕在化したと」
「だが、令梟の闇のサクリアは」
「主を失っている。なので、あなた様をお呼びしたのです。対の守護聖であったユエ様なら、どうにかできるかと思いまして」
 以前にも、同じような事案を扱っていらしたようですし、と男は言い添えました。
「おいおい、ずいぶん大雑把じゃねえか。それ、王立研究院の分析の結果なんだろうな」
「いえ、言うなれば私の勘です。……信じてないというお顔をされてますね。思い切り」
「そりゃそうだろ」
 サイラスは唇の端を引き上げました。
「さらに正確に申し上げれば、私の勘というよりはこちらの意思という方が近いでしょうか。手、お借りできますか」
「手?」
「おっと、握手じゃありませんよ」
 ユエの掌に、小さな、銀の指輪が置かれました。
 まるで古い友人と再会したようで、私は懐かしさでいっぱいになりました。
「おや、勘なるものを信じておられなかったはずでは? まあ、いいでしょう。ご存じの通り、私はあなた方のように特別な力は持っていません。ですが」
 男は画面を閉じて、ゆっくりと立ち上がりました。
「あなたと旅がしたい。そう言っているように聞こえるんですよね」

 こうして、私と、銀の指輪とは並んでユエに寄り添うことになりました。
 指輪は私と違って無口なたちでしたが、ときおり、鈴の鳴るような澄んだ音をさせて、こんな風に歌いました。
 
 昔々あるところに、梟の名を戴く宇宙がありました。その宇宙は滅びつつありました。
 新しく即位した女王さまは、ご自身の命を削り、星々にサクリアを与え、時を操りましたが、宇宙のほころびは大きくなっていくばかり。
 これは定められた運命なのだと、宇宙の梟はいいました。
 女王さまは泣きました。
 泣いて泣いて、それから泣くのをやめて、神鳥の名を戴く宇宙の女王さまにお願いしました。
 私の宇宙を助けてください、と。
 二人の女王さまたちは遠い場所にいましたが、お互いの手をしっかりと握りあいました。

 翼あるものの名を戴いた二つの宇宙がひとつになるとき、宇宙の境を中心にして目のくらむような巨大な光の渦が現れました。
 それはまるで、今まさに失われつつある宇宙が、大きな光の翼に抱かれているように見えたということです。

 ユエの掌が、胸のあたりを軽く叩いた気配がして、春の微睡みから覚めたように、指輪の歌がやみました。
 どんなに分厚い上着を身につけていても、ユエが私に触れるとすぐにわかります。
 彼の輝きは、それほどに強いのです。
 私と触れあった拍子に、指輪がかちりと小さな音を立てました。
 気持ちよくうたっていたのを邪魔されたせいか、大仕事を終えてくたびれていたのか、文句を言うような響きを帯びていました。
 彼は、少々気難しいのです。
 ですから、ユエのどの指にも、彼は収まろうとしませんでした。
 けれど、文句を言いながらも、彼はちゃんとやるべきことを果たしていました。
 数刻前、天から落ちてきた闇を、小さな銀の指輪は、見えない腕を広げるようにして受け入れました。
 ノアの闇のサクリアは、指輪に吸い込まれて眠るように消えました。
 白い息を吐きながら、ユエは夜明けの空を眺めていました。
 ユエは、ひとりでいるときもよくしゃべる人でしたが、このときはずっと黙っていました。
 夜の終わりと朝のはじまり。
 幾度も繰り返していくその営みのなかで、たったひとつを、大切に愛おしむような沈黙でした。
 ユエが何を思っているのか、私には、いえ、私たちにはわかる気がしていました。
 星が巡り、だんだんと空が白んできます。
 朝日に照らされた彼の横顔を、冷たい風に揺れる金の髪を、たとえようもなく美しいと思いました。




 たくさんの子どもの声がします。
 笑い声、泣き声、はしゃぐ声。
 どの声にも、小さな身体から溢れんばかりの命の力強さがありました。
 それは、ユエの光にも負けないほどの輝きを放っていました。
 主星にある小さな館には、朝も夜も、生まれたての星のような、目映い小さな光が満ちていました。
 私は相変わらず、ユエの胸元に隠れていました。
 私の針は鋭くて、子どもたちが触れると柔らかな肌を傷つけてしまうかもしれないからです。
 ノアの指輪は、自らの役割を終えたあと、どこかへ連れていかれました。
「ユエ、こっちに来て」
「僕の方が先だよ」
「私も私も」
 腰のあたりにまとわりつく小さな影のひとりひとりに、ユエはそれぞれちゃんと応えました。
「わかったわかった。お前たちはちょっと待ってろ。順番を守ってな」
「どうすればユエみたいにきれいな字が書けるの?」
「そうだな……まず、集中すること」
「集中って」
「自分と、自分の書きたいものに、きちんと向き合うことだ。一生懸命にな。適当にやってると、いい字は書けねえ」
「ユエ」
 背後から名前を呼ばれて、ユエは顔を上げました。
「ヴァージル、いつ遠征から戻ったんだ?」
「はい、つい先ほど。俺は報告があるので、彼を風呂に入れてくれませんか。あと食事も」
 着崩した軍服姿の男は事務的に用件を告げて、自分のマントにくるんだ何かをユエに差し出しました。
 布地が重なったところから覗いたのは、子どもの顔でした。
 ユエの返事を聞く前に、ヴァージルは風のように去っていきました。
 かつて風の守護聖であったというヴァージルは、いつもこんなふうでした。
「ちょっ、おま、ヴァー……まあいい。こっちが先だな。俺はユエ。お前、名前は?」
 泥にまみれた子どもは、ぼんやりと視線を漂わせるだけで、返事をしません。
「これから、お前を風呂に入れようと思う。それとも飯が先の方がいいか?」
 飯と聞いたとたん、ぱっと表情が輝きました。
「オッケー。じゃあ飯にしよう。いきなりたくさん食うと身体に負担がかるから、柔らかいもんとミルクにするか。ああ、そういえば今朝焼いたカステラがあったな」
 ヴァージルという人について私は多くを知りませんが、彼はいつもふらりと現れて、ユエの元に子どもを置いていきます。
 ジュリアスとの話によると、ヴァージルは神鳥の宇宙に来てから王立派遣軍に入り、遠征先で行くあてのない子どもを見つけてはユエのところに連れてくるのです。
 もちろん、ヴァージルは理由もなくそんなことをしているわけではありません。
 ユエがいるのは、王立派遣軍が運営している施設のひとつで、戦争や災害で故郷を失った子どもたちが暮らしています。
 ジュリアスの紹介で王立派遣軍の仕事をしていたとき、ユエはこの施設の存在を知り、やがて管理を任されるようになりました。
 故郷で弟や妹の世話をしていたユエは、子どもたちとつきあうのが上手でした。子どもたちは皆ユエが好きでした。
 ヴァージルが連れてきた子どもは、あっという間にミルクを飲み干し、ぺろりとカステラを平らげました。
「もっとほしいって? 気持ちはわかるが、ちょっとずつだ。胃がびっくりしちまうから」
 大きな目を見開いて、じっとユエを見つめる眼差しを、私は知っていました。
 失われた人を、その人が纏っていた温かい闇を、今は空になった隣の場所を、私は思いました。
「安心しろ。次は夜、その次は明日の朝、ちゃんと毎回食事が出る。それに、夜寝るベッドはふかふかなんだぜ。なんせ、このユエ様が光をあててるからな」
 ユエは、相手をおびえさせないようにゆっくりと膝を折って、視線を合わせ、にっと笑いかけました。
「これから、よろしくな」
 私は、幸福でありました。

 私の物語があまりにも長すぎたのか、文箱はもう、くたびれて眠ってしまったようです。
 私は冴え冴えと夜空を彩る星光の彼方に、懐かしい人の面影を見ていました。




 明くる日の夕刻、光の守護聖の執務室に来客がありました。
 男は、大仰な動作で腰を折りました。
「ジュリアス様、本日は貴重なお時間をいただきまことにありがとうございます」
「回りくどい挨拶は良い。そなたに預けたいのは、これだ」
「……なるほど。触れてもよろしいですか?」
「好きにしろ」
 男は白い手袋をはめ、体温を感じさせない指で私を持ち上げました。
「これはこれは。名工の手になる逸品とお見受けします。素晴らしい品です」
 にこりと笑って、男は私を元の場所に戻しました。
 それから、ぴたりと笑みを止めて、ジュリアスに視線を移しました。
「差し出がましいこととは思いますが、本当に、私がお預かりしても?」
「宇宙は違えど、私も彼も光の守護聖であることに変わりはない。物を介さずとも、感じることはできる。どこにいても、いかなるときでも」
 何を、とジュリアスは言いませんでした。けれど、男はすべてを承知したように頷きました。
「左様ですか」
 私は、ここに来たときと同じように、小さな箱に収められました。
 まさに蓋が閉じられ、永い眠りにつこうとした瞬間、金に輝く光が差し込みました。
「かつて、ユエはこう言ったものだ。いずれ時が来たら、己の宇宙……梟を彫り込んだ品を私に贈りたいのだと」
 深く、静かに響くジュリアスの言葉の向こうに、描くことのできなかった未来と、出会うことのなかった友の姿を求めましたが、そこには、強く優しい光があるだけでした。
 ユエのあの伸びやかな明るい声が、輝くような笑顔が、心地よい体温が、永遠に届かない場所にいってしまった夜、私は、消えゆく小さな光の群れを、必死で追いかけようともがきました。
 流れるはずのない涙が身体を伝いました。
 別れの悲しみが消えたわけではありませんが、今このとき、ジュリアスと同じように、私もまた、彼の存在を確かに感じているのです。
 夕べの残光を惜しむように、私は、微かに身を震わせました。
 光は沈み、間もなく夜が訪れます。
 たとえ二度と目覚めることがなくても、その誇り高き光の美しさを、傍らに寄り添う闇の深さを、私は幾度となく夢見ることでしょう。
 それはきっと、素晴らしく優しい夢でありましょう。
しばし天より遠ざかり
 もしも願いが叶うならどうしたいか、と問われて、言葉に詰まった。
 令梟の宇宙が壊れないように……は、多分無理だ。みんなあらゆる手を尽くしてきて、この結果になったんだ。
 好きな人と結ばれるように、なんてそもそも願ってないし、願ったこともない。大好きなあの人が幸せなら、それでいい。
 家族と幸せに暮らしたい……とか、今更どうしたらいいんだろう。たとえ過去に戻れたとしても、生まれついたこの身体ではその後の未来を変えられない気がする。けど、この身体を否定したら、もう自分ではなくなるんじゃないか。
 美味しいものをお腹いっぱい食べたいとか、静かなところで好きなだけ寝たいとか、そんなふんわりした願いは、神鳥の宇宙に来てから、もう叶ってしまった。

 もしも願いが叶うなら、僕は一体どうしたいんだろう。

 *

 部屋の主に名前を呼ばれ顔を上げた。
 膝をついた絨毯越しに伝わる床の冷たさは、手放してきた自分自身の執務室のそれと似ている。
 闇のサクリアが満ちる空間は居心地が良い。けれどそれは同時に、自分が失ったものを思い出させもした。
 大きな手が伸びてきて、細く長い指で頭をそっと撫でられる。

「答えが見つかるまで、いつまででもここにいたら良い」

 クラヴィス様の言葉が祈りのように降り積もる。嬉しい。自分たちの力不足で居場所を失ったのに、こんなにも親切にしてくださる。ずっと憧れてきた人の気高さと優しさに、心が震えた。
 それなのに、曖昧な笑みを返してしまう。自分にとってこんなにもありがたいお話はないのに、どうしても「はい」の一言が言えなかった。

 どうしていつもこうなんだろう。
 居た堪れなくなって退室し、行く当てもなく宮殿の廊下を歩いていると、反対側からロレンツォが歩いてくるのが見えた。
 名前を呼び合うと、まるでそこが令梟の宮殿の一角かのように思えて、ちくりと胸が痛む。

「今日はどうしたの」
「報告だよ。令梟のサクリアによる悪影響が観測されたから、対応をジュリアス様に相談にね」

 緑あふれる庭園で、二人で腰を下ろしたガゼボの中は、時折暖かい風が流れる。ロレンツォが、明日の天気でも話しているような平坦な口調で、令梟のサクリアによる神鳥宇宙の天変地異の話をする。

「やっぱり聖地に近いほうが安定度が高い。離れるほど、リモージュ陛下の御力が届きにくくなるから、色んなことが起きてる」
「……たとえば?」
「常夏の星に氷山が現れたとか、深い森に大きな地割れが起こったとか、他には……そうだね、日が昇らないとか」

 眠れない子供に絵本でも読み聞かせるかのように、ロレンツォはタブレットから浮かび上がった報告書のページをゆっくりとめくる。
 神鳥の宇宙では、守護聖が動かずとも大抵は周りの人間が何とかする。記録を辿るのが大変なほどの年月をかけて積み重ねられてきた経験とシステム、女王の力、それから宇宙そのもののポテンシャル。そういったものが、根本的に令梟の宇宙とはまるで異なっていると知ったのは、こちらに越してきてからのことだった。

「気になる?」
「え……」
「ずっとこういう報告を受けては対応するような仕事をしてきたからね。突然もうしなくていいと言われて、取り上げられたような気持ちになってしまったかな」

 頷くことも、首を振ることもしなかった。できなかった。もやもやしていた感情を急に言い当てられたような気がするけれど、それが本当に合っているか、考える時間が欲しかった。
 なのにロレンツォは肯定と受け取ったように話を進める。

「神鳥のトラブルは基本的に小規模で、女王陛下や守護聖が視察に行くようなことはごく稀なんだそうだよ。聖地にいて、日々の平和を祈りながらサクリアを送る。ただそれだけで宇宙が円滑に回っている。こんなにも違うのかと……愕然とした」

 言葉と同時に息を吐いたロレンツォは、タブレットに手をかざして表示を消した。
 ロレンツォがショックを受けている姿は、片手で数えるほどしか見たことがない。なんと声をかけるか迷っていると、ロレンツォの方から「でも、だから大丈夫」と言葉を括った。
 この宇宙で大変なことが起きても、さほど間を置かず解決する。だから我々の出る幕はない。そう言いたいのだろう。
 でも、そこで人が死んでいるかもしれない。
 宇宙規模で見れば、一回の災害で人が一人死のうが百人死のうが、実際には大したことはない。それは長年守護聖を務めてきたのだから理解できる。
 だけど、人がひとり死んだら、その瞬間にその人の人生は終わる。その人に関わるすべての未来が途絶える。その人と関わりのあった人の人生だって変わる。変わってほしくないことも、変えたくないことも、否応なく変わってしまう。
 そのことも、長い濃密な時間を生きてきたノアは、痛いほど理解していた。
 そしてその原因が、自分のサクリアにあるかもしれない。もしかしたら、日が昇らない星で、眠るように死んでいるかも。

「思い詰める必要はないんだよ。私たちにできることは実際もうほとんどないんだ」

 前髪の隙間から盗み見たロレンツォの表情は、令梟にいた頃とまるで変わらないように見えたが、紡がれる言葉は当時と比べものにならないほど優しかった。

「私たちに与えられた使命は霧散した。やるべきことがないなら、何をしてもいい。時間は無限にある。何度か言っているけれど、これから先は余生なんだよ。途方もなく永い、ね」


 年の割に幼さが残る元同僚の頭をぽんぽんと叩き、ロレンツォはジュリアスの執務室へと足を向けた。
 宮殿の廊下をゆっくりと歩きながら、先ほどのノアの様子を反芻する。
 ノアには通じただろうか。もう自由に生きていいのだ、と。
 令梟の聖地にいた頃からノアは希死念慮があった。正確には、聖地に上がる前からだろう。それを、使命という鎖で縛りつけていたにすぎなかった。その鎖がなくなった今、彼に自由に生きろというのは、つまり。

「こんな伝え方をしたと知ったら、君は怒るだろうな」

 小さく呟いて、ロレンツォは一人、苦笑した。
 好きに生きていいというのは事実であり、本心だ。けれど、ノアが今まで背負ってきたものはあまりにも重い。もうすべて手放してよいのだと誰かが言ったところで、ノアは聞き入れないだろう。
 失ったもの、守れなかったもの、零れ落ちたもの……数えきれないほどのものを失くしてきたというのに、ノアにはたくさんの思い出と、途方もない力がまだ残っている。
 これからどのような生き方をするかは、ノアが決めることだけれど。

「彼の場合、生き方というよりも……命の使い方、という方が正しいかもしれないな」


 ロレンツォの背中を見送ってから、ノアはガゼボの天井を見上げた。
 何をしてもいい、という言葉が頭をぐるぐると回る。
 自由、願い、未来。これらが欲しくて堪らなくて、それでも手に入れられずに死んでいく人もいるのに。なんて贅沢なんだろう。僕はこんなにも恵まれているのに、どうしてこんなに……と思いかけて、守護聖になる前の日々が脳裏を掠めた。
 僕の人生は、恵まれていただろうか。
 やりたいことや願いが見つからないのは、恵まれているからではなく、本当は逆で、僕の人生が空虚だからなんじゃないのか。
 ハ、と。口から吐息が漏れた。
 生まれたところではやめろと言われ、やれと言われ。聖地に上がって環境が変わったらひたすらやれと言われ。別の宇宙に来て余生と呼ばれる時間をもらって初めて、やりたいことを探せと言われている。
 本当に何をしてもいいなら、もう終わりにしたい。それがダメならせめて、やらなくていいことを目一杯やりたい。そうしたら、もしかしてこの空虚な心が満足するかもしれない。
 それなら、なにかをしたという満足感を得られることをやろう。
 そうだ。守るものも、やるべきこともなくなったのに、自分の力のせいで困ったことは遠くのどこかで起きている。なら、僕がやるべきことは――――
 ガゼボの外にいた白い小鳥が、何かを見つけてパタタと飛び立った。ノアは目で追ったものの、あっという間に見失ってしまった。青空に浮かぶ白い雲に溶けるように、何物にも囚われないで。
 一筋の光を見つけたノアはすっくと立ち上がり、ロレンツォが向かったのとは別の執務室へと向かった。


「今まで、本当にありがとうございました」

 そう言って、ノアが精一杯の勇気で笑顔を作り、「行ってまいります」と頭を下げた。クラヴィスはただ、静かな夜を湛えた瞳でノアを見ていた。

「……決めたのだな」
「はい」

 クラヴィスが目を閉じて頷いたのを見て、ノアはもう一度頭を下げて、執務室を後にした。
 いつかこんな守護聖になりたかった。もう決して叶うことはないけれど。最後に憧れの人に送り出してもらえて良かった。
 感傷的な空気に鼻の奥がツンとなるのを感じながら重い扉をそっと閉じると、背後の廊下に物言いたげな気配があった。
 大きくため息をついて振り返ると、眉根を寄せたユエが腕組みをして立っていた。

「大体察しはついてんだぞ。長年の付き合いってやつだからな」

 こんな時ばかり勘がいい。

「そう。じゃアンジュには伝えておいてよね」

 優しい僕らの女王陛下は、このことを知ったら泣いてしまうかもしれない。そんなこと、自分では伝えられないけれど、ユエならきっとうまくやるだろう。これで気になっていたことは全て片が付く。心置きなく飛び立てる。

「は? お前が行くなら俺も行く」

 さもそれが当たり前のように、ユエは親指で自分自身を指した。

「え……帰ってくる予定、ないけど……」
「分かってる」

 ここで言い争っても、きっとユエは考えを変えない。それくらい分かる。長年の付き合いってやつだから。

「……好きにしたら」

 ノアが大きく肩をすくめると、ユエは白い歯を見せて微笑んだ。

 令梟の光と闇が神鳥の宮殿を共に歩いたのは、この日が最後となった。

 *

「ユエ、もうすぐ着くみたい」

 ノアが静かに俺を呼んだ。高速艇の窓に額を寄せると、宇宙空間に浮かぶ無数の星の中のひとつに、少しずつ船が近付いていくのが分かる。

「ここか」

 ノアが最初の目的地として定めたこの星には、ロレンツォのデータによると長い間雨が降っていないらしい。
 きっとここには、助けを求めている誰かがいる。
 高速艇が大気圏を抜け、地表が目視できたところで、着ていた室内着から執務服に着替えた。首から下げたブローチのきらめきが視界に入ると、自然と気が引き締まる。
 ハッチを開けて大地に降り立ち、ぐるりと周囲を見渡す。目に入るのは、岩場と荒地ばかりの茶色い世界だった。
 辛うじて残っている植物も、風に吹かれるたびに葉が崩れていく。事前情報でこの星の生態系が人類以外の生物で構成されていることは分かっていた。中型の動物の骨に虫が集まっていたり、岩場の影にはトカゲのような生き物が身を潜めているのが見えた。
 ノアと二人で、高速艇の移動中に資料や図鑑にはできるだけ目を通してきた。それでも、目の前の生き物がこれだと言い当てられるほどの自信はない。
 だが、生きた植物が見当たらないこの星で、水なしで生きていける生物は多くはないことくらいは分かる。
 なんとかしねえと。
 現状を正確に把握するため、タイラーから借りた端末でサクリアを計測する。そこに表示された数値は、埃っぽい空気の中に濃い光のサクリアが淀んでいることを示していた。

「……ユエのせいじゃん」
「な……俺⁉ いや、状況的にはそうかもしんねえが、俺がわざとやったわけじゃねーだろ!」

 そう言い返すと、ノアはそれを鼻で笑ってサクリアを放とうとしたので、思わず止めた。
 端末が自動で調整する時計によると、時刻は昼前。これから一番日が高くなる――つまり、光のサクリアが一番強い時間帯になる。経験上、こういう時は日が傾いてからの方が効果が高い。

「じゃあどうするの。ここでぼーっと夜まで待つって?」
「いーや。視察に行く。でないと、サクリアを送った結果が確認できないかもしれねえだろ。ほら、行くぞ」

 歩きたいわけではなさそうなノアの手を引き、ひび割れた大地を歩く。行けども行けども、見渡す限りの荒野で、森や山のような緑はなさそうだ。少し離れたところに大きな岩陰を見つけたので、そこで折り畳みの椅子を広げた。
 ノアが、ふうっと息を吐いて椅子に腰を下ろしたので、高速艇から持ってきていた水のボトルを手渡す。息をするたびに砂を吸い込み続けて、喉がいがらっぽくなっているから、休憩にはこれがいいはずだ。歩き疲れたノアは反発する元気もないようで、素直にありがとうと言って受け取った。おう、と返事をして、自分のボトルに口を付ける。ゴクリと水を飲み込むと、全身に染み渡るようだった。それから、二人でこの星の対処について話し合った。
 令梟宇宙では守護聖が送ればそのままうまく循環していたサクリアも、神鳥宇宙ではそうはいかない。大体が溶け込むことさえなく霧散するが、稀に吹き溜まりのような場所ができる。それによって生じる星や大陸の異常も、神鳥宇宙においては、様子を見ていれば自浄作用がはたらくように自然と元のあるべき状態に戻る。
 いつだったか、これらはひとえに女王と守護聖の力の賜物だ、と研究員の誰かが言った。それを間髪入れずサイラスが否定した。これこそが宇宙のポテンシャルだと。
 一つの花から取れた種を同じ土に蒔き、同じ量の水をやり、同じ場所で同じ時間の光を当てれば、まったく同じ花が咲くか? 否。蕾がつかない苗に肥料をやれば、すべての苗に蕾が付くか? 否。立派な花が咲けば、次の年も立派な花を咲かせる種を残すか? 否。宇宙も同じである、と。
 大輪の花が咲いた種と同時期に取った種を後から育てた時、後続の花も立派に咲くことを期待するのは仕方がない。植えた人間も、花が立派に咲くよう尽力した。植え付けの時期を確認し、土を整え、気温を管理した。水の量を確認し、日当たりを常に意識し、肥料を与える時には知識ある者に相談した。日々心を寄せ、何か他にできることがないか考えた。けれど、やっとのことで咲いた花は、すぐに枯れてしまった。
 大輪の花を咲かせ続けている方々は素晴らしい。しかし、それができなかった者の力が及ばなかったというわけではない。どうしようもなかったことで、誰の責任でもない。
 サイラスがそう締めくくった時、アンジュは大粒の涙をぼろぼろと零した。

「というわけで、神鳥宇宙に令梟のサクリアが何かやらかしたとしても、それも誰の責任でもありません」

 そう言って、サイラスはアンジュにハンカチを差し出した。

「新陳代謝を促すカンフル剤みたいなものだと考えればいいんです。神鳥研究員の面々は、レアな研究データが手に入るかもと浮足立っていますよ」

 ハンカチを受け取ったアンジュは、困ったように笑って、また泣いた。

 あのやりとりを、昨日のことのように思い出せる。首座たる己の命に代えても、女王にあんな涙を流させてはいけなかった。
 この旅に出たのは、自らの誇りと使命感によるものだし、きっとノアもそうだ。ノアが自主的にクラヴィス様のところを出たのが、その何よりの証拠だと思う。
 けれど、あの日の胸の痛みと悔しさは、他の誰に背負わせるものでもない。これから後悔しない生き方をする。そう決めていた。
 だから、この星の対応では光のサクリアを動かすことを提案した。が、ノアが珍しく強く自分がやると主張するので、今回は譲った。こいつにはこいつなりの思いがあるのだろう。
 黒髪の隙間から覗く金色の瞳は、今までにないきらめきを放っているように見えた。

 やがて日が落ち始め、空の色が紫がかる頃、ノアは「よし」と立ち上がった。
 すう、と大きく息を吸って、両手で水を掬い上げるように腕を差し出す。
 この星に必要なのは、水。だけどそれは直接的なもので、本質的には張り詰めた大気を和らげること。すなわち、安らぎ。
 闇のサクリア行使の邪魔にならないよう、数歩下がる。ざり、とブーツが砂を踏む小さな音でさえ邪魔になる気がするほど、ノアは集中している。
 一瞬風が止んだと思ったら、ノアの全身からサクリアが吹き出し、一直線に空へと突き抜けた。サクリアは目に見えないはずなのに、闇のサクリアが溶けた空は一気に暗くなったように思えた。
 直後、湿気まじりの冷たい風が頬を冷やした。遠くから雷の音が近付いてくる。雨が、来る。

 大急ぎで乗ってきた高速艇まで走ったが、ハッチに辿り着く直前で、ポツリと雨に鼻先を濡らされた。それから数秒後、ざあっと大粒の雨が大地をまだらに染め始めた。

「ふぃ~、ギリギリセーフ」
「アウトだよ……」

 マントについた雫をぱんぱんと叩き落とすと、隣の黒い執務服がその雫をすべて吸い込む。ノアは、「もう」と文句を言いながらそれを丁寧にハンカチで拭った。
 つい先ほどまで、一歩進むたびに砂埃が舞い上がり、乾いた風が鼻をくすぐっていたことなんて忘れさせるほどに、周囲は雨の匂いに満ちていた。
 雨音に紛れて、生き物が動く気配がする。高速艇の窓から二人で外を覗くと、狐に似た獣が一匹、ふらふらと岩陰から現れるのが見えた。
 皮膚病だろうか、毛はまだらに抜け落ち、痩せぎすの細い足でなんとか踏ん張っているという様子で、小さな水たまりの水を飲み始めた。水たまりは飲み干されることなく、どんどんその水面を広げていく。
 獣は休むことなく水を飲み続ける。雨はざあざあと降り続ける。他の生き物も動き出し、各々水を飲み始める。
 その様子を見守りながら、高速艇はそっとその大地から飛び立った。

 遠くなる水たまりを見つめながら、俺は胸が高鳴るのを抑えられないでいた。
 ノアはすごい。
 こいつがこんなにも直接的に星に影響を及ぼす力を使うところは初めて見た。本気を出せばお前はもっとすごいのにとこれまで幾度となく言ってきたが、これほどかと。
 ……俺も、こんな風に誰かのために力を使いたい。助けになりたい。あらゆる生命が誇りを持って生きられる宇宙を作りたい。
 この志は、どの宇宙にいようとも、胸のブローチと共に生涯輝かせ続ける。絶対に。
 指先でそっとブローチの輪郭をなぞると、俺に呼応してくれているように感じた。

 雨雲を抜けた高速艇が、星々の瞬く空を飛んでいく。
 このきらめき達が、少しずつでも俺の中にも宿るといい。それが沢山集まれば、ノアにも負けない力になるかもしれない。そう思った。

 *

「大きな星は異常が見つかりやすいから、聖地からの介入も優先度が高くなる――逆に、人類が生息しない土地や小惑星、人工衛星などはどうしても後回しになってしまう」

 俺たちの出発前、ロレンツォはそう言って、後回しにされてしまった星をリストにして渡してくれていた。
 そこから次にノアが選んだのも、また小さな星だった。

 資料によると、この星はここのところ異常に夜が長く、曇りがちの日々が続いているという。降り立った地の空気はどんよりと重く、息苦しい。

「蓋をされた鍋の中にいるみてえだ」

 この小さな鍋の中でも人類は生活をしており、そのうちの多くが長い眠りについているという報告の文字。ノアがそれを指でなぞり、数秒動きを止めるのを、横目で見ていた。

「早く解放してあげないと……」

 思い詰めたようなノアの呟きは、聞いていないふりをした。
 手元の計器の測定値は、ノアのサクリアとクラヴィス様のサクリアが変な混ざり方をして、うまく溶け込まずに淀んでいることを示していた。
 分離した水と油は、ドレッシングと同じように、丁寧に混ぜても放っておけばいずれまた分離する。この地ではおそらくそうなってしまうんだろう。それなら、本来この地には存在しないはずの、令梟のサクリアを取り除いたほうが早そうだ。

「僕がやるから」
「頼む」

 鍋の中で固まった油を少しずつ取り除くイメージで、ノアがサクリアを動かす。もとい、動かそうとしている。
 しかし、前の星のようにすんなりとはいかないらしく、闇のサクリアが放たれても、なかなか状況が変わらない。
 何かしてやりたいが、ノアの様子とサクリアの測定値を交互に見ながら様子を窺うことしかできない。やっぱり昼に闇のサクリアを行使するのは効率が悪いんじゃないだろうか。
 それでも、早く助けたいというこいつを止めることはできなかったし、今から止めることもできない。ノアの意志の強さはそれほどだった。
 どこかに力が入っているのか、目の前のノアのこめかみに汗が光り、しまいには顎に伝い始めた。それに応えるように、少しずつ、少しずつ、空に張り付いた二つの闇のサクリアが散っていく。
 その数値の変動とともに、ノアの顔色は悪くなっていく。焦点が合っていないように見える。止めたい、止めないと。でも、こんなに必死なノアを止めることは、俺にはできない。
 どれほどの時間が経っただろう。ノアは最後のひとかけらのサクリアを握り潰すように両の拳をギュッと握った。そしてそのまま気が抜けたのか、がくんと膝をついた。

「おい!」

 慌てて近付くと、ノアはゆらりと立ち上がった。

「……さすがに……疲れた……」

 ノアが空に向かって、はあっと大きく吐いた息は、白く染まった。力を振り絞って赤く染まったノアの頬と対照的だと思った。二人で見上げた空には、いつの間にか星がちらつき始めていた。
 しばしぼんやりとしていると、急に寒気に襲われて、襟元を顔に引き寄せた。開いた鍋蓋から冷気が降りてくるように、気温が下がり始めたようだ。これがこの星本来の気候なんだろう。
 もしここが雪の降る地域なら、フェリクスの故郷に似た景色が見られたのかもしれない。
 訪れたこともない元同僚の故郷に思いを馳せていると、ノアがくしゃみをして、ぶるりと震えた。汗をかいていたから、俺よりも寒く感じるだろう。肩のマントを外して、頭から掛けてやった。

「ちょっと今日のは強引だったんじゃねえか? 風邪引く前に撤退するぞ」

 ノアの背中を押して高速艇に乗り込む。船が高度を上げる時、民家の明かりがあちらこちらで灯されるのが見えた。ああ、人の営みが帰ってきた。
 そう感じてほっとした時、ノアが窓の外に向かって小さく言った。

「……よかった」

 その言葉には、何も言わず、けれどしっかりと頷いた。

 ノアはその日の夜からしっかり熱を出し、丸二日ほど下がらなかった。
 誰かの看病をするのは久しぶりだ。故郷の妹達のことが思い出されて、自然と口元が緩んだ。
 汗を拭くタオル、着替え、薬にお粥。両手両脇でそれらを持ち、パーティションを足でずらす。熱にうなされるノアの枕元に腰かけ、そっと声をかけた。

「ノア。ノア。飲み物、冷たいのと冷たくねえの、どっちがいい」

 俺の声に反応してうっすらと目を開けたノアは、冷たくないの、と吐息交じりに答えた。「りょーかい」と返事をし、持っていたものをその場に置いて、常温のボトルを取りに行った。

「寝転んで飲んだら変なとこ入るぞ。起ーきーろ」
「うう……」

 ノアの上体を起こそうと背中に手を差し入れると、ノアの背中の汗が手ににじんだ。起き上がったノアに、蓋を開けたボトルを手渡すと、ノアはぐいっと中身を飲んだ。

「……なにこれ」
「ヴァージルとシュリが教えてくれた、疲れた体に効くってレシピだ」

 水分と塩分と糖分、それからいくつかの栄養。味見はしていないが、材料は理想的なものを入れたので、自信がある。いつまでも料理と相性が悪い俺様ではない。
 フフンと鼻を鳴らすと、ノアは訝しそうにボトルを見た。

「……ほんとに?」
「いいから飲め。ゆっくりだぞ」

 まずいとまでは言わないけど、などと首をかしげながらも、ノアはゆっくりと時間をかけて飲み干した。
 その様子がどうにも懐かしくて、顔がにやけるのを手で隠した。それを見たノアが、顔を覗き込んでくる。

「? なに」
「……今だけ俺様を、『お兄ちゃん』って呼んでもいいんだぜ」
「気持ち悪」
「あっ可愛くねーな! 弱ったときは誰かに遠慮なく甘えたいだろうと思ってだな」
「逆じゃないの。甘えてほしいの? オニイチャン」

 くだらないやり取りをしていると、令梟にいた頃の気安さを感じられて、少しほっとした。
 この旅に出てからのノアはずっと張り詰めていて、熱を出して当然だと思えるほど力を使っている。それは、あの頃とは別人のような働きぶりだった。
 がむしゃら……とは違う。闇雲というか……鬼気迫る、とでも言うのだろうか。
 なんでノアはそんな力の使い方をしているんだ? 人助けのため、はそうだろうが、こんなになるほど無茶をするほどの理由にはならない気がする。
 そもそも、どうして急に人助けをする気になったんだ? いや、そもそも、ノアの目的は本当に人助けか……?

「オニイチャン、着替えるから出てって」

 ノアに声を掛けられ、ハッと我に返った。

「ちゃんと食えよ」

 そう言いながらパーティションを閉じると、「分かってる」とぶっきらぼうな返事があった。ノアはいつも通りだ。おそらく発熱の山場は越えたのだろう。
 そのことに安心しながら自分の寝台で横になり目を閉じたものの、先ほどのもやもやのせいで、なかなか寝付くことはできなかった。

 翌朝、俺がノアに起こされたときにはもう、次の目的地の上空だった。
 一見、星そのものは正常に動いているようだが、レポートの精密な観測結果によると、民は原因不明の不眠に苦しんでいるという。
 どういうことかと首を傾げながら、現地に足を下ろすと、突然息苦しさと眩暈に襲われた。
 俺よりも一足先に出たノアがたまらず前かがみになるも、なんとか一人で深呼吸をして姿勢を正していた。昨晩で熱は下がったものの、体力は完全には戻っていないんだろう。

「俺は耐えられるけどよ、お前病み上がりだろ。もう一日くらい休んでもいいんだぞ」

 困っている人は助けてやりたい。それは分かる。できるだけ早く。それも分かる。だがそれらは、自身が万全であってこそだ。違うのか、ノア。

「大丈夫」

 ノアは俺の顔も見ずにそう言い、サクリアの気配を読み始めた。
 旅の目的について、迂闊に聞けばはぐらかされるだろう。あるいは嘘や沈黙で逃げられる。なら、こちらから特定するまでだ。お前は、どうしてそこまで。
 じっと観察していると、何かしらの反応を得たらしいノアがゆっくりと目を開いた。

「……ジュリアス様のサクリアが強すぎる」

 手元の計測値を確認する。ノアの言っていることはおおむね間違っていない。だが。

「それは言葉が足りなさすぎる。これは……お前のサクリアとジュリアス様のサクリアの衝突か?」

 令梟の闇のサクリアがどこからか流れ込んだのを、神鳥の光のサクリアが散らそうとして、一時的に力が強くなっている。端末にはそう読み取れる数値が示されていた。

「うん。僕の責任だ」
「それも言葉が足りねえ。『俺たちの』責任だ」


 二人で高速艇から降り立った丘を下り、町の見えた方角へと歩く。この間の星ほどではないものの、やはり寒い。
 現地時刻に自動調整された時計には、間もなく日没と示されている。生き物が多く生息する星でのサクリアの操作は、夜に行うのが影響が小さいと俺が予想し、ノアもそれに賛成した。これからは、夜の活動が増えるのかもしれない。
 町に近付いても、明かりが増えないことに違和感を抱いた。もうかなり暗くなってきているというのに、明かりがついている民家が少ない。人々は家の中にいないのだろうかと町の中を二人で視察したところ、通りの人出もまた少なかった。多くの人が、明かりをつけていない家の中にいるようだ。
 くるしい。しんどい。あたまがいたい。ねむりたいのに、ねむれない。
 窓から見える屋内の様子では、大人は顔色が悪く、小さな子供はぐったりとしていた。
 おそらく、俺たちが介入しなくても、あと数日もすれば自然と解消する現象だろう。それはサクリアの推移予測から分かる。
 だが、こうなるまでに、もうそれなりの日数が経過しているはずだ。それに、この町の様子を目の当たりにして、放っておくことなどできない。
 そう思った瞬間、不意に路地から男が現れ、ノアの肩を掴んだ。

「あんたら、一般人じゃないな! 聖地からの助けか!」
「え、」
「俺の母親が! もうずっと病気で……!」

 男は長身ながらも痩せぎすで、上着の長袖の先から見える手首は骨ばっていた。獣のような目がぎらぎらとしている。
 ノアがそれと目を合わせてしまい、反射的に息を呑むのが分かった。咄嗟に、青年の骨ばった手を剥がし、ノアを後ろ手に庇って一歩下がり、距離を取った。
 クソ、気配薬を使っておくべきだった!
 歯噛みしながら、じりじりと間合いを広げていく。相手の出方を窺っていると、背後のノアがそれを制止した。

「多分……大丈夫だよ。どうしたのか、話くらい聞いてあげよう」

 ノアの言葉を聞いた男は、泣きそうな顔をして短く礼を言い、嗚咽交じりに話し始めた。

「もうすぐ星になるんだろうってくらい具合が悪いのに、眠れないんだ……頼むよ……助けてくれ……眠らせてやりたいんだ……」

 そこで初めて男の顔を直視した。よく見ればまだ若く、ノアやゼノと変わらない年頃ではないのか。
 男自身も目の下のクマは色濃く、健康状態も良くはなさそうで、疲労感が全身を包んでいた。それでも母親の安らぎを求めて――偶然か必然か――闇の守護聖に助けを求めてきた。
 その話を聞いて、ノアは指輪を抜き取った。
 ノアが初めて守護聖として宮殿に招かれたいつかのあの日、執務服と一緒に渡されていた、あの指輪。ノアの闇のサクリアが刻み込まれている――それ故に、他の誰も身につけることはできなかった――あの。
 それが、ハンカチに包まれて、ノアの手から初対面の男の手に渡された。

「どうしても見ていられなくなったら、この指輪をお母さんにつけてあげて。間違ってもあなたがつけちゃダメだからね」

 渡された男の目に、光が宿った。そして深く深く頭を下げて、飛び出してきた路地を走って戻っていった。
 愕然とした。信じられなかった。
 守護聖として、自分自身とずっと共にあったものを、あんなにも未練なく手放せるのか。これからも旅をするのに、サクリアの制御を最も行いやすい執務服の一部を失っていいのか。
 ……失っても、いい?
 それは、つまり――?

 俺の考えがまとまる前に、ノアが足早に町を通り抜ける。その後ろをついていく。町全体を見下ろせる高台に登ると、ノアは祈るように指を組み合わせた。
 ごめんなさい、と小さな声がして、闇の力が宙に放たれた。
 ノアの内側から、激しい川の流れのようにサクリアが湧き出す。その大いなる奔流が、ジュリアス様の強い力に全力でぶつかる。……が、うまくいかない。
 上空で待ち受ける強固な光の存在感は、ノアの闇の力でもたじろがない。
 それなら逆に、とノアは力をゆるめた。強くぶつけるのではなく、混ぜ込むように柔らかく力を送っているようだ。すると、ジュリアス様のサクリアが闇のサクリアで中和され始めた。
 ゆっくりと、けれど着実に。しばらくすると、星全体を覆っていた息苦しさが和らぎ、うっすらと雲が覆ったようになっていた星空がクリアになってきた。
 ノアの瞳は変わらず力強い光に満ちている。人々が安らぎに包まれて、眠れますように。そんな思いが伝わってくる。
 しかし、自分自身をすべて捧げるようなやり方で、何もかもを手放してもいいかのような振る舞いで、本心で願うことは、それではないだろう。ノア、お前の、願いは。

 闇のサクリアが夜空いっぱいに広がり、神鳥の光のサクリアと令梟の闇のサクリアが対消滅するのを見届けて、ノアはその場に倒れこんだ。

「ノア!」

 急いで駆け寄り、抱き起こす。腕の中のノアは、浅い呼吸を繰り返しながらうっすらと目を開けた。

「…………ここまでやっても、まだ、死なない、んだ……」

 まさかと思っていた。信じたくなかった。だから考えないようにしていた。

「バカ! ……怪しいと思ってたんだ。お前にしちゃ何かと意欲的すぎるって……けどまさか本当にこんな、こんな……」
「こんな……緩やかな自殺みたいなこと、すると思わなかった?」
「!」

 いつからそんな願いを? ずっと? 答えを聞きたくない質問が口をついて出そうで、うまく言葉が選べない。
 何も言えずにいると、ノアは俺の腕を支えにして、よろめきながら立ち上がった。ぐらついても、ノアは一人で踏ん張り、背筋を伸ばした。

「本望、なんだよ。自分の力を、誰かのために、目一杯使えるなんて」
「ノア……」
「やっと持てた願いを叶えて、それで僕は、ようやく終わることができる」

 はあ、と深く吐かれたノアのため息は、白くなって闇に溶けていく。俺はじっとノアを見つめた。金色の瞳には星の光が映る。
 頬は赤みを帯びていて、俺が長年見てきたどの横顔よりも生気があった。

「……お前は、どうして旅をするんだ」

 ようやく選んだ言葉は、とてもシンプルだった。それに対するノアの言葉もまた、シンプルだった。

「……精一杯、生きるため」

 願いを叶える生き方を、ノアは選んだんだ。誰にも揺るがすことのできない、誇りある生き方を。


「それより、まだついてくる気? ユエは一度ジュリアス様のところに」
「お前を独りにはしない」

 最期の時に独りなんて、そんなのは許さない。お節介だと思われようと、絶対に見届ける。宇宙で一番誇りある生き方をする、対のことを。
 相棒の即答に、ノアは苦笑した。困ったように、けれど生き生きと。

「好きにしたら」

 *

 僕の前髪が長くて良かった。
 こんな不意打ちで泣きそうになっているところを、他でもないユエに見られずに済んだ。
 ずっと、最期を迎える時は独りだと思っていた。そばに誰かがいてくれるなんて、思いもしなかった。いや、やっぱり少しだけ期待していた。ユエのお節介は筋金入りだから。

 星空の下を、光と歩く。
 行きたい星を自分で選んで、たくさんの人を助ける。やりたいと思ったことを、全力でやる。
 ユエはいつも肯定してくれる。どうしたらいいか、一緒に考えてくれる。
 言い合いになっても、喧嘩しても、険悪になっても、必ず隣にいる。
 闇のそばには光がいないと、って、当たり前みたいに。

 もしも願いが叶うなら、共に生きてくれた光に誇れる生き方をしたい。
 そう思った。
いつか見た景色/やがて吹く風
 <前編>いつか見た景色


 交渉は終わった。寒さを凌げる部屋、報酬。
 これで暫くは二人どうにか生きていけそうだ。役に立つ自信はある。使える男だと判断してもらえればあの臆病な領主のことだ、長期契約も有り得る。そうしたら弟も久しぶりに学校に通えるかもしれない。
 早く知らせよう。ヴァージルは門の外で待つ弟を呼びに足早に外へ向かった。

「……何をしてる?」

 門の外には、子供が二人。
 一人は弟。そして傍らにはこの領主の館に来たときから、まるで壁に溶け込むように座っていた孤児。弟と同年代か、もう少し幼いかもしれない。その首には、弟が先ほどまで巻
いていたくすんだ赤いマフラーが巻かれている。そして冬の枯れた小枝のような細い両手の中には、待ってる間食べるようにと弟に渡したパン屋の紙袋があった。

「それじゃあね」

 弟はヴァージルの問いかけには答えずに、孤児に手を振ってからこちらへ歩いてくる。孤児は、声を上げることなく、痩せこけた頬の小さい顔をただ弟に向けていた。
 弟が自分のところにまで歩いてくると、ヴァージルは少し声を潜めつつ弟を叱った。

「そんなことしなくていい。おまえが飢える。優先順位を考えて行動しろっていつも言ってるだろう。自分を最優先にしろ」

 それにあの子はもう――と言いかけてそれはやめた。
 生きる気力を失った小さくか細い命。あのパンを食べたところで、数日も保たないのは目に見えている。弟にだってそれは分かるはずだ。
 可哀想だとは思う。
 けれどあの孤児にもう明日を生きる力はない。それなら、あのマフラーもパンも、全て弟のものであるべきだった。

「だからだよ。兄ちゃんはそういうとこ冷たい!」
「一昨日、一週間スープしか食べられなくて腹減ったってわめいてたのは誰だ?」
「兄ちゃんのスープ草ばっかだもん……。それより交渉はどうだった?」
「栄養のあるハーブだって言ってるだろ、まったく」

 そこまで言うと、ヴァージルは笑みを浮かべ、手の中にある鈍く光る鍵を見せた。

「交渉なら成功だ。傭兵詰所だが部屋もある」
「やった!」

 弟の嬉しそうな顔を見て、ヴァージルもようやく肩の力を抜く。部屋は大部屋だろうが、凍てつく風を防げるならなんでもいい。早くこの薄着になった弟を中に入れてやりたい。マフラーの代わりに、弟の肩を抱きかかえるように腕を回すと、館に向かい歩き出した。
 背後では、ギィィィ……と重い音を立てながら門番が門を閉める音が聞こえる。
 歩みを止めぬまま、ヴァージルは少しだけ後ろを振り返った。
 閉まりゆく扉の向こう側。瞬間――、あの痩せた子供は先ほどと同じ姿勢のまま座り込んでいるのが見えた。そして門は固く閉ざされる。
 門の中と外。
 生と死を分ける線だ。俺達はこの中に入れた。
 弟の肩に回した腕に力を込める。俺の最優先。それ以外に心を寄せられない自分を正当化していく。この戦乱の星に生きていく以上、必要なことなのだと。

(この星を、いつか出ることがあれば)

 なにか、変わることがあるのだろうか。


◇◇

 王立派遣軍・雪中行軍演習一日目。
 年中、氷と雪に覆われた星。
 降り立ったときは、経験したことのないあまりの寒さに全身鳥肌が立った。気温は昼でも氷点下のままだ。喉を切り裂くような冷気。軍が支給した防寒具はしっかりとした作りだったが、息をするだけで腹の底に冷気が貯まり、身体の芯から冷えていく。動いていなければガチガチと震えていたかもしれない。
 故郷の星では、雪を見ることがなかった。それもあり、雪景色への憧れも心中にはあったのだが。

「はぁ……はっ……」

 背負った荷物が肩に食い込んでくる。慣れない寒さ、重みと痛みを訴えてくる肩。雪に足を取られ片脚が雪に埋もれれば、もがいてももがいても雪の中にずぶずぶ沈んでいく。昨晩降ったらしい真っ白い新雪は、柔らかな深い層となり踏んでもあまり固まらず、白い悪魔のようだった。

「くっ」

 ピッケルを渾身の力で握りしめながら、どうにか抜け出す。急いで隊列に戻れば、少し前を歩いている上官がこちらを見ていた。
 演習参加者の中で、最年少の自分。だからといって音を上げるわけにはいかない。大きく肩で息をしながらも、ぐっと前を向き、力強く前へ歩き出した。
 予定していた露営地に着いた頃は、もう気力だけしか残っていなかった。体力も筋力も根こそぎ霧散した……明日から大丈夫だろうか……そんな気持ちも、テント内で湯気の立つスープを一口飲むとじわりと解れていく。

「……温かい……」

 軍の食事が特別美味しいと感じたことはなかったが、この冷え切った身体に染みわたる温かな食事は、味よりも何よりも心と身体を温めてくれた。
 くたくたに煮込まれた香菜は、少し苦みもあって初めて食べる味だった。何だろうかと眺めていれば、隣に座っていた隊員が寒い星ではよく食卓に出る、身体を温め栄養価も高いハーブだと教えてくれて納得した。なんでも今回上層部から特別に参加されている教官のお勧めで採用されたらしい。

「ほら、今日途中で何度かしごかれてただろ。あの薄い金髪で細身の……」
「ああ!」

 そう言われ、すぐに誰のことか分かった。温和そうで、柔らかく丁寧な口調の教官だ。一見すると優し気な雰囲気なのだが、指導はいっそ冷酷なぐらいにスパルタで、自分より逞しい隊員達からも静かな悲鳴が聞こえていた。遅れがちだった自分はせめてこれだけでも、と唇を噛みしめて堪えたけれど。
 そんなちょっとした雑談を交わしつつ食事を済ませると、片付けの為テントの外へと向かう。
 外に出た瞬間、思わず感嘆のため息が漏れた。
 日中は厳しさばかりが際立つ一面の雪景色に思えていた世界は、今は唄うような星々の天幕と、銀白色の雪で包まれた山々が力強くも荘厳な冬景色を作り上げていた。

「…………凄い……」

 思わず足を止めて、深く息を吸った。冷たい空気が肺に入り痛んだが、この美しさからは目を逸らせない。天から降り注いでいるかのような星々の近さはまるで触れれば届きそうだった。
 手を伸ばしかけたその時、ふと物音が聞こえた気がして辺りを見渡した。
 その気配は、上官達が休んでいるテントの方からだった。柔らかそうな蜂蜜色の髪を揺らして一人の教官が出てくる。先ほど、テント内で会話に出ていた教官その人だ。

「ヴァージル教官、お疲れ様です!」

 敬礼をして挨拶すると、教官がこちらに歩いてきた。

「君ですか。食事はしっかり摂りましたか」
「はい!」
「今日は遠征中なので食材は限られますが、もっと普段から食事内容にも注視して、筋力と持久力をつけたほうが良さそうですね。一日見ていましたが、集団での遅れは命に関わります。そうだ、今から一緒に走りますか」
「はし……?」

 走る? この雪原で? 一日歩き通し訓練をした後で……?
 教官の真面目な声のトーンは、冗談を言っているようには聞こえない。指導していだだける機会を逃したくはないのだが。

「あの、自分は今から」
「片付けがあるので無理でした、か」

 すみません困らせましたね、と教官が軽く笑う。残念さと安堵が入り混じった気持ちになった。

「やる気があるならまた時間を設けましょうか。演習中は荷物を背負っていたので辛かったと思いますが、身軽なら問題ないでしょう。それにここの景観は素晴らしいですしね、走り甲斐もありますよ」

 教官は白銀の山々をゆるりと見渡した。ふふ、と笑うと「俺には懐かしい景色です」と続ける。

「教官はこの星のご出身なのですか?」
「いいえ。ここではない……もっと遠い場所にあった星です。気候が似ていますね。厳しい環境でしたが、冬景色は特別綺麗でしたよ」
「自分は、このような場所は初めてです。ですが、この大地の中に立っていると心が静まるのを感じます。それにこの満天の星を見上げていると、亡くなった父や兄の代わりをようやく務められるのだと感じて、志願した甲斐があったと…………すみません喋り過ぎました」

 教官に向けてこのような私語を普段なら話さない。だけれど、キンと深く厳かな程の冷気に包まれた雪の大地に立ち、向かい合って言葉を交わしていると、自然に素の自分が零れ落ちていく。心の底に風が吹いて、閉じ込めている気持ちを露わにされているようだと、そんな風に思った。

「父君と兄君を。お二人は軍に?」
「はい。二人とも、五年前に起きた事故のシャトルに乗っていました」

 そう続けると、教官は一瞬僅かに顔を顰め、自分から視線を外しそのままゆっくり天を仰いだ。

「同時に…………そうでしたか。……五年前なら、あの星の爆発事故ですね」

 恒星の寿命が尽きる際に起きる、超新星爆発。
 王立研究院が予測も出来ない程の異例のスピードで寿命を終えたある星の大爆発は、今でも少しも薄れることなく自分の記憶に刻まれている。周辺に人が住んでいる星はなかったが、王立派遣軍のスペースシャトルが爆発に巻き込まれ……搭乗していた父と兄が、シャトルごと宇宙の塵となった。
 骨も肉片も何も残らなかった。
 詳細について、箝口令が敷かれている――その事実を入隊後に知ったが、それ以上は末端の自分が調べた程度では分からなかった。あの異常な超新星爆発は、王立研究院から公表されている情報が少ないこともあり、『宇宙の歪みが原因だ』『いや兵器実験だったらしい』そんな信憑性のない噂が今も流れ続けている。
 何が理由であれ、父と兄が亡くなったのは事実だ。軍人である以上万が一のことは避けられない。そう分かってはいても、父と兄が志半ばで散ったことはただただ無念だった。

「……君は、亡くなったご家族の代わりに軍へ?」
「はい! 二人は自分の誇りです。母についているべきか迷いもしましたが……自分の家系は代々女王陛下をお守りするためにこの身を捧げています」

 天を見上げる。あの向こう側にまだお会いしたことはないが、女王陛下のいらっしゃる聖地がある。星々を追うように手を伸ばしかけ、掌をぐっと握りしめた。

「父や兄の死はショックでした。正直なところ、シャトルに乗るときは恐怖も感じます。軍に志願したときは、母にも強く反対されました。それでも、まだ自分がどれだけ未熟でも――女王陛下や宇宙をお守りする一端であれる勇気を持ち続けていきたいです。母だけを、自分達だけを見ていてはきっといけない。父もそう言うと思うのです」
「勇気を」
「はい!」

 瞳が、教官の瞳が揺れていた。見間違いだろうか、そう思う間もなく静かに瞼を閉じ、何か思案するような表情を見せた。

「五秒、後ろを向いてください」

 そうして飛んで来たいきなりの指示に、条件反射で教官に背を向けて直立不動の姿勢を取る。
 ばさりという衣擦れの音と、カチリと僅かな金属の音が聞こえた。まるで銃の引き金を引いたような響きにびくりとしたが、冷静に数えた五秒が終わると、恐る恐る振り返る。
 目の前で、教官がその長い睫毛を伏せ、左手の中の小さな布を見つめていた。
 先ほどまでと何か変だ、そうだ外套。自分達の軍の支給品とは違うデザインで目に留まっていた、教官の外套。
 清涼感のある爽やかなアクアグリーンに、金糸の縁取り。そして内側は夜の仄暗く深い海の色。五秒前まで羽織っていたはずのその外套が消え、教官の手にあるのは。
 ……小さくなった、その外套だった。

「手を出して」

 前へならえの体勢で両手を前に出すと、くるりと手首を回転させられる。上を向いた掌に、まるで人形の服のように小さくなった外套が軽く二つ折りにされて乗せられた。

「このまま渡しても良かったんですが、君が着ているわけにもいかないですしね。胸ポケットに入れておけば、いざというとき守ってくれますよ。ああでも、ハンカチ代わりにはしないで下さい。誤作動したら危ないので」

 言われるがままに上着の胸ポケットにしまう。
 頭の中は、何がどうして、でいっぱいだった。

「俺の知る限り宇宙一の、凄腕エンジニア製の防御システムが作動します。効果は保証しますよ」
「あの、どうして教官は自分にこれを? 防御システムとはなんですか……? その、自分が未熟だからでしょうか」
「身に付けている本人に危険が及ぶことを感知すると自動制御で守ってくれるシステムです。……まあ、訓練し甲斐はあるなと思いましたが。最後まで耐え切る今日の気概があれば、もっと強くなれますよ」

 そこで言葉を切ると、目を細めて懐かしむような顔をみせる。

「これは、危険な任務が多いことを心配した元上司が仲間に頼んで作ってくれたものです」

 そうして、教官が天を見上げる。穏やかな声だったが、その瞳は遠く輝く星だけを見つめていた。

「俺も君と同じです。以前は弟を。その後は女王陛下と宇宙を護る、それが全てでした」

 過去形の言葉が響く。
 同じ。だけれどきっと教官の話は自分とは何か大きく違うのではないか。息をするのもためらうような重い沈黙の後、教官はまた話を続ける。

「いつも、優先順位を決めているんです。俺の育った環境は中々過酷でしてね。他人に構っていると自分達は生きられなかった。常に、最優先を決めてそれだけを護る。ずっとそう生きていました。環境が変わってもずっと」

 ここまで言うと、顔を伏せ、ふうう、と長い息を吐く。そうして顔を上げた教官は、ずっとさっぱりとした顔で笑ってくれた。

「俺の良くないところは、変わる必要がないと思いこんでいたことですね。この防御システムは、俺より貴方の方がこれを必要とする家族がいるでしょう。母君を大切に」

 静かに語る教官の後ろで、まるで涙が落ちるように星が線を描いて流れていった。
 流れ星だ。誰かの願いを叶える一筋の星。

「それじゃあ、俺は走ってくるので。明日は四時起床ですよ、早く休むように」

 そう言うが早いか、雪原を風のように走り去っていく。みるみる小さくなるその姿に、従軍するずっと前、幼い頃に祖父から聞いた話を思い出した。
 なんでも、別の宇宙で風の守護聖をされていた御仁が、王立派遣軍に教官として在籍されることになったのだと。まだ若いが身体能力に優れ大変素晴らしい方だった、そう話していた。

 風の守護聖だった御仁……? 
 もしかして、いやでもそんなはずはない。自分が祖父から聞いたのは――祖父が入隊したときの、思い出話なのだ。その風の守護聖殿から、一番最初に教えを受けたんだと。そう、誇らし気に笑っていた祖父の寝物語。教官は確かにお若く見えるが、三十代といったところのはずだ。
 上着の上から、胸ポケットを押さえる。強い風が吹き、巻き上げられた雪が白煙のように宙に舞い全てを覆い尽くしていくのを、何も言葉がでないままにただいつまでも見つめていた。

 教官が退役したらしいと聞いたのは、それからしばらく後のことだった。



********************

 <後編>やがて吹く風



 ちりりん。と、風がドアベルを鳴らす。


「ああ、いらっしゃい。ご無沙汰だね」

 扉を開けると、快活な女性の声が出迎えてくれた。ご無沙汰、という言葉にヴァージルは内心で苦笑した。顔を出していなかったのはほんの数か月だ。永遠にも等しい時間を生きるこちらからすれば、つい先日どころか、ついさっき来たところのような感覚だった。

 熱砂の惑星の辺境にあるちいさなバーだ。
 昔は紛争の絶えない地域だったが、資源が枯渇すれば人は争いの種を失くした。やがて多くの人間は散り散りに別の惑星へと移住し、もの好きな少数が居座ってコミュニティを結成した。

 不思議と土壌がいいんだよ、と、以前彼女が言っていた。気候は農作に適さないので全天候型ドームが主流だが、土と水がいいのだという。そのため各種ドームではあらゆる農作が行われ、だが辺境のため新鮮なままの輸出には至らず、発酵、加工が行われ――結果として、今この熱砂の惑星は酒の一大産地になっていた。
 多くは輸出に回ったが、それでも地元の人間も酒が好きだ。このバーは店主選りすぐりの酒を出すので、ヴァージルはよく顔を出していた。
 明るい女性店主だ。いくらか白の混じり始めた髪をいつも高く結んでいて、笑うと目元に深い皺が刻まれる。

「何か、面白い酒はありますか?」

 スツールに腰を掛けながら問う。

「あるある。良かったら飲んでみてよ」

 そう言って彼女が出してきたのは、透明がかった黒い液体だった。訝しく思いながら口をつけ、次の瞬間にはグラスを置いていた。

「……なんですかこれ」
「珈琲の酒」
「いや、違いますよね」

 珈琲と酒を割る飲み方はヴァージルも知っている。生クリームを入れたりと甘みもあるのでヴァージル自身はあまり好まないが、一般的ではあった。珈琲と酒がうまく混じり合い、芯から温まるし気も緩む。だが、これは違う。この口に含んだ瞬間に分かるアルコールと珈琲の香りは、どちらも主張が強すぎる。珈琲の酸味が強すぎて香ばしさは感じないし、アルコールはアルコールであることだけを誇りにしているような不格好な強さ。それが口の中で延々と喧嘩している。知っている珈琲の酒、の味ではない。

「違わないさ。ちょっと作り方が違うだけで」

 すました顔で微笑む店主にヴァージルは息を吐いた。つまり、きっと。

「珈琲豆そのものを……?」
「ご名答。あっはっは、大変だったらしいよォ。珈琲は発酵させたって珈琲にしかならないー、とか、菌が違うんだーとかバイオがなんだーとか」

 そんな苦労をして出来上がったのがこれ、というのだろうが。

「……美味い、ですか、これ?」
「アタシには無理だったね」

 客に出すな。そんなものを。

 うっかり口を突き掛けた言葉を手で押さえ込んで、ヴァージルは微苦笑を零した。本当に、この惑星の人間はなんでもかんでも酒にしたがる。

「まぁ、アタシには無理だったけどさ。宇宙は広いからねェ。どっかにはいるんじゃないの。こーいうのが好きなやつも」
「フフ。まあ、そうですね」

 宇宙は広い。なにせ今のこの宇宙は、別の宇宙を飲み込んだ姿だ。
 久しく会っていない姿が脳裏を過(よぎ)る。飲み込まれた宇宙の女王。元気でいるだろうか。

「……じゃあ、貰おうかな。これ。売ってます?」

 このバーはバーではあるが、この地域らしく同時に販売もしている。飲める酒はだいたい購入出来るので、ヴァージルは気に入った酒を買っていくことが時折あった。
 が、店主の丸い目が見開かれる。

「え。買うのかい? これを? 正気?」
「そう言いたくなるものを売ってるのはどうなんですか」
「それはそう」

 あっさりと頷いて、店主は奥の棚を漁った。小柄だがどっしりとしたフォルムの瓶をカウンターに置く。支払いを済ませながら、ヴァージルは笑った。

「嫌がらせの手土産にはちょうど良いかなと」
「売り物を嫌がらせで使わないでくれる?」
「嫌がらせになるようなものを売ってるからでしょう」

 ヴァージルの軽口に、店主がからからと笑った。そのまま、ふと声音がやわらかくなる。

「手土産の品ならいくらでも用意しておくからさ」

 ――ああ、目が似ているんだな、と、思った。

「あんたももうちょっと、頻繁においでよ。まったくどいつもこいつも、不義理なんだからさ」

 すいと、視線がカウンターの奥へ流れる。古い写真立てが伏せてある。その姿を眺めながら、ヴァージルはグラスを軽く指で弾いた。

「そうですね、気が向けば」

 チンと高く、音が響く。



「これは……またずいぶん変わった酒だね」

 グラスに入った濃褐色の液体をくゆらせながら、ロレンツォは軽く眉を上げた。古めかしいこの建物は、彼の姿とそのグラスを品良く見せている。中身はアレだが。

「これは君がお気に入りだと言っていた惑星の?」
「ええ」

 あの惑星の話はしたことがある。幾度か土産にも持ってきているし、かつての仲間と飲む酒に選ぶこともあった。

「へぇ。面白いね。話に聞く限りずいぶんと意欲的な場所だ。いつか私も行ってみようかな」

 ひとくち、ふたくちと口に含みながらもついぞ美味いのひと言はなかったが、ロレンツォは好奇心だけでその酒を気に入ったようだった。少し舌打ちしたくなる。嫌がらせとしては失敗だったかもしれない。

「まあ、いいんじゃないですか。あの人に会う覚悟があるなら」

 ヴァージルの告げた言葉に、ロレンツォの紫の目がすいと細まった。

「あの人?」
「直接は知らないと思いますよ。例の惑星でバーをやっている人物です。ですが、あなたはその身内に心当たりがあるはずだ」
「長い話かな」

 ロレンツォはそのまま、店の奥に目をやった。『彼女』は今日はいない。その事を確認するように。

「アンジュがいなくて良かったですね」
「手厳しい。思うところがありそうだ」
「そうですね」

 ふうと息を吐く。あまり、楽しい話題ではない――まぁもともと、この男と楽しい会話、をした記憶もそうないが。

「いつかの王立派遣軍のスペースシャトル事故」

 ロレンツォの笑みが深くなる。

「その真相を知っておこうかな、と」
「いまさら? どうして」

 たった二言に込められた嘲りと、好奇心と、それから真実を感じ取り嘆息を飲み込む。

「そうですね。いまさらです」
「それは君が先日退役したことと関係している?」
「素直に聞けばいいでしょう」
「こうして会話をすることで紐解いていくのも、面白いものだよ。――失礼。あまり、面白い話ではないか」

 肩をすくめて、ロレンツォは席を立った。ゆったりとした足取りで店の奥のカウンターで、手作業を始める。珈琲を淹れはじめたらしい。おおかた口直しといったところか。

「俺はあまりそういう遠回しなのは好きではないです。なのでまぁ、あなたの言うとおりですよ。バーの店主は、俺が軍を退役する直前で出逢ったとある人物の身内です。ふたりの血縁者が、あのシャトル事故に巻き込まれている。ここが繋がったのが、最近です」
「情が湧いた? 君にしては珍しい」
「ロレンツォ」
「ごめんね」

 ヴァージルは眉を寄せて軽くロレンツォを睨む。彼の言うことはそれでももっともではあった。あまり他人に肩入れしないように生きてきている。しかし、軍で出逢った彼のことは気になってしまった。いつか指南した兵の血縁者。それだけではないと、自分の気持ちは分析出来ていた。おそらく、似ていたのだ。かつて一番大切にしていたものに。本来は荒事なんておおよそ向いていないであろうまなざしが。
 快活に笑うあの店主の息子だと知って、あまり似ていない親子だなと苦笑したのが、つい最近だ。

 ロレンツォは淹れ終わった珈琲をこちらに渡した。品のある香ばしい匂いが漂っていた。

「真相も何も。超新星爆発の原理は君も知っているはずだ」

 恒星の寿命が尽きるときに起きる超新星爆発。しばらく前、急速に進んだその現象に、王立派遣軍が巻き込まれた。公式にはそれだけだ。だが。

「あの場所に王立派遣軍を向かわせたのは聖地の王立研究院です」
「そうだね」
「王立研究院が超新星爆発『ごとき』、予測出来ないはずがない」

 強めに言い切って、それから、珈琲に軽く息を吹きかけた。湯気がふわりと、緑の前髪を掠めて消えていく。
 ロレンツォは困ったように笑って、それからゆっくりとカップに口をつけた。

「どうして私に? サイラスやタイラーでもいいはずだ。むしろそっちの方が筋が通っているだろう」
「あなたが知らないはずがないでしょう」
「それでわざわざここへ?」
「あなたのほうが責めやすい。それに、嫌がらせになりそうな手土産をちょうど見つけたので」
「フフ。それも君なりの情だと受け取るよ」

 ゆっくりと、ヴァージルは珈琲を口に含む。酸味はあるがやわらかく溶け込むような味だった。

「ただ、買いかぶりすぎ、かな。王立研究院でも予測が間に合わなかった。それだけだよ」
「では、超新星爆発の原因は? 通常ではないと言うことでしょう」
「君の推測通りだと思うよ」

 ロレンツォの笑みに、ヴァージルはゆっくりと息を吐いた。

「俺たちのサクリア、ですね」
「ああ。通常の予測範囲外の動きだった。あの星域での超新星爆発の可能性は予測されていたが、あまりに早かったんだ」

 内密に処理されたのだろう。公式に出なかったのは、そんな理由らしい。

「ではもうひとつ。予測が出来なかったのではなく、間に合わなかったとあなたは言った。最低限の予測はされていたのだとすれば、あの区域に王立派遣軍を向かわせた理由は?」
「まさか君は、軍が安心安全な場所へ行くとでも思っている?」

 揶揄うような言葉にヴァージルは微笑みを返す。

「まさか。あなたのような優しい環境では生きてきていないので」

 ふっと鼻で笑って、ロレンツォは肩をすくめた。

「よく勘違いされるが――」

 ふいっとロレンツォの指が中空を撫でた。見慣れた――かつては住んでいた――宇宙がそこに広がる。

「サクリアは守護聖だけが持つものではない。生物だけが持ち得るものでもない。宇宙にあるすべての存在が、あまねく持ち得るものだ。あくまで我々はその特異点として選ばれたに過ぎない。言い換えようか。守護聖に選ばれずとも、我々に近しいサクリアの量を持つものは存在し得る」

 宇宙に波のような光を流し、ロレンツォはふっとその映像を握りつぶすように消した。

「そういった者は、ある程度、暴走したサクリアの曝露に耐性がある」

 ロレンツォのはっきりしない物言いに、それでも意図を理解してヴァージルはカップを置いた。面白くない。

 たったひとり。大切な家族をあの熱砂の辺境に置き去りにして、意気揚々と軍に志願したらしいあの少年の顔が思い浮かぶ。

 あの軍は確かに違和感はあった。言葉にしようのない肌のざわめきがあった。それが、サクリアのものだったとは気がつかなかったが。

「その素質を持つ者を集めた軍?」
「必要だろう。まぁ、それでも無為に犠牲を生みたいわけではない。あれはあくまで事故だよ。志願兵であることも言い添えておけば良い?」

 平然とした顔でそう告げるかつての地の守護聖に深い笑みを送る。

「彼女はその事を知っているんですか」
「我々の女王は、聡い人だよ」

 答えとしては充分だった。
 帰りますと告げて、ヴァージルはカップを置いた。揺れる褐色の液体が少し、泥のように見えた。


 店を出て、空を見上げる。
 薄い青を溶かした空にカナタを思い出し、このまま寄っても良いかもしれないなと考えた。ちょうど、その瞬間だ。

「ヴァージル! 来てたんですか」

 やわらかい声に視線を向けると、優しい薄紅色の髪が見えた。ああ、今は会いたくなかったのかもしれない。そんなことを少し思い、笑った。

「ごきげんよう。アンジュ」
「ごきげんよう。ヴァージル」

 いつも通りの挨拶に心の奥に火が灯る。そのぬくもりを感じながら、彼女を見つめる。かつては女王然とした服装だったが、今はずいぶんとカジュアルだ。それでも彼女を包む空気は変わらない。

「ヴァージル。なにか、ありましたか?」

 彼女の水色の瞳が揺れる。聡い人だよ。その声を思い出し、苦笑した。

「なにか、ですか? どうして」
「勘です」
「あはは。ないですよ、特に」

 笑ってから、鼻からゆっくり息を吐いた。ポーカーフェイスは得意なはずなのに、どうも彼女の前では上手くいかない。昔から、ずっと。

「俺は、あなたに何も出来なかったな」

 ふいに唇から漏れた言葉を慌てて掬い上げようとした。口を手で覆ったところで、間に合いはしなかったが。
 耳に入ってしまったのだろう。アンジュの顔色がさっと変わる。ああ、そんな顔をさせたかったわけではないのに。もう一度笑って――笑えただろうか――背を向けた。

「すみません、アンジュ。また、来ますね」
「……っ、ヴァージル!」

 手を引かれた。あたたかな春風に絡みつかれるように。
 困っているような、笑っているような、あるいはだだをこねる子どものような、喪失を知っている大人のような。あらゆる感情を溶かした顔で、彼女はヴァージルを見上げていた。

「私は……あなたに貰いましたよ」

 ゆっくりと、言葉が風に乗る。

「何も出来なかったなんて、言わないでください」

 ――何を言っているのだろうと、思った。出来なかったではないか。彼女の愛した宇宙ひとつ、守れやしなかった。後始末に奔走されている今は、彼女の望んでいた未来ではないだろう。

「アンジュ。俺は何も、出来ませんでしたよ」
「貰いました。あなたに」

 悪戯っぽく、彼女は口端をあげた。

「私の宇宙を終わらせる勇気は、あなたに貰いましたよ。ヴァージル。私の、風の守護聖」

 ――女王陛下や宇宙をお守りする一端であれる勇気を。

 冷たい風と雪が、内耳をくすぐる。ああもう――と、胸中で独りごちる。そんな勇気は必要のないものだと、言えたら良かったのに。
 言葉を探るうちに、ふいに手のひらに冷たい感触を覚え、ヴァージルは視線を落とした。アンジュと繋がっていた手のひらに、何か硬いものがある。

「アンジュ。これは?」
「鍵です。ずーっと昔、私が住んでいた家の鍵」

 言葉を見つけられず、二度、三度唇を開いては閉じる。ヴァージルの眼前で、アンジュは少し楽しそうに笑った。こちらの虚を衝くことが出来たのが、嬉しかったのかもしれない。

「なんでも良かったんですけど。たまたま、持っていたのでちょうどいいかなって」
「……アンジュ」
「聖地に渡った頃だったかなぁ。サイラスに返して貰って、そこから御守り代わりに持っていたんですけど」
「そんな大切なもの貰えません」
「あげません」

 ヴァージルの手のひらにしっかりと鍵を収めて、丁寧にこちらの指を折りたたみ握りこませながら、アンジュは言った。

「あげません。預けるだけです。だから」

 あの頃から変わらない、茶目っ気のある瞳が見上げてくる。

「いつか。いつでも、いいから。返しに来てくださいね、ヴァージル」

 軍を抜けた。聖地の懐から出て、これからは自由の身だ。行く場所も、帰る場所も、本来はない。だから、だろう。アンジュの意図するところを感じて、ヴァージルはそっと手を引いた。鍵を握りしめて、微笑む。
 風の還る場所など、ないというのに。
 愚かで、かわいくて、賢くて。

「……酷い人だな」

 ヴァージルの言葉に、彼女は満足そうに笑った。


  
 途方もない年月が流れたと思う。数多の出会いを、無数の別れを繰り返した。男にも、女にも会った。人間とも、守護聖とも、不思議な存在とも、日々を過ごした。たくさんの子供を見守り、数人の老人を見送った。それでも、どこかひとところに留まることが出来なかった。
 自分はそういうふうに出来ているのだと受け容れられたのは、どれほどの月日が過ぎた頃だったか。それももう覚えてもいない。


 雨の日の夕刻、亜麻色の髪の男が来た。
 ここ最近は数年に一度顔を見せる、常連とも言えない顔なじみの客だった。最初に出逢ったのは、祖母の代だったか。その祖母ですら、子どもの頃からの顔見知りだと言っていたのだから、相当だ。その客の驚くほどの美しい顔立ちは、何年経っても老けることはなかった。こちとら、膝もきしんで立ち仕事も厳しくなっているというのに。
 ただの人間ではない。そんなことは、どうでも良かった。客は、客だ。
 グラスを磨きながら、久しぶりに顔を出したその男に酒を出す。
 疲れたような、すっきりしたような表情をして、彼は献杯だ、と言った。


「弔い酒か。そんな大切な酒を飲む場所として選んで貰えて嬉しいよ」
「なんとなく。風の吹きだまりのような場所で、好きですよ。俺はここが」
「そっか。ありがとさん」

 知らない誰かを弔って、グラスが微かに音をたてる。

「そんなこと言ってくれた矢先に申し訳ないんだけどさ、店、閉めようかと思ってて」
「ああ。そうでしょうね。出ていましたよね、避難指示」

 この星域は近く失われる。危険星域に指定されて、もう残っている物好きも少ない。

「惜しいですけれどね」
「まあ、一時期バカみたいに溢れていた酒屋も農家も減ってたしなぁ。潮時だな」

 こちらの言葉に、その男はくすくすと笑い声をたてた。
 愛しむような表情に、気が緩んだのかもしれない。言うつもりのなかった言葉が、口をついていた。

「本当はさ」

 男が顔を上げる。

「先祖代々の店だ。遠い昔神様が舞った地、なんて噂もあって、土壌もいい。俺ァここが好きだから、このまま店と心中してもいいかと思ってたんだけどよ」

 カウンターの端にある写真立てを指で示す。

「娘夫婦がさ、主星で店やってて。酒も出したいからこっちこい、って言われてなぁ」
「のろけですか」
「おう。いい娘に育っただろ」

 にかりと笑ってみせると、男は答えるようにグラスを軽く揺らした。

「この歳で再出発の勇気はなかなか湧かなかったんだけどな。まぁ、死ぬよりいいだろ。どこに行こうがさ」

 その軽口に何を思ったのかは分からない。
 人間じゃない不思議なその客は、ゆっくりと瞬きをし、珍しく「うん」と言った。




 ちりりん。と、風がドアベルを鳴らす。
 しばらくしてもドアが開かず、不思議に思って外に出た。

 赤茶けた道路に、小さな鍵が落ちている。誰かの落とし物だろうかと拾い上げた。

 もう一度、風が吹いた。
 ちりりん。

 あたたかな、春の午後だった。
救済のメソッド/さよなら探偵助手
 救済のメソッド/レイナ



「守りたかった、でも、守れなかった。ごめんね、私の――」

 最後の星を見下ろして、第二十五代、そして令梟最後の女王は涙ながらに呟いた。瞬間、星が膨張し始める。

「陛下、限界です! 早く離脱を!」

 甲高いアラートが鳴り響く管制室で、眼鏡の研究員が涙交じりの怒号を上げる。彼の警告を無視して、女王は崩壊の光に向かって身を投げた。

「私も、一緒に……」
「そうはさせねぇ!」

 純白のペガサスに乗った青年が、空間を切り裂いて現れる。

「ユエ!? それに、皆も。どうして……!」
「話は後だ! ほら!」

 九人の守護聖達が、彼女に向かって手を伸ばす。

「生きて帰るぞ! 全員でだ! 俺達には、まだ、使命があるんだ!」

 伸ばした手が繋がって暖かな光の環になった。二つの閃光が衝突して――。
 スクリーンが白飛びするほどの眩しさに、私は思わず両手で目を覆った。

 大団円のエンディングを迎え、スタッフロールが流れる。『原作・原案・脚本』に見知った名前が出現した瞬間、たった三人だけの観客は揃って大きなため息を吐く。

「……凄かったわね。サイラスの小説家デビューにも驚いたけど、映画化だなんて」

 隣を歩くシュリは、早速土産として押し付けられた原作小説全三巻を手繰っている。

「ニンジャはゴクドーとかいうのより強いのか?」
「え、忍者? ああ、ジルさんね。忍者は……説明難しいな。今度漫画貸すから読んで」
「強さの単純比較は難しいわね。でもシュリの長ドスも和装も似合ってましたよ」
「あんな細い剣よりも斧のほうが強いだろう」

 文句を言いつつも満更ではないらしい。小説の挿絵に描かれた炎の守護聖――日本刀を携えた着流しの男を眺め、シュリがひっそりと口元を緩めた。

「いいじゃん、二人ともカッコよかったし。あとさ~ミランさんが本人役で出るってずるくない? 『理想のミラン様すぎて、アテ書きしたんだっけ、と自分を疑いました(原作者 サイラス先生)』だって」
「白々しい。そういえば、なんでフェリクスが女になってたんだ」
「実写化に良くある事故ですね。エンタメ性を増すために、登場人物を女性にして恋愛要素を入れ込む手法は、昔から横行しています」

 無理な原作改変に泣かされた作品は枚挙に暇がない。作者やファンの無念を思うと怒りと涙がこみ上げる。

「なるほど、作劇上の都合……というやつか」
「でもあの女優さん、フェリクスさんっぽい雰囲気あったよね。ミランさん、びっくりしただろうな」

 カナタが私の広げたパンフレットを覗き込んで言う。お土産のポップコーンが満載された袋ががさりと音を立てて、バターとキャラメルの香りが鼻をくすぐる。
 あのストーリーに恋愛要素が必要かと問われると疑問は残るが、なにせ美を司る夢の守護聖役だ。神鳥ではオリヴィエ様の印象も相まって、性別を超越した存在として崇拝されることも多いという。

「私は、下手に男性俳優が演じるよりも、男装の麗人にしたのは正解だったと思うわ」
「まーそうだけど。本人が見たら何て言うか……あ、ごめん……」

 仲間の死と、その死に様は、衝撃的なものだった。みんな、必死に消化しようと――覚悟を決めようと努めている。その中でも、初めて近しい人の死を経験したカナタの落ち込みは酷いものだった。時間をかけてゆっくりと受け入れようとしていたところに、ノアの訃報が舞い込んでから、そう日は経っていない。彼の傷は、まだ、癒えていない。

「演劇や舞台がお好きな方だったものね。感想を聞いてみたかったわ」
「ははっ、ボロクソ言ってそう」

 明るく答えた私の気遣いを感じ取ったのか、カナタも笑った。そんな空気を遮るように、シュリがカナタの肩を無遠慮に叩いた。

「もう一つ。バースでは、登場人物がロボになることもよくあるのか?」
「致命傷を負った人間が機械人間にされるというのは定番でして……。アンドロイドを嫌っていたのに、自分こそがロボだと気付いてしまうシーンはお約束だけど、正直泣けたわ」
「わかる! 最後の爆発からアンジュを庇うところでさ、ゼノの装甲が剥がれて目からオイルが伝うの良かったよな~」

 あれは名作アニメの劇場版のパ……オマージュだったわね、と言おうとしたが、その作品の公開当時、カナタは生まれてすらいないことに気付いて、「そうね」と同意するだけに留める。

「あ~あ。皆見せ場あっていいよな~。オレなんて何の特殊能力もなくて引きこもったりオロオロするだけだったんだけど」

 観客に感情移入させるための「巻き込まれ役」、つまり主人公格の扱いだったが、当の本人は不満気だ。高校生らしい青臭さが爽やかで、良かったと思うのだけれど。

「名もなきモブ扱いだったタイラーよりはマシだろう」

 フォローになってないフォローに、カナタは「まあね……」と力なく同意した。


 せっかくだしゼノのところに行ってくる、というカナタを見送ってから、シュリを誘って探偵事務所ご用達のバーに向かった。

「私、決めました」

 華奢なカクテルグラスを握りこんだ指先が白くなっている。思ったよりも、自分はイラついていたらしい。何をだ、とシュリの返事を待たずに口が勝手に動き出す。

「歴史って、大事だと思うんです。私たちは忙しさにかまけてそれを疎かにしてしまった。聖地の記録がほとんど残ってないんです。歴史は語り継がれなければ、無かったことになってしまう。ルヴァ様にも言われました。令梟の宇宙が無くなったからといって、あの宇宙に生きた人たちの存在が無くなるわけではないでしょう、と。サイラスの小説や映画のようなフィクションも悪くないとは思います。でも、正しい史実も残さないといけない。たとえそれが、泡沫の歴史だとしても」

 きっと、私の瞳は情熱の炎で燃えている。解釈違いほど、創作意欲を掻き立てるものはない。

「……具体的には」
「本を作ります。令梟の民が、自分のルーツを知ることが出来るような歴史書を」

 言い切ってカクテルを飲み干した。つられて、シュリもグラスに残った蒸留酒を煽る。

「本、か。まあ悪くないんじゃないか。それで、お前は俺に何を望む?」

 察しが早くて助かる。バーテンダーにジン・トニックを二つ頼んでから、もう一度彼に向き直る。

「私の知らない、聖地の話を聞かせてください。先代の女王陛下や、守護聖達の話を」
「……あの頃の聖地は最悪だった。前の「水」の顛末を知っているだろう。お前の好むような、煌びやかで素晴らしい物語なんぞ一つも無い」

 眉間に皺を寄せて、忌ま忌ましそうにシュリが吐き捨てる。

「素晴らしいかなんて、関係ありません。統治の正当性は社会が……民が判断することです」

 カウンターに並べられたグラスを差し出して、シュリを見据えた。バースを発つ前日、あの運命のバーで飲んだのもジン・トニックだった。「強い意志」。彼との乾杯にこれ以上ぴったりのものはない。
 軽く合わせたグラスをそのまま口元に運び、喉を潤わせる。ライムの鋭い酸味が、高揚した精神を少しだけ冷静にさせた。

「でも……偉そうなことを言いましたけど、本当は、誰かに覚えていてほしいだけなのかもしれません」

 興奮して赤く染まった頬を隠すように、耳元のピアスに手を伸ばした。指先がシルバーの曲線を伝って、蒼い宝石に触れた。「髪の色と合わせてるんだ? 似合ってるね」そう褒めてくれた、親友の顔が目に浮かぶ。

「あの子が愛した宇宙のことを。そして、私達の今の生きざまを」

 *

「色々なことを、話してくれました。先代の女王には子供扱いされていたとか、前任の守護聖との引き継ぎに苦労した話とか。それこそ、歴史書にはとても書けないような事も沢山」
「興味深いね。守護聖と女王の禁じられた恋路? 追放された守護聖の話? それとも、次元の狭間に消えた研究員? 是非詳しく聞かせてほしいな」

 デリカシーのない店主の発言に、思わず舌打ちをしそうになる。シュリの癖がうつってしまったようだ。

「そうですね……とある守護聖のお披露目で、別の守護聖がその人を殴りつけて式典が中止になった話、しましょうか?」
「えっ! お披露目って……女王の御前で?」
「やばくね? 何したの、その人」

 驚愕と非難の交ざった声があがり、ロレンツォは降参、とばかりに両手を軽く上げた。

「やめておこう。静かな夜に相応しい話題ではなさそうだ」
「ロレンツォ、まさか……まぁいいか。今は、それよりも――」

 アンジュは伴侶に睨みを利かせた後、カウンターに広げられた調査書に改めて目を落とす。

「これ、ホントなのかな……だって、シュリさん、全然元気だったじゃん」

 信じられない、と懇願するように呟いて、カナタは書類から目を背けた。

「それは……」

 カナタ自身が一番感じているはずだよ、とは言えずにアンジュは口を噤んでしまう。優しい子。こういう時、後を引き取るのは私の役目だ。

「この時期を境に、炎のサクリアが一時的に激減しているでしょう。オスカー様がシュリを感知出来なくなったと仰ったタイミングと一致しているわ」
「そ……んなの、偶然かもしれないじゃん。誰も、確認してないんでしょ? だったら」
「いや。オスカー様のお言葉は正確さ。シュリの中にオスカー様のサクリアが在ったからね」

 食い下がるカナタをロレンツォが制した。

「は? どういうこと」
「サクリアの急激な消失への一時的な対処……つまり延命措置として、オスカー様がシュリにサクリアを分け与えたんだ。それが器を失って霧散したのであれば、嫌でも判るだろう」

 カナタが目を見開く。

「……何それ。延命措置? オレ、そんなの知らない。いつの話? 聞いてないよ、何も」
「君とゼノが、ヴァージルに頼まれて辺境の星にメンテナンスに行ってた時にね」
「貴方には、絶対に知らせるなと」

 何それ。同じ言葉を繰り返して、私とロレンツォの顔を交互に見つめたあと、縋るようにアンジュに問い掛けた。

「ゼノ……そうだ、ゼノは? 知ってたの?」
「私からは伝えてない……でも、ゼノの立場なら、多分」
「っ――そっか……また、オレだけ知らなかったってこと」

 カナタは寂し気な笑顔を見せた後、顔を歪ませてそっぽを向く。

「あのね、カナタ……シュリは貴方に」
「わかってるよ! そんなこと、オレだってさ、わかってるんだよ……」

 伸ばした手は冷たく払われる。情けなく彷徨う私の手を、アンジュがそっと握ってくれた。

「カナタ。来なさい」

 嗚咽が小さくなったのを見計らって、ロレンツォがカナタを連れて店の奥に向かった。サクリアが濃く残っている遺物を保管するためのキャビネットから、何かを取り出している。幾重にも鍵をかけて封印しているから、私は中身を直接見たことは無かった。
 先に戻ってきたのはカナタだった。何かを大切そうに抱えている。

「これ……シュリさんの」

 震えた手が見慣れた腕時計を差し出した。表面に無数の傷はあるものの綺麗に磨き上げられているし、時間も合っている。ロレンツォがこまめに手入れをしていたのだろう。時計を包んでいたクロスで軽く拭いてから、ゼンマイを巻いてやる。

「なんか手慣れてるね? 時計好きだったの?」
「私じゃなくて父がね。カナタ、左手ちょうだい」

 黙って私の手元を見つめていたカナタは、一瞬びくりと表情をこわばらせたが、アンジュに掴まれるままにおずおずと手を出した。

「あら? ベルト、丁度良いわね」
「シュリって意外と手首細かったのかな?」
「そんなわけないだろう」

 ウィスキーのボトルとコーヒーポットを携えたロレンツォが現れて、呆れた様な声を出した。

「君に合わせて調整しておいたんだよ」
「……ロレンツォさんが?」
「まさか」

 だよね、とアンジュが肩をすくめる。 

「シュリは、ちゃんと君に遺していったんだよ。これもね。せっかくだから、献杯といこう」

 秘蔵の酒だそうだ、と目の前に置かれたのは琥珀色の蒸留酒だった。どこかの星で手に入れた年代物だろうか。

「……それ系のお酒、まだ、その、あんま慣れてなくて」

 味とかわかんないんだけど、とカナタは気まずそうにしながら、瓶を受け取る。

「これ……日本語だ」
「え? ほんとだ。わざわざ取り寄せたってこと? シュリが?」
「だろうね。いつかカナタと飲もうと大事に取っておいたんだろう。今日は少しだけ使うから、残りは、味のわかる大人になってから飲むといい」
「また子供扱い」

 ロレンツォの視線を嫌って、カナタはカウンターに突っ伏した。その頭をロレンツォがポンポンと叩くが、すぐに鬱陶しそうに払い除けられる。嬉しいのか、怒っているのか、おそらくその両方だろう。髪の毛の間から赤く染まった耳が覗いている。

「なんというか、うちの男たちって……」
「ええ……本当に、不器用だわ」

 私たちの批評に「手厳しい」と苦笑を零してから、ロレンツォは手際良く四人分のホットコーヒーをサーブしていく。カップの縁に掛けたティースプーンに角砂糖を乗せて、ウイスキーを注いだ。

「カフェ・ロワイヤル……一期一会、ね」
「御明察。ギムレットといきたいところだが、『ギムレットには早すぎる』だろう? さ、暗くするよ」

 店の照明が消えた。同時に、ロレンツォがカウンターの小さなランプに火を灯す。そのまま四つのスプーンにも火種を移していく。
 小さな蒼い炎がコーヒーカップの上でゆらゆらと踊り始めた。微かな破裂音は、まるで命が燃える音だった。その音が途絶える前に、そっとスプーンを傾ける。幻想的な蒼い炎は褐色の液体に飲みこまれる直前、ほんの一瞬だけ大きく赤く燃え上がって、そのまま静かに沈んで消えた。
 隣に座るカナタが起き上がった気配がした。

「一期、一会……」

 物憂げなまなざしで、消えゆく炎を見つめている。そのうち、溢れた涙が頬を伝って、カウンターにいくつもの染みを作った。

「我らが炎の守護聖に」

 軽くカップを掲げ、口元に運ぶ。豊饒な風味が焙煎の香りと交ざって鼻に抜けた。ゆっくりと飲み込むと、唇から舌に、喉を通って胸の奥へと熱が伝播していく。
 ロレンツォが続ける。

「そして――偉大なる探偵助手(きみのあいぼう)に」

 彼にしては珍しく、その声には明け透けなまでに感傷が込められていた。

 
 夜が更けていく。腕時計が時を刻む音以外、何も聴こえなかった。静寂と裏腹に、腹の底が熱い。託された炎は、熾火のように熱く、静かに、いつまでも私の中に疼いていた。


************


さよなら探偵助手/カナタ



 洗面所で、顔を洗う。化粧水をまぶした手で、頬をぱん!と叩く。昨日は上手く眠れなかった。目の下のクマはあまり目立たないけど、顔全体が少し浮腫んでいる気がした。ワックスを髪に馴染ませる。サイドを下げて輪郭を隠して、口の端をぎゅっと上げる。
 大丈夫、目の前の自分は、なんでもないって顔で笑えてる。
 こうやって鏡を見るたびに、お前、誰だよって叫びたくなるのをぐっと飲み込んで、上を向く。涙がこぼれないように。昔の人がそう歌ってたから。全然、涙はこぼれるけれど。

 チリリン。小さなドアベルが来客を知らせる。いつもの開店時間よりもだいぶ、いや相当早い。今日は(正確に言えば、今日も)特に依頼は入っていないが、飛び込みの客だろうか。朝一で掃除を終わらせておいてよかった。
 はーい、と返事をしながら急いでリボンタイを結んで、バックヤードの鏡の前で身だしなみをチェックする。シャツ、ベスト、問題なし。手を洗って、腕時計を付け直す。これはただの、飾りだ。しばらく前に動かなくなってしまって、なんとなく、そのままにしている。

「お待たせし――って、なんだ、ロレンツォさんか」

 勝手にカウンターに座っていたのは見慣れた顔だった。何に影響されたのか、着流しに羽織、手元にはチューリップハットなんて出で立ちだ。大方の予想はつくが意外と似合っているのが嫌だった。

「やぁカナタ。すっかりバーテンダーが板についたじゃないか」
「つっても無資格のモグリだけどね……」

 主星のとある地方都市。ビジネス街の一角、看板のない小さなバーが新しい探偵事務所だ。素性がばれないように数年おきに引っ越しを繰り返しては、サクリアに関するトラブルを請け負う「怪異専門探偵事務所」を開いてきた。
 次の移転先を考える時に「さすがに大学生はそろそろ終わりにしようかな」と何気なく言ってみたら、真に受けたアンジュが「探偵はバーにいる」と言い出した。「その探偵はバーに入り浸ってるだけの客じゃん?」という疑問は受け流され、レイナによってあっという間に居抜き物件が用意されてしまった。
 もちろん、オレは飲食に関する免許は何一つ持っていないし、酒のこともよく知らない。店に置く蒸留酒やリキュール、グラス、軽いつまみまで、全部レイナが選んでくれた。

「ギムレットくらいは作れた方がいいわ。探偵だもの」と言われたものの、レイナからは中々合格点を貰えない。

 だから表向きは「やたらそれっぽい雰囲気の探偵事務所」。お客さんには、置いてある酒は好きに飲んでくれと言っているだけだ。
 ただ一つ、棚の一番右奥にある酒を除いて。
 
「どう、客入りは」
「今までの事務所よりも少ない。けど、その分精度は高いからトントンかな。バーだと思って入ってくる人ばっかりだけど、三割くらいはドンピシャで依頼に繋がってるし、そうじゃなくても情報が集まるから」

 兼業探偵という都合で今までは学生街に事務所を構えていた。だが、今回はバーという趣向もあって社会に疲れた大人の顧客が多い。
 ある意味、大学生という身分は便利だったと思う。人の集まるところに身を置いていれば自然と情報が集まるし、白昼にその辺をフラフラしていても「研究のためのフィールドワークです」という体裁が取れた。その肩書きが取れた途端にナンパ野郎か職業不詳の不審人物の出来上がりだ。だったら、訳有りの客を集めて話を聞きだす方が早い。探偵がバーにいるのは、めんどくさいとか暇で飲んだくれてる、とかじゃなくて、きっとそういう理由だろう。
 それに、こういう場所なら、あの人がフラっと帰ってきてくれるかも――なんて、淡い期待もあった。もう、そんなことは起きないって、知ってるけれど。

「酒は悩みや痛みを溶かしてくれるからね。こういう場には自然と訳有りの人間が集まる素地があるし……あとは、水のサクリアの効果もあるのかもしれない」
「水、の?」

 差し出した報告書を手早くスワイプしながら、ロレンツォさんは続ける。

「彼らは大抵、人に言いにくい悩みを抱えていたり、心に傷を負っている。君の力を無意識に求めているんじゃないかな」

 水槽に映った自分の顔は、引くくらいニヤけていた。だって、仕方ない。自分のサクリアがトラブルの種じゃなくて、誰かの癒やしになっているんだ。昔みたいに。

「それは、結構嬉しい」
「相変わらず素直でいい子だね、君は。……安心したよ。一人で大丈夫かと心配してたんだ。アンジュも今度様子を見に来ると言っていたんだけど」
「あんたら、いつまで経ってもオレのこと子供扱いするよね。ちゃんとやれてるってば」
「フフ、それはどうしても……ね。まあシュリほどではないだろう?」

 ヒュっと喉が鳴ったのが、自分でも判った。一気に血の気が引いて、音が遠のく。カウンターの後ろの壁にもたれかかって、はぁ、っと大きく息を吐いた。前髪の隙間から見えたロレンツォさんとは、目が合わなかった。もう、オレに興味を失ったらしい。

(まだ吹っ切れてないのか、ガキだな、とか。思われてんのかな)

 腕時計を右手で強く握り込んだ。金属の金具がガチャ、と鳴ったのが聴こえた。硬質で冷たい音だけど、握った手のひらには確かな熱が灯る。掴んだ熱を離さないように、ぎゅっと目を閉じて、上を向く。


 ――あの人との関係を表す言葉を、オレは見つけられないままだった。
「カナタ先輩~この前一緒に歩いてた赤いでっかい人、お兄さんですか?」
「お兄……や、それはちょっと無理あるっしょ」
「そうですか? 目元とか結構似てません? 仲良い兄弟だなーって思ったんすけど」

 大学生探偵を自称していた頃、良く聞かれては、答えに詰まっていた。ぱっと浮かぶのは保護者、同僚、同居人。あとは――兄貴。いや、それは流石に無理。「相棒」って言ってみたいけど、それもちょっと、まだ違う。というか、言えない感じ。これはオレのプライドの問題。
 探偵業のことは、隠していなかった。助手だと話すと女の子達は「全部見透かされてるような鋭い眼光。素敵」「今度紹介して」「バイト募集してないの?」などと囃し立てる。
 あの人そういうの興味ないからね、と釘を刺すけれど、正直わかる。ガタイが良くて、顔がシュっと整っていて、ちょっとワルそうなのに普通に子供とかに優しい。眩しそうに目を細めて、口の端を少しだけ上げて笑うのも大人っぽくてズルい。

「そりゃ守護聖やっててもやってなくてもモテるよ。かっこいいもん」
「は? 何を言っている。さては……好きな女でも出来たな?」

 ぎらりと目を光らせて、頓珍漢なことを言う。多分これがギャップ萌えってやつだ。

「違うってば。えーと、オレは準備完了。いつでもいいよ」
「フッ……連れ込むときは言えよ。じゃあ行くか」

 したり顔でシュリさんが言う。椅子に引っ掛けていた革ジャンを羽織って、サングラスを胸にひっかけたその姿は、とりあえず見た目だけは完全にハードボイルド探偵だ。

「これで行き先が猫の集会場でなければ、完璧なのに」

 伸縮性の網、捕獲用の籠、猫の餌、発信機もろもろでパンパンに膨らんだリュックを背負って、タンデムシートに跨がる。

「やっぱずるいなあ」

 分厚い背中に投げかけた言葉は、バイクのエンジン音にかき消されてしまった。


 あれが、二人での最後の「仕事」だった。忘れもしない。二年前の、今日。

「しばらく依頼も無いし――まぁいつもだが、溜まった用事を済ませてくる。一人で大丈夫か?」

 オレの頭は、大きな手の置き場にされた。

「何か困ったことがあれば、レイナに言えよ」
「だーから、ガキじゃないって」
「そうだったな。いってくる」
「ん」

 最後にわしゃわしゃと頭を撫でまわして、せっかくのヘアアレンジを乱していく。大きな犬にやるみたいに。それに、オレがマジでやめてって睨んで、シュリさんがすまん、ってぶっきらぼうに受け流す、いつものやりとり。押すな押すな、みたいなものねってレイナが呆れる。
 違ったのは、その手がもう一度、頭を撫でたことだった。存在を確かめるみたいに輪郭を辿っていく。猫に引っかかれまくって、赤い筋がいくつも走っている手首がゆっくりと離れていったのを、やけに鮮明に覚えている。
 それだけだ。明確な別れの言葉なんて、無かった。
 なんの躊躇いも、未練も見せないまま、大きな背中は扉の向こうの光溢れる世界に消えていった。
 あの日以来、おやすみは揃わなくなって、おかえり、と、いってらっしゃい、は返ってこない。それでもオレは、ただいま、いってきますってちゃんと言う。いただきますとご馳走様と同じように。言わなくなったら「認めた」ことになりそうだから。

「結局、手付かずのまま?」

 投げかけられた言葉が、憂鬱な現実を連れてくる。見下ろしたカウンターには、コーヒーカップが二つ。
 勝手に淹れさせてもらったよ、と言いながら、ロレンツォさんが椅子に座りなおした。
 彼が指すものは、淹れたてのコーヒーではない。目線を追わなくても分かる。棚の一番右奥にあるボトルだ。オレの故郷の酒で、シュリさんの遺していったもの。アンジュとロレンツォさんの店で、レイナと四人で少しだけ飲んだ。それ以来、開けていない。開けられない、今のオレには。

「あれからもう、半年は経っているけど。探しにいかなくて良いのかい?」
「探す? オレが……探して、いいのかな」

 どうして? とロレンツォさんが質問を重ねた。

「遺品は見つけられる可能性が高いだろう? なにより、知りたいと思わない? シュリがあれから、どこにいたのか。何を見て、どんな経験をしたのか」

 そもそも、居なくなった時だって探そうと思えば探せただろうに、と心底不思議そうに言う。

「でも……オレは、シュリさんのこと何も知らなかったから。知られたくなかったなら、追っかけられるのも嫌かなって」
「知られたくない? 何故そう感じるのかな」

 渡されたカップを覗き込む。褐色の透明な液体を見ると、苦いものがこみ上げてくる。

「……泥水ってさ」
「ん?」
「良い匂いの泥水って思ってたんだ。小さいとき、親のコーヒーをこっそり飲んだ時に。あ、今は平気。お客さんに出すから、よく飲んでるし」

 証明するように、一口、飲んで見せる。欲を言えば、砂糖はいらないがミルクはあった方が好みだったから、冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。

「四個目の事務所だったかな……子供の依頼人が来るからジュース用意しなきゃ、みたいな流れで、その話をして。そしたらシュリさん、何て言ったと思う?」
「シュリの思考を私に聞く? そうだな……まだまだ子供だな、とか?」

 カウンターに座って、もう一口飲んでから、牛乳を注ぎ足した。

「上等な泥水で良かったなって、笑ってたよ」

 手元が狂って、思ったよりも牛乳がどばっと入ってしまって、よりにもよって砂場みたいな色になった。また口の中が苦くなる。

「味、知ってたんだなぁって後で気付いて。守護聖になる前はどんなキツい生活してたんだろうって思ったけど……でも本人が言わないことをわざわざ訊くのもナシでしょ」
「え? 私だったら訊くけど」
「オレはその辺、わきまえてるから」

 日々の生活を共にしていれば察することもある。尾行の上手さや武器の使い方、交渉術、警戒心の強さ。着替えの時に見える、体のそこかしこに残る傷。そもそも守護聖時代からして荒事担当だったのだから、安穏とした環境で育った自分とは明らかに「違う」のだろう。

「泥水? 好奇心でもお勧めしませんね。運が良ければ、腹を壊すだけで済みますが」

 揶揄うように笑った彼も「そう」なんだと、なんとなく判っていた。二人とも好き好んで過去の話はしないから、こういうこぼれ話の後は、しまったな、とでも言いたげに目線が逸れる。その目線の先の、知らない世界を覗こうとするオレを、壁になった横顔が阻む。
 オレも、「あぁ、踏み込めないな」と線を引いてしまう。なんで話してくれないんだ、とも思わなかった。人にはそれぞれ、事情があるから。

「ふうん。そういう正しさや優しさは、必ずしも大人を定義するものではないと思うよ。スマートではあるけどね」

 紫の瞳に見透かされそうで、思わず顔を背けて壁を作る。視線を泳がせた先で、水槽の魚たちが退屈そうに水草をつついていた。
 魚たちは争わない。争う意味がないから。水槽にいる限り、飢える心配はない。天敵もいない。もしかしたら、気に入らないヤツがいるかもしれないけど、喧嘩したところでこの空間から出られるわけでもない。明日も明後日も、ずっと同じ奴らと暮らしていかなきゃいけない。だから、衝突しないようにお互いの境界線を上手く引いて、日々を生きている。
 きっと、オレは魚と同じだ。相手を傷付けないように、は、自分が傷付かないように、の裏返し。シュリさんや、ジルさんがしてきた経験してきたこと。背中を預けてきた相棒。必死に守ってきた誰か。ゼノの故郷の人たち。皆、もう死んでしまった。死んじゃった人には追い付けない。

 オレは昔、ゼノが引いてくれた線を踏みにじってしまった。それ以来、怖じ気づいて、焦がれる思いにも蓋をして、必死に喰らい付くことを諦めて、聞かない、と境界線を引いた。
 だからオレは、優しくなんて無い。大人になりたいって言いながら都合よく子供と大人を使い分ける。そんな自分の狡さにだって、とっくに気付いてる。

「この時計もさ、すごく大事なものなんでしょ。多分……その、コーディって人の形見とか、そういう」

 シュリさんが自分のことを話すのは、決まって酔った時だった。姿を消す一年くらいから、深酒の頻度が増えた。ほとんどは少し無茶しすぎた仕事の後で、今思えば、痛みを酒で誤魔化していたのかもしれない。

 ――俺はな、コーディが家族を持ったのが嬉しかったんだ。あいつの子供を抱いた時ほど感動したことはない。だから、カナタ、お前も所帯を持て。
 ――だからさ、オレはコーディって人のことロクに知らないんだってば。
 ――俺の相棒だ。なぁ、一緒にダンプを守る約束をしただろう……俺は、……。

 満足そうな顔で寝落ちするシュリさんの腕で、いつも誇らしげに光っていた時計。生っちょろいオレの腕には、少しゴツくてアンバランスだ。

「詳しくは知らないが……確かに、贈られたものだと言っていた」
「……それで、今は正真正銘、シュリさんの形見ってわけ」

 相棒の証みたいなものじゃないか。刻を止めたままの時計が鈍く光って、お前には不相応だと責められているような気がした。

「神鳥に来る時に、シュリさんは……あんた達は、オレに好きなことをしていいって言ってくれた。今もこうして、オレがやりたいことを出来るように色々してくれてる」
「そうだね。私達にはそれを制限する理由はないし、君を支援する力も、余裕もある。君は好きなように、満足する生き方をすればいいと思っているよ。人道に反しない範囲で」

 じんどう。ロレンツォさんは噛み締めるように繰り返したあと、それを打ち消すようにフっと冷たく笑った。それはきっと、ロレンツォさんにとっての、知られたくないこと。あからさまに作られた壁を、オレは乗り越えない。

「シュリさんは、好きに生きたと思う?」
「だろうね」
「ずっとオレのお守りをしてたのに? オレは――あの人の居場所に、なれなかったのに」
「どんなに居心地が良いところでも、そこを「家」に出来るとは限らない。でも、それはシュリのせいでも、ましてや君のせいでもない。誰が悪いわけでも無いんだよ」

 一口、コーヒーを飲んでからロレンツォさんが言葉を続ける。

「言うなれば、自我を持ったヒトの性(さが)……本能と言ってもいい。抗えないよ。永遠に近い時を生きる我々なら、尚更ね」

 あの、ミランとフェリクスでさえ。ほとんどため息みたいな呟きが付け足された。え、と思わず漏れた声は、曖昧な笑顔で――オレにはまだ出来ない、上手な大人の表情で――やり過ごされてしまった。

「話を戻そう。君との生活について、少なくとも、私は不満を聞いたことがない。おそらくアンジュも。だから、気に病む必要は」
「じゃあ、なんで……っ」

 自分で話を遮っておいて、いったん口を噤んだ。答えを聞くのが怖くて、次の言葉を吐き出すまでに時間がかかった。

「……なんで、黙っていなくなったんだよ!」

 涙が出てこないように、目の奥にぐっと力を入れた。

「心配をかけたくなかったから、とアンジュもレイナも言っていただろう? もう少し正確に言うと、死に際を見せたくなかったから、かな」

 ロレンツォさんはコーヒーポットを持ち上げて、残っていたコーヒーをカップに注ぐ。いる?と目線で聞かれたけど、首を振った。まだ「上等な泥水」がなみなみと残っていたから。

「君にこれ以上、喪失を経験させたくない、という想いと……君の手が放せなくなる前に離れようとしたんじゃないか? 時間を重ねてしまうと、離れ難くなるものだろう? 知っての通りシュリは情に厚い男だし、存外、寂しがり屋だからね」

 それから、個人的な見解、と付け足してロレンツォさんがカップを置いた。

「言葉を選ばずに言うなら――君への罪悪感もあっただろうし」
「そういう……っ」

 左手首がずっしりと重い。腕から伝わった熱で体全体がじわじわと火照ってきて、段々と抑えが効かなくなる。

「勝手に連れてきて、勝手にいなくなって! こんな大事なもの、一方的に託して!」

 カウンターを叩く。ガチャンと音がして、残っていたコーヒーがソーサーに溢れた。みっともない。こんなの八つ当たりだ。でも、一度溢れだしたら、もう止められない。

「それで、勝手に……独りぼっちで死んじまって、なんなんだよ? ほんと、ムカつく!」

 ぼたぼたと零れた涙を拭う。顔に触れた腕時計が鉄臭くて、血の――命の匂いがした。
 逝ってしまった人たちの顔が浮かぶ。フェリクスさんがミランさんのいたずらに怒っている顔。ユエさんの話を眠そうに聞き流すノアさん。死ぬために生きてたってユエさんは泣いてたけど、絶対、それだけじゃないって、オレは思う。
 海斗。また一緒に海外行きたいなぁって話したのにね。オレは海外どころか、別の宇宙に来ちゃったよ。ステージで、引き攣った顔でピアノを弾いてた母さんに、恥ずかしそうに花束を渡しに行った弟。父さんはやたら嬉しそうで。オレは、大人になっても習い事ってやっても良いんだなぁなんて呑気にそれを眺めていた。
 シュリさん。目尻に皺を寄せて、小さく口を歪めて不器用に笑う。

「オレ……誰にも、さよならって、言えてないんだよ」

 ロレンツォさんは何も言わない。鼻をすする音と、水槽のエアレーションの音だけが部屋に響いている。同じだ。執務室に引きこもっていた時と。オレはあの時から、ずっと同じところをぐるぐるしてる。

「カナタ。その時計は、壊れていたんだよ」

 オレの呼吸が落ち着いたころ、ロレンツォさんが静かに口を開いた。

「君が守護聖になる前から、ずっとね。君が来て、女王試験があって……聖地に戻ったくらいか。ようやく、ゼノに直してもらったんだ。正直、驚いたよ。誰にも触れさせない、と頑なだったから」
「ど、して……」
「どうしてだろうね? 生憎、そんなことを打ち明けあう仲では無いから、これも私の推測に過ぎないが。その心境の変化の一因は――」

 カウンター越しに、とん、と心臓の辺りを突かれた。そのあと、白い封筒が差し出される。

「これは、シュリからだ。読んでも、読まなくてもいいと」

 言われるがままに、軽くて、薄っぺらい手紙を受け取る。シュリさんの簡潔な業務日誌を思い出す。そっと封蝋を剥がして、便箋を開く。

『俺は、生きたいように生きた。お前もそうしろ。』
「……ほんとに、一言じゃん」

 顔を上げると、ロレンツォさんが、真っ直ぐにオレを見ていた。口角を片方だけ上げて、なんだか眩しそうに目を軽く細めている。
 ――この人、こういう笑い方もするんだ。

「君も、時間を進めなさい」

 不器用な笑顔のまま、ロレンツォさんが言った。何故か、シュリさんを思い出してしまう。顔の作りも雰囲気も、全然、似てないのに。

「君の鳥籠も、止まり木も、もう無いんだ。飛び立つ時が来たんだよ」

 喉の奥がぐっと強く締め付けられる。返事をしなきゃと思ったのに、苦しくて、声にならなかった。


 ゼノと会うのは、随分久しぶりだった。最後に会ったのは、サイラスの映画を見た時。お土産のポップコーンを食べながら、映画の感想――半分くらいは文句だったけど――を言いながら、だらだらと朝まで話した。それがすごく青春って感じで、オレは地味に感動していた。その後、シュリさんのことがあって、ずっと連絡をしていない。
 それが気まずくて、アポを取らずに部屋を訊ねた。「居なかったら仕方ない」って、自分に言い訳をしながら。
 時計を見たゼノは、何も言わずにすぐに修理に取り掛かってくれた。全部バラバラにして一つ一つの部品をチェックして、眼鏡洗うやつみたいな機械に入れていく。キーンと鳴り続ける高い音でなんだか耳がもやもやしてきて、ソファで待たせてもらった。

 ゼノの部屋にいると、飛空都市にいる気分になる。あの時の私室が住みやすかったから、似たような作りにしたらしい。オレは、あの頃を思い出すと懐かしさよりも恥ずかしさやもどかしさが勝って、ちょっとむず痒くなる。それに、見慣れた部屋で、見慣れない服を着ているゼノにも、モヤっとする。ゼノには秘密だ。

「予備パーツは大体持ってるんだけど、現物合わせで造形する部品があって……。ちょっと時間かかっちゃうけど、カナタ、待てる?」
「うん、大丈夫。急に来たのにありがと」
「よかった。でも、その……俺のお腹が待てないっていうか……だから、ごはん食べない?」

 手を洗って、キッチンに並んで立つ。ゼノが提案したメニューは、生姜焼き。必要な材料は、全部揃っていた。

「オレが来るって、知ってただろ」
「あはは……ロレンツォ様から、もしかしたらって連絡もらって」

 シュリさんが神鳥の人に助けて貰ったのを、オレだけが知らなかった。ゼノは知ってたのに、オレに黙っていた。それを知ってから、ゼノのことを避けていた。何通もメールを貰ってたけど、開いてすらいない。
 別に、ゼノが悪いわけじゃない。シュリさんが知られたくないことを勝手に教えたら駄目だから。でも、オレは割り切れない。なんなら、ゼノが独りで神鳥の人間になるって決めたことだって、未だになんでって思ってる。
 人には人の事情がある。どうしようもないこともある。口ではそう言って大人ぶってみても、ずっと喉の奥がチクチクと痛い。小さな魚の骨が刺さってるみたいだ。

(ほんと、オレだけガキのまんまだよな)
 ぼんやりとキャベツを切っている間に、ゼノは生姜焼きに味噌汁、卵焼きまで作り終わっていた。慌てて盛り付けると、キャベツの隣にお手製のマヨネーズを添えてくれた。
 いただきます、と手を合わせる。それからは、無言で食べた。肉をがぶりと噛みちぎって、奥歯で噛み砕いて、ごくりと飲み込んだ。懐かしい味が感情を昂らせる。
 悔しい。会いたい。どうして。知りたかった。もやもやした気持ちが一気に溢れそうになって、汗を拭くふりをしようとして、本当に汗をかいていることに気が付いた。
 これ、オレ好みの辛さだ。ゼノには辛すぎない? そっと隣を盗み見ると、やっぱりゼノは顔を真っ赤にして、ごくごく水を飲んでいる。

「ん、何?」
「あ、いや……前にも、こんな風にメシ食ったことあったなって、思い出して」

 好みの味にしてくれてありがとう、なんて言うのも気恥ずかしくて、誤魔化した。

「え? いつ?」
「とぼけんなって」
「だって、カナタと二人だけでごはん食べる時って、大体カナタ凹んでない?」
「うっせ」

 はは、と笑い声が揃った。

「俺はね、カナタのそういうとこ、良いと思うよ」
「ん、何が?」

 箸休めの卵焼きを齧る。いつもは甘いやつだけど、今日はしょっぱい。やっぱり俺の好きな味にしてくれている。

「ちゃんと、悲しいとか寂しいって感情を出すところ。しまい込んでると、忘れちゃうからさ。勿論、嬉しいって感情もね。カナタは、全部ちゃんと抱えながら前を向こうとしてるでしょ。それって凄いことだよ」

 ゼノがふにゃりと笑って、また水を飲んだ。何かを――多分、「俺と違ってさ」みたいなことを――飲み下した。
 良く見てるんだな、オレのこと。親じゃん、もう。料理も上手いし、飯食ってるオレをいつでも笑って眺めてるし。
 タレとマヨネーズでしんなりしたキャベツを茶碗に乗せて、最後の肉で米とキャベツを巻く。それを、ばくりと一口で食べる。これが一番美味い食べ方だ。食事マナーに煩かった母親ですら「ここまで美味しそうに食べるなら、お行儀なんてどうでもいいわ」としみじみと言っていたのだから、間違いない。

 御馳走様、と合わせた手を、そのまま胸のあたりに持ってきて、跳ねる心臓をジャケットの上から握りこむ。胸ポケットに入れたシュリさんの手紙に触れた感触があった。
 今日、オレは線を越えるために来たんだ。

「あのさ。ノアさんのお墓のこと……ちょっとショックだったんだよね。何も残らない、空っぽの墓なんて、おかしいじゃんって。タイラーだってきっと色々考えて、悩んだはずなのに」
「お墓はね、時々行ってるよ。掃除して、おやつ食べて、ついでに昼寝したり」
「サボりじゃん、罰当たり」
「タイラーも一緒だし。それに、ノア様は怒らないよ」

 確かに、あの人なら一緒に昼寝に付き合ってくれるだろう。穏やかな風が吹く、陽射しの柔らかな木陰でぼぅっとするのが好きだったから。

「あの時のオレ、ボロボロだったんだけど。シュリさんが手、繋いでくれた。普通、男同士で手なんて繋がないじゃん、子供みたいで恥ずかしくて……でも、振り払わなくてよかった」
「うん」
「なんか、嬉しかったんだ」
「うん」
「誰かと一緒に食べるメシって美味しくて、暖かくて……家族、みたいだと思った。ゼノは神鳥の加護を受けて……いつもオレを待っててくれて……きっと、いつか……オレが……」

 うん。耳元で、相槌が聴こえた。降り注ぐ光の中で聴いた子守歌みたいに、優しい声だった。
 

「シュリ様の居場所、探してみようか? ここのシステムなら、多分」

 遠慮がちな提案に、大丈夫と即答してみせる。

「オレ、これでも探偵だから。人一人くらい、探せなきゃシュリさんに笑われちゃうよ」

 ひらひらと手を振ると、ゼノがピカピカに磨いてくれた腕時計がちゃら、と軽い音を立てた。あんなに不釣り合いで重たく感じていた腕時計が、なんだかすごく、馴染んでいる気がした。

「そっか。何か持ってく? こっちの物置にも色々あるんだけど」

 案内された物置は、物置じゃなくて倉庫だろって広さで、整理はされているものの、仕事道具なのか趣味の発明品なのか、判別出来ない物であふれていた。張り巡らされたコードを踏まないように気を付けながら通路を進むと、シャッターの前に見覚えのある乗り物があった。

「あ、これって……借りていいやつ?」
「もちろん!」

 声を弾ませて、ゼノが駆け寄っていく。カバーを外してスイッチを押すと、すぅっとタイヤが浮かんだ。

「元々、カナタのために作ったんだよ? いつ渡しても大丈夫なようにしてたんだから。ついでにこれと……これも!」

 差し出されたのは、ヘルメットとゴーグルだった。ゼノが着けているものと同じデザインで、レンズの部分が薄い青色になっている。

「へへ、お揃い」

 はにかんだゼノに、いいじゃんって笑い返そうとして――ぐにゃりと視界が歪んだ。

「……あの、さ。オレ、ゼノにこんなに良くしてもらってるのに、心配してくれてるのに、勝手に自分だけが一人で辛いんだって、ずっと思い込んで……」

 貰ったヘルメットとゴーグルを抱き締めて、頭を下げた。これが、オレの最後の線。傷付く覚悟も、傷付ける覚悟も出来なくて、あの飛空都市の夜に置き去りにしてきた。

「スピネルの――ゼノが泣けないこと。おかしいなんて、言って……ごめん」

 また涙があふれそうで、ぎゅっと目を瞑る。カナタ、と足元から声がして、頭を下げたままおそるおそる目をあける。ゼノがしゃがんで、オレを見上げていた。
 目が合った。金色の瞳がゆるやかな弧を描いている。オレの涙がゼノの頬に降り注ぐ。流れ星が溢れていくみたいで、綺麗だった。

「そのバイクも、時計も、メンテナンスが必要なんだ。だから、時々――ううん、用があっても無くても、いつだって顔、見せに来てよ。待ってるから」

 立ちあがって、オレを抱き締める。また、喉がきゅうっと詰まったけれど、もう、痛くはなかった。

「うん。ちゃんと、会いに来る」
「約束だよ。……行ってらっしゃい」

 シャッターが開く。埃っぽい倉庫に、聖地の清々しい風が吹き込んだ。ばさばさと音をたててカバーが吹っ飛んでいく。慌ててメットを被ってゴーグルを付けて、シートに跨がる。

「行ってきます! またな!」

 返事の代わりに突き出された拳に、こつ、と自分のそれを合わせて、そのあと、パン!とハイタッチをした。
 ハンドルをぎゅっと掴んで、目の前に広がる青空に飛び込んだ。

 空は自由だ。道も、信号も、壁も、何も無い。境界線なんて、見えやしない。
 ロレンツォさんが言った意味が、なんとなくわかった。自分でハンドルを握って、自分で決めた道を往く。それが大人ってこと、かもしれない。
 もう、涙は乾いていた。だから振り返らない。一足飛びに超えられる線なんて無い。だったら足掻いて、進むしかない。弱さも、悔しさも、全部抱えたまま、オレは前に進む。そういう熱を、あの人から貰ったんだ。
 ミラーに映ったゼノがどんどん小さくなっていく。それでも、ゼノはいつまでも手を振ってくれていた。

 *

「あの二人……揃いも揃ってうちの店を物置扱いして」

 カウンターに置かれた大きな水槽を前に、ロレンツォが頭を悩ませている。やっとシュリの荷物を整理し終えたところを見計らったように、カナタが「サイラスに預けたら改造されるか解剖されるかわかんないでしょ」と持ってきたものだ。タイラーは?と聞いたら「あの人はちゃんと忙しいから悪いし」とさらりと言ってのけた。

「シュリに似て太々(ふてぶて)しくなって……いっそ、食べてしまおうか」

 憎まれ口を叩いているけれど、優雅に泳ぐ魚を覗き込む目は穏やかだ。この人、結構押しに弱いんだよね。笑いを噛み殺している私に気付いて、ロレンツォが何?と怪訝そうに目線を向けてくる。

「ロレンツォが愛されてるなぁ、と思って」
「興味や信頼と、好意は全くの別物だよ。ましてや愛、だなんて」

 縋るように伸ばされた手を握ると、そのまま体ごと引き寄せられる。

「……知れば知るほど、気安く口に出来なくなってしまった」

 抱き竦められて胸に埋まった顔を上げる。深い緑の髪が乱れて、彼の表情は窺えない。

「私は貴方を、愛していますよ」
「君の愛を疑ったことなんて無いよ。ただの一度もね」

 深いため息とともに、ロレンツォの体の緊張が解けていくのがわかった。彼は私を解放して、カウンターに腰を下ろす。机に置かれていた、読みかけの文庫本を手に取って呟いた。

「……アンジュ。カナタはシュリを見つけられると思う?」
「勿論。賭けてもいいですよ」
「即答かい? 持ち物だって、もう朽ち果てているかもしれないのに」
「大丈夫。だって、カナタは探偵だもの」

 クク、とロレンツォが小さく笑ったけれど、彼が握っている本の表紙――パイプを携えたトレンチコートの探偵の表情はアンバランスに歪んでいる。

「……寂しいですね」

 頭を優しく撫でながら、乱れた前髪をかき上げる。小さく震えた瞼にそっとキスを落とした。
 
 *
 
『皆さんこんにちは~お食事、楽しんでますか? ここからの時間は、マンスリーパーソナリティの……』

 昼のピークタイムを過ぎ、閑散とした店内。有線から流れるアイドルのトークを聞きながらテーブルを拭いていると、外を掃除している店長の元気な挨拶が聞こえた。続いて、扉が開く。

「いらっしゃいませ~」

 ヘルメットを携えた若い男。ツーリング客か。ダスターを畳んで、レジカウンターに入る。

「お決まりになりましたら、伺います」

 彼は小さく会釈をした後、レジの上のメニューを真剣な顔で睨んでいる。たっぷり三分ほど考え込んでから、意を決したようにカウンターのメニュー表を指さした。

「このセットで。ええとポテトはサイズアップで……ドリンクは、ジンジャーエールを」
「ありがとうございます。お作りしますので、少々お待ちください」

 一礼してキッチンに下がる。丁度店長が戻ってきていたので調理はお任せして、カウンターに戻ってトレイとドリンクの準備をする。

「ええと、お会計、これで合ってるかな」

 きゅっとつり上がった瞳が印象的な、溌剌とした顔立ち。自分と同じか、少し上? 大学生か社会人なりたて、くらいに見える。その割に落ち着いた雰囲気を感じさせるのは、丁寧な所作と、左腕のレトロな腕時計のせいだろうか。なのに、小銭の扱いは不慣れそうで、言葉も少したどたどしい。
 一言でいえば、ちぐはぐ。そんなことを考えているうちにフードが出揃っていた。

「はい、丁度頂きました。ごゆっくりどうぞ」  
「ども。ああ、なんかめっちゃ懐かしいな。いただきます」

 トレイを受け取った青年は爽やかに言って、カウンター席に座った。軽く手を合わせてから、ばくっとハンバーガーにかぶりついた。

「……変わらない味、サイコーすぎる。企業努力ってスゲー」

 一口、また一口と、目を閉じて噛み締めるように味わう様が可笑しくて、「そこまで?」と店長と顔を見合わせた。
 

「お兄さん、長いこと海外でも行ってたの?」

 ハンバーガーを食べ終わり、僅かに残ったポテトを齧っているお客さんに店長が話しかける。海外だとしても、ウチは全世界共通の味付けだから、そんなに変わらないはずだけど。

「そっすね、海外っていうか……別の星? 別の銀河? 昔の話だけど」
「なるほど。本場仕込みのアメリカンジョーク」
「店長、違いますって! 星外留学ですよ」
「……ああ! 今流行りの。コレね」

 店長が得心したように、店の四隅にあるスピーカーを指さした。

『以上、ここまでのパーソナリティはミラン君でした~。新曲を聴きながら、お別れです。ライブもよろしくね~ばいば~い!』

 ブフっと音がして、お客さんが苦しそうに咳き込んでいる。慌ててウェットティッシュを持ってきて渡すと丁寧に頭を下げられた。

「宇宙人アイドルなぁ。タコでも来るのかと思ったけど、ちゃんと人間でびっくりしたよ」
「あ、それ差別用語ですー。すみません、お聞き苦しいところを」

 コンプラ意識の低い店長をどついてお客さんに頭を下げる。星外留学を昔の話、などと言うのであれば結構年上の超エリートだろう。同い年くらいかな、なんて予想外れにもほどがある。
 彼はその若作りな顔の前で「全然、気にしないんで」と手を振ってから、「えーっと、今の人、何?」と歌が流れているスピーカーを凝視した。

「何って……ミラン様ですよ。太陽系一周ツアーでバースにも来てるんです。そのセットのナッツサラダもコラボメニューで」

 思わず、御存じないんですか?と詰めてしまいそうになったけど、遠い星に留学していたなら知らなくても不思議ではない。不思議ではないけれど――妙な人だ。年齢といい、立ち居振る舞いといい。異端さを感じさせる理由は、留学だけではない、気がする。
 御馳走様でした、と手を合わせた彼から、トレイを受け取る。

「お兄さんはツーリングですか? 変わったバイク……あれ、バイク、ですよね?」

 普段はどんな客だろうと気にかけることは無いが、妙な違和感がやけに引っかかって、思わず詮索してしまう。

「まぁそんな感じ。あのバイクは友達がカスタムしてくれたやつなんだ。かっこいいっしょ」
「へぇ~道理で。見慣れない形だなって思ってて。それで、どちらへ行かれるんです?」
「そうそれ。丁度聞きたかったんだよね。この座標の場所ってこの先の細い道で合ってる?」

 デバイスを出して、人差し指でくるりと円を描く。ここ一帯の地図が映し出されているが、何かフィルター処理がしてあるのか、彼が示した場所を中心にグラデーションが掛かっている。
 地図を覗きこんだ店長が「うぅん」と唸った。

「合ってるけど……何もないよ? だだっ広い草原で、海が見えるくらいで。なぁ?」
「この時期なら桜の写真撮ってる人がちらほらいますけどね。お兄さんも?」

 シャッターを押す仕草をして見せると、彼は首を振って、半開きのバックパックから覗いている酒瓶(それも結構、高そうなやつ)のキャップをするりと撫でた。表情が翳ったように見えたのは、伏せた睫毛が目元に影を落としたせいだろうか。
 そんな大人びた横顔は一瞬だけで、彼はすぐにカラっとした笑顔を見せる。

「ずっと、追いかけてる人がいて」

 人が、待ってる? ……あんなところで?

「えぇ? あんなとこにぃ? それはないんじゃないかなぁ?」

 流石に踏み込めないなと飲み込んだ疑問を、店長はあっさり口に出してしまう。ノンデリさに内心イラついたが、「この辺の人は、あまり近付かない場所なんですよ」とフォローする。

「そうなの? 桜の名所っぽいのに。あぁ、今ってお花見とかしない感じ?」
「あそこで宴会するつもりですか!? ぁ、いえ……あの場所は、うーんと」

 不思議そうに首を傾げている青年に向かって、身を乗り出す。別に他に客はいないが、なんとなく、この手の話は小声で話したい。

「幽霊が出るって、言われてて」
「ゆうれい? マジで?」
「ホントですって。火の玉を見た人もいるんですから」
「火……」

 半笑いだったお兄さんが、大きく目を見開いた。オカルトに詳しくないなら、ピンと来ない言葉だったかもしれない。

「人魂とか鬼火とか、ウィル・オ・ウィプスってやつですよ。つまり誰かが、その……えっと」

 思わず口籠もる。これからそこに行こうという人には不愉快な話だっただろう。実際、お兄さんは今にも飛び出しそうな勢いで身支度を始めている。

「てっ、天体観測には向いてるんですけどね! 街灯もなくて、真っ暗なんで……。とにかく、誰かと会うなら明るいうちじゃないと」
「そうだなぁ。行くなら今だよ。急げば、日暮れ前には着くだろうから」

 言いながら、店長が紙袋を持ってきた。大きさから推測するに、バーガーとポテトが二つずつ。一番下に土台代わりのナゲットの大箱が入っている、と思われる。いつ用意したんだ。

「え、テイクアウト頼んでない……ですけど」
「いやぁ、お兄さんの食べっぷりにおじさん感動しちゃったんだよね。作りすぎたから、オマケしちゃう。一緒に食べなよ」

 久々に会うんだろ、と店長がウィンクをする。「作りすぎ」は明らかに嘘だが、確かに旧友と桜を眺めながら食べるハンバーガーはさぞ美味いことだろう。恐縮してるお兄さんに、もらってやってください、と目で訴える。

「じゃあ、ありがたく。随分長く待たせちゃったからなぁ……これで勘弁してもらお」
「そうしなさい。飲酒運転はダメだよ」

 店長がバックパックを指差すと、お兄さんはニヤっと不敵な笑みを浮かべる。

「あぁ、あの酒? 良く見てんね」

 その悪戯っぽい表情や仕草は、放課後の教室でおしゃべりしている高校生そのものだった。やっぱり、ちょっと不思議な人だ。
 

「良い旅を!」

 一度だけ大きく手を振って、青年は地平線の向こうに姿を消していった。土の道に生い茂る雑草が、風圧で綺麗になぎ倒されている。

「……空飛ぶバイクって、実用化されてたんですね」

 流星もかくやという速度に腰を抜かした店長を引っ張って、店に戻る。土埃でいがらっぽくなった口をすすいだ。それから、二人で賄いを食べて、店内の掃除と次のピークの準備を急ぐ。
 ゴミ袋を持って外に出ると、辺りはもう暗くなり始めていた。はぁ、と吐き出した息がほんのりと白く霞む。

「あぁ、花冷えだ。……お兄さん、会えたんですかねぇ」

 雨上がりの空みたいな綺麗な目をしていた。雨が、降っていないといいけれど。

「会えただろ。ず~っと追いかけてりゃ、いつかは会えるもんだ。あの星みたいにさ」

 北斗七星と、それを追う一際明るい二つ星が見える。アークトゥルスとスピカ。春の夜空の代名詞ともいえる二連星は、数万年かけて徐々に近付き、遂には仲良く並んでしまったらしい。

「じゃあ、今度は、二人で来てくれるかも」

 言ったものの、なんとなく、その願いは叶わない気がした。
 ポケットに手を突っ込む。渡しそびれたクーポン券を、ぐしゃりと握り潰した。
青春のリミット
 静かで、長い夜だった。このまま、永久に朝が来ないのではないか――もしかすると、実はこの世界はとっくの昔に営みを終えているのかもしれない。そう錯覚しそうなほどに、永い夜だった。

 都心の大きな交差点。道行く人々は皆、ランドマークである巨大なビルのスクリーンが発する光を受けて、てらてらと脂ぎった顔を晒している。アルコールの力で気が大きくなってしまった若者の薄っぺらい会話を、信号のけたたましい警告音がかき消した。
 そんな都会の喧騒とは無縁の、閑散としたとある商店街の裏通り。二階建てのつつましい雑居ビルの地下一階に、その『探偵事務所』はあった。
 蔦で覆われたビルの地上階、通りに面した壁には無造作にハーブが生えているプランターが並んでいた。ガーデニングと呼ぶには質素な緑に混ざって立て看板が置かれている。
『OPEN』とチョークで書かれた簡素な案内の横に、ひっそりと地下に続く階段があった。階段を下りた先、歴史を感じる純喫茶の重厚な扉には『探偵事務所』と役割のみが簡潔に記載されたプレートが貼り付けられている。
 どう見ても怪しかった。あまりにも怪しすぎて、探偵を使ってみようか、などと考える物好きな依頼人候補の大部分は、その入り口の風貌に慄いて踵を返す。生き残ったうちの九割は、インターホンから聴こえる明らかにカタギではない、不機嫌そうな男の声に「間違えました」と言い残して逃げていく。
 かくして、この探偵事務所の客は少数精鋭。誰もが、種々の障壁など構っていられないくらい、絶望的で最悪で、どうしようもなく追い詰められていた。

 午前零時、八分前。前述の通り、永遠とも思える夜だった。
 四人の男女が革張りのソファに気だるげに座っていた。年季の入ったシーリングファンが淀んだ空気を一生懸命かき混ぜるが、彼らの間に流れるどんよりとした雰囲気は六時間前から変わらず、最悪なままだった。
 そう、六時間。彼らはこの六時間、テーブルの真ん中に置かれたうさぎのぬいぐるみを真顔で取り囲んでいる。『ぬいぐるみが勝手に動く』ことの証明と、そのぬいぐるみの処分――出来れば動かない状態に戻してほしい、という依頼を解決するため、事務所スタッフ総出で監視を行っている最中であった。 

 最初は他愛のない世間話などをしていたが、話題は長くは続かなかった。暇を持て余した依頼人が、手慰みにペンをくるくると回し始める。マジックのような華麗な手捌きに、スタッフ達も真似して回し始めたが、所詮は手慰みに過ぎず、しかも失敗すると無性に腹が立つ。四人はすぐにペンを放り出した。
 そんな虚無の時間を繰り返して、現在。この空間の中で、人間以外に動いているものといえば、時計とシーリングファン、そして水槽の魚達くらいだった。

(流石に、今夜はもう無理じゃないか。もう零時過ぎそうだし……)

 依頼人を含めた全員がそう考え、三つの針が重なる瞬間を捉えようと、それとなく横目で時計を見ていた。
 ゴーンという鐘の音が十二回。それに重なって、鳩がポッポ~と間抜けな鳴き声を上げた。
 じゃ、今日はもう……誰ともなく口を開こうとしたその瞬間。ぬいぐるみの首がぐるん! と廻った。
 依頼人がギャッと小さく悲鳴を上げて、隣に座る若い男のジャケットを掴む。

「ほらぁ! 先生、動きましたよ本当に動きました」
「おお、正直変なクスリやってんのかなって疑ってたんで。動いてよかった~」
「酷い!」

 依頼人の必死の訴えを無視して、先生と呼ばれた男――この探偵事務所の所長であるカナタは、向かいに座った赤い頭の男に視線を送る。

「でもなぁ。これ、サクリアの気配、全然無いんだよね。シュリさんは?」
「……無いな。レイナは」
「私も何も感じません。あぁ、中に機械が入っているのでは? 音に反応して踊るぬいぐるみとか、あったじゃないですか」
「それは知らないが」

 赤頭の男はゆらりと立ち上がる。腕を組み、テーブルの上を二足歩行で蠢いている依頼品を様々な角度から吟味する。

(うさぎが立って歩く様もなかなか味があるじゃないか。そういえば、丁度良いサイズの木材が余っていたな?)
「サクリアが無関係なら俺達の仕事ではないな。少し動くくらいなら可愛いもんだろう。これからも大切にしてやれ。以上、解散」

 かなりおおらかな判定基準を示し、シュリはサイドテーブルのシュークリームを頬張った。依頼人からの差し入れで、仕事終わりに食べようと残してあった最後の一個だ。
 予想外に時間がかかったせいで、皮がしんなりしてしまったのが残念だった。注文を受けてからクリームを詰める店で、こだわりのパリパリの皮が売りだと言うのに! 思わず依頼人を睨んでしまう。
 その眼光に慄きながらも、依頼人が反論する。

「全っ然可愛くないですぅ! もぉ~~先生、なんとかしてくださいよ!」
「ですよね~。めっちゃ黒いモヤモヤ出てるし」
「黒い、モヤ……?」

 カナタの言葉に、シュリとレイナが顔を見合わせて首を傾げる。一拍の休止符を挟んだのち、二人は「先生」に向き直った。

「見えん。わからん。頼んだぞ、センセー」
「すみません、所長。私、霊感だけはどうにも……」

 レイナから差し出された「悪霊退散」と手書きされた小さなスプレーを受け取って、カナタはため息をついた。

「ミランさんなら見えたんだろうなぁ……あ、一応息は止めといてくださいねー、えいっ」

 プシュ、と予想通りの軽い音を立てて、液体が噴射された。生花のブーケが舞いあがったような華やかで高級感のある香りと、断末魔の叫びが事務所に広がった。


「久々に長丁場でしたねぇ」
「ほんとに。二人とも、今日はお疲れ様」

 カナタが瓶入りのジンジャーエールを煽った。好きだったヤツの味に似てるんだ、と話して以来、レイナがわざわざ取り寄せてくれているものだ。

「今回もサクリアは関係無かったな」
「それはそれで良いことですが……若いお客様がほとんどなのは、立地のせいかしら」

 プランターから適当なハーブをちぎって淹れたハーブティを飲みながら、レイナは顧客リストを見直している。

「あとは……プロモーションを再考しましょうか」

 レイナは机に積まれていたチラシを一枚手に取り、先ほどのスプレーを吹きかけた。印刷されていた宣伝文句がみるみると消えていく。
 摩擦熱で消えるインクをヒントに「サクリアの歪みに反応して色が浮き出る特色インク」を使用したものだが、オカルト的な何かとも波長が合ってしまうらしい。チラシを手に訪れるのは霊障に悩む客ばかりだった。

「あ~……それは、ゴメン。オレが学校に通いやすい場所で選んでもらってるせいなんで」

 気まずそうにカナタが手を合わせた。この商店街はキャンパスのすぐそばにあって、学生が多く住むエリアだ。探偵事務所の客層もそれに倣うのは自然なことだった。


 やりたいことをやればいい。神鳥の宇宙との統合が決まったとき、そう言われたカナタが選んだのは「大学受験・大学進学」と「令梟の守護聖としての責任を果たす」ことだった。
 やりたいことをやれ、という言葉は裏を返せば「何もしなくていい」という意味で、カナタは率直に、突き放されたと感じた。それが自分に対する優しさであることが理解できないような子供ではなかったが、判りました、と切り替えられるような大人でもなかった。
 カナタのために探偵事務所の設立を決めたアンジュに、シュリは「護衛をやらせてほしい」と申し入れた。カナタが大学生兼所長で、シュリが助手。どう考えても疎かになる事務作業全般を、レイナが請け負うこととなった。

「なんで探偵?」

 カナタの問いに、アンジュは「私たち、体は子供で頭脳は大人、みたいな感じだから」と笑った。

「ふーん。聖地で年取った分って体的にはノーカンでいいわけ?」
「そうだよ。だからカナタは十八歳だし、私は二十五歳なの。実質。人生これから、だよ!」

 たしかに、カナタは境界線に立っていた。大人と子供。神様と人。守るものと守られるもの。アンジュの言葉を信じるなら自分はまだ成長期で、伸びしろがある。ということは、まだまだ未熟ということでもあって。

「これが出来たら大人、とか、こっから先は大人ってラインがあればいいのに。そしたらオレ、頑張って飛び越えるんだけど」

 思春期らしいもどかしさを吐き出せば、「貴方はまだ助走中です」などとヴァージルが窘める。どこからともなく現れたロレンツォが「流石、面倒見が良いね、お兄ちゃん」と揶揄うと、彼は苦虫を噛み潰したような、はにかんだような、とにかく形容しがたい複雑な様相で舌打ちをした。
 
「精神が未成熟な若者は、時にヒステリックな思想を共有する集団になる。サクリアの淀みはそういったところに出来やすいと、あいつが言っていた。ハズレが多いなら、それは奴の責任だ。この店もあいつが決めたんだろう」
「選んだのはロレンツォさんだけど。タイラーとサイラスが一瞬使ってたんだよね」

 おあつらえ向きに、このビルの一階は空きテナント、二階は居住エリアになっていて、カナタとシュリはルームシェアをしていた。事務所も二階も、家具家財はあの二人が住んでいた時のままになっていたので、ありがたく使わせてもらっている。

「立地が良くても肝心の依頼が来ないんじゃ、オレはともかく二人は暇で困るでしょ」

 カナタはシュリの付けている日報をパラパラと捲る。今月の稼働は僅か五日。脱走した猫の捕獲、肝試しで見事に呪われた学生の除霊、子供の喧嘩の仲裁、落とし物探し、動くぬいぐるみ。平和な文字列に、思わずため息がこぼれる。
 本当にサクリアが原因だったのは、とある調査員が連れてきた「見えない妖精」だけだ。律儀に鳥籠を持ち歩き、肩が凝ると嘆く彼の頭上で寝転ぶ妖精を、シュリもレイナも「サクリアのかたまり」として視認していた。つまり、二人が「見えない」のであれば、それは霊的ものということだ。

「にしたって、オカルト案件、多くない? サイラスとタイラー、ここでまともに探偵やってたのかな……これも使ったことないし」

 タイラーから渡された、ゼノ特製の蝶ネクタイ型変声器をポケットから取り出して「あ~」と女性の声を出してみる。大方アンジュの悪ノリだろうが、生憎、出番は一度もない。

「あの二人が何をしてたかは知らないが、俺に不満はないから問題ない。お前は遠慮せず、学校に行けばいい」

 この仕事を始めてから、シュリはことあるごとに「好きにしろ」「気にするな」と言う。カナタはそれが不満だった。過保護だと思うが、彼らの庇護無しで生きられる、と自惚れることも出来ない。
 ついでに、酒を飲んだシュリがしばしば過去の「相棒」の話をしてくるのも癪に障る。今の相棒はオレだろ、と言いたいが、どう見ても自分は「保護対象」だという自覚も、カナタにはある。
 せめて盾くらいにはなりたいと、時々顔を見せるヴァージルに訓練を頼んだが「まずは勉強。その次に走り込みと筋トレ。シュリの小脇に抱えられているようじゃ、話になりません」と言われ反論すらできなかった。
 結局、シュリに霊感が無かったおかげで、今以上にお飾りの所長にならずに済んでいるだけだ。除霊グッズを開発してくれたゼノに後でお礼のメールを送っとこ、と思いついて、カナタは気の抜けた炭酸を飲み干した。空になった瓶を軽く水洗いして、ゴミ箱に放り込む。

「遠慮してんのはっ、シュリさんの方じゃん」

 ガチャン、と思いの外大きな音がしたから、ささやかな反論が相手に聴こえたかは判らない。
 手を洗ったついでに水槽に水を補充して、ライトを消す。店じまいの掃除をしようと箒を取り出すと、シュリの声が背後から飛んでくる。

「おい、明日はイッコマメなんだろ。さっさとシャワー浴びて歯磨いて寝ろ」
「あのね、もうガキじゃないって……。まあでも、こんな時間か。もう上がるんだよね?」

 頷いた二人に、「シュリさん、レイナ送ってってね」と念を押す。

「じゃあ、お疲れさま」

 三人分の「おやすみ」がぴったり重なった。無性に嬉しくなって緩んだ顔を見られないよう、カナタは足早に階段を駆け上った。


 
 報告書の作成を終えたシュリとレイナが店の外に出ると、カナタの部屋に灯りが点いているのが見えた。レイナを送り届けて戻ってきた後もそれは変わらず、シュリはなるべく大きな足音を立てながらカナタの部屋に向かった。
 ノックを三回。返事はない。「入るからな」と宣言してドアを開くと、カナタは机に突っ伏していた。手にはペンを握ったまま、開いた本の上に顔を乗せ、気絶したように眠っている。

(そういえば課題がどうとか言っていたか。なら、律儀にぬいぐるみを見つめていなくても良かっただろうに)

 死んだ目でぬいぐるみを眺めていた姿が妙に可笑しく、思い出し笑いでシュリの鼻が鳴った。

「おい、こっちで寝ろ」

 脇の下に手を差し入れてベッドに転がして、足元で丸まっているブランケットを引き上げる。薄い体を隠すようにブランケットを掛けて、幼子にするようにトン、トン、と背中を叩く。

「懐かしい、などと感じる資格は無いんだろうが」

 思わず緩んだ口元を隠すように、照明を消した。常夜灯のオレンジの光が照らす横顔は、不思議といつもより大人びて見えた。
 怯えと怒りに全身を震わせていたあの頃から、精神的にも肉体的にも、はるかに成長しているのはわかっている。
「いつまでも子供の枠に押し込めていられるわけないでしょう」とヴァージルにも釘を刺された。寂しくて泣いている子供はもういない。抱き締めてやる必要もない。それでも、シュリにとってはカナタは守るべき相手だった。あの、ダンプの子供たちと同じように。
 沢山のものを奪った。決して返すことができない、大事なものを。代わりになれるとも、埋めてやれるとも思っていない。だからせめて、これから彼が得ようとするものは守ってやりたかった。

「お前は目いっぱい楽しめ。青春とやらを」

 左手の腕時計にそっと手を添える。傷だらけの手からふっとサクリアが立ち昇った。蝋燭の炎のように頼りなく、薄らいでいる。不意に、心臓に鈍い痛みが刺した。

「っ、ま、たか……ッ!」

 肋骨が軋む。胸の奥が燃えるように熱い。シュリの額にいくつもの汗の粒が浮かび上がった。長く息を吐いて、熱と痛みが遠のくのをじっと待った。

 ――自分が、先に逝くのだろう。

 それも、理解っていることだった。両の手を固く握りこみ、呼吸を整える。

「……おやすみ」

 んー、とくぐもった寝言に答えるように優しく頭を撫でてから、シュリは静かに部屋の扉を閉めた。

 *
 
「幻肢痛、みたいなものだと思うのですが」

 事故などで後天的に四肢を失った人が、無いはずの手足の苦痛を訴える病。欠損を認識出来ない脳のエラーだと言われているが、欠損した部位の血管や神経が圧迫された痛みだという説もある。

「守護聖の体内には、サクリアを蓄積する器官が形成されていると考えられています。サクリアの急激な減少によってその器官が退化した、もしくは消失したのかもしれません」
「それを脳が認識出来ていない、ということか」

 レイナが提示した資料を一瞥して、シュリが納得したように頷いた。

「腕や足を失くした奴らが苦しんでいたな。あそこでは医者にも掛かれなかったから、安酒で痛みを誤魔化すくらいしかしてやれなかった」

 シュリが「あそこ」のことを口にするとき、決まって郷愁と歯痒さが入り混じったような表情をする。彼の人生の根幹を成すもの。未だにその領域に入りこめる人間はいない。

(随分、心を開いてくれたと思っていたけど……それでも、貴方の居場所は「あそこ」のまま。過ごした時間の長さなんて、関係ないのね)

 ふぅ、と小さな吐息を漏らしてから、レイナはかぶりを振った。全力で、死に物狂いで駆け抜けた短い青春。だからこそ、鮮烈に刻まれているのだろう。唇をきゅっと結んで、端末のスケジューラーを起動する。

「とにかく一度、聖地に行きましょう。アンジュから先方に連絡を取ってくれたので」

 赤い瞳がそっけなく逸らされる。

「勝手なことを……。必要ない。別に、我慢出来ないほどじゃないしな。カナタには筋肉痛とでも言っておいてくれ」

 シュリが紙の束を顔の前で振った。この話は終いだ、という合図だが、レイナは食い下がる。「食って寝れば直るって言い張るんだけど、絶対おかしいって!」と懇願されているのに、筋肉痛で誤魔化せるわけがない。

「では、言い方を変えましょうか」

 レイナの声が一段、低くなる。

「これは、他の守護聖にも――カナタにも起こりうる症状です。そうなった時、適切に対処できるよう、前例があった方がいいでしょう?」

 フェリクスの死とその顛末は、星間ネットワークを通じて即時共有された。カナタの落ち込みは目も当てられないほどで、その時はアンジュとヴァージルだけでなく、普段忙しくしているゼノとタイラー、サイラス、それにロレンツォまでもが探偵事務所に集まった。遠方過ぎて連絡が届かなかったユエとノア、出歩ける状態ではないというミラン以外の、懐かしい面々が勢揃いしたあの日から、そう長くは経っていない。

「お前……言うようになったじゃないか」
「おかげさまで」

 チ、と小さい舌打ちと、大仰なため息。面倒そうに頭を掻いた後、ようやく「頼む」とシュリは頭を下げた。

 カナタがゼノと共に辺境の惑星に向かった日、シュリとレイナは極秘裏に聖地を訪れた。二人を迎えたのはアンジュとサイラスで、生体データの解析から「神鳥のサクリアを補充することが手っ取り早い対処法では」と女王陛下と炎の守護聖オスカーに話を付けたと言う。
 神鳥の宮殿は、あの飛空都市を思い出させる。一同が少しばかりの懐かしさを感じながら向かった先には、既にオスカーが待ち構えていた。

「お嬢ちゃん方の頼みとあれば、男にサクリアを注ぐ苦行にも耐えてみせるさ」

 アンジュとレイナにウィンクを飛ばしてから、オスカーは目の前の男に目線を移す。意識を切り替えて、視界に一つ、フィルターを被せた。人から放たれるサクリアにピントを当てる。シュリの頭の先からつま先まで検分するように眺める。特に頭と、胸。本来サクリアが湧き出るように見えるはずの部位に、それが見えない。欠落している。
 試しに、アンジュを見つめてみる。濃くは無いものの、全身からふわふわとサクリアが立ち昇っているが、シュリからはそれが感じられない。

「しばらく会わない内に、随分と枯れちまったな」

 オスカーがシュリの肩に手を置いた。そのまま、シュリが跪いて頭を垂れる。

「これで、どこまでマシになるか判らないが……耐えろよ」

 炎のように激しく噴き上がったサクリアが、オスカーの手のひらからシュリへと、燃え広がるように伝播した。サクリアの奔流はシュリの全身を包んだ後、その中心、心臓に向かってじりじりと収束していく。さりげなくサイラスが前に出て、レイナとアンジュを庇うように立った。サイラスが翳した検出器からピーッとけたたましい警告音が鳴って、光のヴェールが花弁のように広がった。

(シュリの色とは全然違う。なんて、激しくて力強い。これが、神鳥の……)

 防護幕越しにも伝わる熱に、レイナは息を飲んだ。

「心配はいらない。元は同じサクリアだ。じきに馴染む」

 後ろに控える三人に言い聞かせるような口調だった。苦痛に喘ぐシュリを見守ることしか出来ないもどかしさに、レイナとアンジュはどちらともなく、震える手を取り合った。

「シュリ、聖地に居を移せ。ここの時の流れは体への負荷も少ないだろうし、サクリアもすぐに補ってやれる。男を飼う趣味はないが……まぁ、事情が事情だしな」

 オスカーは、わざとらしく手を広げて肩をすくめてみせてから、右手を差し出す。シュリはその手を取らずに、立ちあがった。痛みを堪えるように鳩尾を押さえて、片足に重心を掛けているが、その目は生命力に溢れている。

「此度の対応には感謝する。が、これ以上の温情は不要だ」

 どうして、とアンジュが食い下がるが、オスカーは右手を挙げてそれを制した。

「……心残りは」
「無い。俺は十分に生きた。それに、首輪を付けられるのは性に合わないからな」

 そう言い残して、シュリは足早に聖地を去って行った。


「ご苦労だった。本人が決めたのならば、何も言うまい。だが……残念だったな、オスカー」

 サイラスの報告を聞いたジュリアスは、窓の外を見遣り、深く息を吐いた。

「ええ。久々に、振られてしまいました。……懐きませんね、手負いの狼というやつは」

 軽口とは裏腹に、アイスブルーの瞳は憂愁を湛えて揺れていた。
 
 *
 
 もう聖地に来ることはない――シュリの決意は、ノアの訃報によってすぐに覆された。『スオウ』で療養しているというミラン以外の関係者が集まり、その死を悼んだ。
 ノアの死は、彼らにとって衝撃だった。元々サクリアが減っていたフェリクスは、多少納得ができる。しかし、無尽蔵のサクリアを宿したままのノアが「次」だとは、誰も予想をしていなかった。――ユエ以外は。

「おかしいと思ったんだよ。あの引きこもりが、ばんばん仕事をしたい、だなんて」

 遺体は、煙のように消えてしまったという。身に着けていた衣類をユエが持ち帰ったものが唯一の遺品だった。

「あいつ、さっさとサクリアを使い切ろうとして……死ぬために旅してたんだよ」
「ユエ……それを知っていて、何故止めなかった」
「っ、……本望だ、って」

 シュリに肩を掴まれたユエは、苦虫を噛み潰したような表情で呻いた。

「本望だって言ったんだよ! 自分の力を誰かのために、目一杯使う。それが願いだって。そうしたらようやく終われるんだって、笑いやがった」

 硬く握りこんだ拳に血が滲む。

「死ぬために、精一杯生きるなんて……意味わかんねぇし、バカみてぇだよな? でも、あいつが望んで決めたんだ。あの、全部を諦めていたノアが、だぜ?」

 ユエが顔を上げた。真っ直ぐにシュリを射貫いた碧い瞳は、涙を湛えていた。

「じゃあ、俺は……見届けるしか、ないだろ? あいつの対として、最期まで」

 シュリの拳に、ぼたぼたと熱い水滴が落ちる。長い付き合いだが、ユエの泣く姿を見たのは初めてだった。悪かった、と小さく謝って、シュリはだらりと腕を降ろした。

「ノア様の遺品は、高強度のサクリアを帯びています。クラヴィス様のお力添えを頂きながら闇の力の半減期を待つことになったので、その、お墓には何も入れられなくて……。こんな形で、ノア様にも、皆様にも申し訳ないのですが」

 タイラーが一同を案内したのは、聖地を一望できる丘の片隅だった。せめてもの手向けにと、墓の周りを囲むように花を植えたという。

「何も残らないんて……オレ、そんなの嫌だよ。ノアさん……寂しいよ」
「カナタ。不意の落命も、亡骸が棄て置かれることも、珍しいことじゃない。空の墓だとしても、こうして弔われるだけ幸せだろう」
「言葉が足りませんよ、シュリ」

 ヴァージルがシュリを短く諫める。首の後ろを右手でさすりながら「柄じゃない事を言いますけど」と予防線を張って、また口を開く。

「弔いは遺された者のためのもの。だから、いいじゃないですか。明るいけど適度に木陰で、静かで。英雄のように仰々しく銅像にされたり、厳かな神殿に祀られるよりも、ずっとノアらしい」
「俺は銅像になってもいいぜ?」

 ユエの合いの手を無視して、ヴァージルが祈るように目を閉じた。緩く留められた上着が涼し気に風にはためいている。

「風がよく通る、気持ちがいい場所だ。……俺も、こんなところで眠りたいものです」

 爽やかな笑みを向けられたタイラーが「そういうの、今は無理ですマジで」と頬を引き攣らせた。

「しかし……前の水も、よく泣く男だったが」

 シュリの目線の先には、墓標に縋りつくようにしているカナタがいた。フェリクスの時は実感が湧かなかったのか、呆然としていたが、今は張り詰めた糸が切れたかのように、ゼノに肩を抱かれながら声を上げて泣いている。隣に座るレイナとアンジュもさめざめとしているものだから、「耳がいたい」とノアも嘆いていることだろう。

「水の習性なのか? あんなに泣いて、目が溶け落ちそうだ」

 神鳥(こちら)の水の守護聖も、慈悲の塊のような優男だ。きっとたおやかに頬を濡らすのだろう。

「素直にカナタが心配だと言えばいいでしょう? しかし、あれを見てしまうと……そうそう死ねないぞ、という気分になるな」

 噛み締めるような口調だった。心配そうにこちらを伺うタイラーの肩を、シュリが雑に小突く。「カナタは大丈夫だ」とだけ言って、背を向けた。

「あぁ……重たいな」

 ヴァージルが独り言のように零した。風に煽られた上着の裾を固く握りしめて、シュリの背中に呼びかける。

「もう、降ろしても良いんじゃないですか」

 ――心残りは。
 要領を得ないヴァージルの提案が、いつかのオスカーの言葉に重なる。その問いかけがシュリの脳裏に浮かぶたび、鈍い痛みが鳩尾からじわりと広がる。
 悔いはない。オウルは無事に神鳥に転移した。それを機に、忌ま忌ましい鉄条網に囲まれた小汚いバラックや半地下の街は「浄化」され、ダンプをはじめとするスラム街は姿を消した。住民たちは戸籍と支援を得て、徐々に社会に溶け込んでいったとされている。当時を知る人間などもはや存在していなかったが、歴史書がそれを証明していた。
 つまり、シュリとコーディの約束は既に果たされている。シュリが守ると誓ったのはダンプという箱ではなく、そこに暮らす人々の生命だったのだから、ダンプという概念が失われたのはこの上ない成果とも言える。
 戯れに始めた探偵稼業も悪くはなかった。依頼の多くはペットや人、失せ物探し、子守り、除霊などで、ほとんどが児戯に等しい。それをカナタは嘆いているが、失われた青春の埋め合わせとして申し分ないとシュリは感じていた。
 ばたばたと羽音が頭上を横切った。鳥が群れを成して空を渡っていく。大きく旋回するたびに、一、二羽の鳥が遅れ、そのうちにまた合流して、を繰り返しながら。
 あとは――。

「待って、よ、シュリさん! 置いてかないで」

 思索にふけっていたシュリの腕を、カナタがひったくるように掴んだ。慌てて走ってきたのだろう。涙で濡れたままの頬が、雨上がりの草原のように光っている。

「別に、どこにも行かない。少し歩きたくなっただけだ」
「行かないでよ……シュリさん」
「だから」
「オレより先に、死なないでよ」

 唯一つの心残り。そして、願いがあるとすれば。
(俺が死んでも、泣いてくれるな、と言いたいが)

「……それは、無理な注文だな」

 苦笑まじりの返事に、カナタの瞳からまた涙がぼろぼろと零れた。
 掴まれた手を一度解いて、しっかりと握り直した。ガキじゃない、という抗議の声を無視して、シュリはもう一度ノアの墓前へと歩き出す。追いかけるような足音が続いて、遠慮がちに指が握り返される。草を踏む音が同じリズムになった。

 *
 
「身辺整理は結構だけどね。君、ここを物置だと思ってない?」

 ラボに持ち込まれた箱には、本や衣類、ナイフ、木彫りの小物が満載されている。荷物に埋もれたロレンツォがうんざりとした声を上げた。

「守護聖が死んだ後も、所持品にはサクリアが残るんだろう?」

 ならここに持ってくるしかないだろうが、とシュリは開き直ってみせた。バン、と荷物を叩く。大量に舞い上がった埃が、ロレンツォの口を塞いだ。そもそも、フェリクスの荷物も保管している手前、ロレンツォは強く言えない。

「まあ、それはそうだけど……それにしても、紙の本が多いな。この分厚い本とか、腕が千切れそうだよ。しかも全百三十一巻だって??」

 地層のように積まれた本の背表紙を検分して、ロレンツォが顔を顰める。

「電子データで読めば良いのに。ある意味贅沢な趣味だが……へぇ、最近は歴史書と……相変わらず推理小説がお好み? なるほど、探偵だから」

 半分独り言のような会話を荷ほどき中のシュリに投げかけるが、返ってくるのは沈黙だけだ。

「……カナタには、何か遺してやらないのかい」

 ロレンツォはカウンターに座って適当な小説を読みながら、さも世間話のようなふりをして本題を切り出した。舌打ちや悪態の代わりに、シュリは酒瓶を差し出した。

「おっと。昼間から? いいけど」
「馬鹿を言え。カナタに、だ。この酒と……これを。オウルから持ち込んだものだが、動作は問題ない。ゼノが部品を揃えてくれている」
「あぁ、……この前も、オーバーホールを頼んでいたね」

 ロレンツォの眼前に腕時計が差し出された。手に取ってみると、金属の硬質な冷たさの奥に、沸き上がるような熱が――炎のサクリアが感じられた。

「いいよ。時々、ゼンマイを巻いておこう。しかし、君が着けていたなら、カナタにはかなり大きいはずだけど」
「む……工具を貸せ。調整する」
「それこそ、ゼノに頼めばいいじゃないか」
「情緒の無い奴。自分でやるから意味があるんだろうが」

 シュリがアジャスターパーツに工具を差し込んだ。カチリと小さな音がして、金具が外れた。

「カナタの手首のサイズなんて、判るのかい」
「大体な」

 ――掴んだ腕の頼りなさは、今でも覚えている。忘れられるわけがない。
 作業に集中し始めたシュリにちょっかいを掛けるのを諦めて、ロレンツォはコーヒーの準備を始めた。ゴリゴリと豆を挽く音と、腕時計の金具が擦れる音が交互に響く。

「こんなものだろう。じゃあ、預けたからな」
「……確かに。ついでに手紙でも書く?」

 ほら、と淹れたてのコーヒーカップと共に差し出されたレターセットをしばらく睨み付けた後、シュリは一行だけの手紙を書いた。

「それだけ?」

 シュリは無言で頷く。封蝋を垂らして手紙を封印し、ロレンツォに押し付ける。 

「手紙は、渡しても渡さなくてもいい。見ての通り、大したことは書いてないからな」
「私の判断に任せる、ということ? いつ渡すかも含めて?」
「ああ」
「そう。まあ、いいけどね。気が向いたら、アンジュにも手紙を書いてやってほしい。随分気にしていたから」

 ロレンツォは預かった品を後ろに下げて、コーヒーに口を付けた。シュリもそれに倣う。冷めかけたコーヒーはどこか味気なく、すぐに飲み終わってしまった。

「最後に一つ聞かせてくれないか。君にとってカナタは、何だったんだ? 君が彼に罪悪感を抱く必要は」

 カタン、といささか荒くカップを置く音が、ロレンツォの言葉を遮った。

「俺がミステリを好む理由はいくつかあるが――一番は、スカっとするからだ。お前みたいな人の機微に首を突っ込む悪趣味な奴は……最初の被害者か、真犯人と相場が決まっているからな」
「悪党や極悪人じゃなく? それは光栄だ」

 特大の舌打ちと共に、シュリが席を立った。店のドアが不機嫌そうに鳴って、薄暗い店内に光の帯が伸びていく。

「シュリ。私は結構、君のことが好きだったよ。じゃあね。次があれば、また」

 見送りの言葉とは裏腹に、ロレンツォは逆光に顔をしかめる。底抜けに明るい陽射しが大きな背中を飲み込んだ。

「……また、だなんて」

 ぎぃい、と重くるしい音が途切れる。暗闇と静寂が店に満ちて、ロレンツォはひとつ、ため息を落とした。
 ――むず痒いな。
 乾いていないはずの喉が、干上がったように張り付いている。逆光に灼かれた目がちかちかして、きつく瞼を閉じた。
 網膜に焼き付いたシュリのぎょっとした顔はここ百年で一番の傑作だった。「何て顔だ、今生の別れだっていうのに」と大笑いしてやりたかったが、不思議と頬が強張って上手く笑えなかった。

「あぁ……この感覚も、未知(はじめて)か」

 掠れ声の独白は、静謐の空間にいつまでも異質に響いていた。

 *
 
 特に行く当てはなかったから、どうせなら、と知っている星を終着地点に選んだ。一度だけ訪れたことはあるが、シュリにとってそれはろくな記憶では無い。
 どんな場所かと訊ねられたレイナは「水の星です」とやわらかく笑った。
 レイナの言葉通り、コバルトに輝く、美しい惑星だった。一億年の歴史を誇るという大国や、この星で一番高いという霊峰、果てしない砂漠、深い密林、氷河の国。適当な仕事で路銀を稼ぎながら、様々な場所を気ままに走り回った。
 そして最後に、アンジュが「ここが、私たちの故郷」と示した小さな島国を訪れた。

 海が良く見える丘にバイクを止めた。シュリはヘルメットとサングラスをハンドルに引っ掛けて、適当な木に寄りかかるように座った。
 随分と伸び始めた前髪をかき上げると、遠くに獣たちが走っているのが見えた。二匹。大きいのと、小さいの。親子か、兄弟だろうか。
 責任や、誰かの命を背負わずに過ごすのはいつぶりだろう。この上なく身軽で楽だが、少しだけ背中が冷える気がした。
 身を起こして、ジャケットの懐から小さな手帳とペンを取り出す。フェリクスの真似というわけではないが、見た風景や起きた出来事を書き付けていく気まぐれな随筆は、一人旅の慰みのようなものだ。
 初めはひたすら独り言を書いていたが、段々と、日記から手紙の様な文章に変わっていった。取り留めのない事こそ、誰かに伝え共有したくなるのだろうか。見返すとそれなりに面白い。

「この花はたしか、サクラ……だったな」

 頭上で咲き誇る花には見覚えがあった。女王試験前にバースの様子だとサイラスに見せられたものだ。それに、淡いピンクと、その先に広がる空色のコントラストは馴染み深い。
 そういえば彼女に手紙を書けと、ご丁寧に封筒を渡されていたことを思い出す。手帳のページを破って短いメッセージを書き、地面に散らばる花と一緒に封筒に入れた。どうやって届けるか、は後で考えればいいだろう。届く前に花弁が朽ちるかもしれないが、それを迷惑がるような女でもない。
 一仕事を終えて、煙草を咥える。火をつけようとしたその時、シュリの視界に人影が映り込んだ。

「調子はいかがです」

 久々に耳にした、だがとうに聞き飽きている甘ったるい猫撫で声に、シュリは顔を顰める。

「……お前。なんだ、その生ぬるい腑抜けた気配は」

 ヴァージルは答えず、差し出された煙草を片手で断ってから風上に腰を下ろした。

「本当に、貴方は言葉が足りない。何も言わずに出て行かなくてもいいでしょう」
「説教するためにわざわざ来たのか? こんなところまで?」

 この星に来るために次元回廊を使ったが、発信機の類などは全て捨てた。どうやってこの男がここを嗅ぎつけたのかシュリには想像もつかないが、とにかく、何の感慨もなしに始まった小言は気に食わない。
 せっかくの一服が台無しだ。ふぅ、と相変わらずお綺麗な顔に吹きかけた煙は、鼻を摘まんでやり過ごされた。

「あのな。俺はそろそろ死にますので、さようなら――なんて、お前なら言うのか?」
「それは……」

 過去の自らの行いがヴァージルの口を噤ませた。シュリはそれに気付かないふりをして、紫煙をくゆらせる。

「湿っぽいのは苦手だ。昔、正直に別れを伝えたら子供達に大泣きされてな。あれは、なんというか……ひどく、骨にこたえる」

 沢山の泣き声と悲鳴が、耳の奥にこびり付いて離れない。一際大きい叫び声がフラッシュバックして、シュリは思わず目を閉じた。眉間の皺がさらに深くなる。

「気持ちはわかりますが、爆散とか失踪とか、物騒な手段を取りすぎなんですよ。同僚です、と傷だらけの火だるま男を紹介されたこちらの身にもなってください」

 呆れたように言って、ヴァージルは姿勢を崩した。

「そんなこともあったか。まぁ、大目に見ろ」

 次はないから。シュリの軽口に、ヴァージルは返事をしなかった。

 それから、二人は無言で海を眺めていた。遥か昔にも、こうして肩を並べて景色を見たことがあったような気がしたが、それを確認したところで今更何が変わるでもない。
 海風が草原を撫でる。ヴァージルが鼻をひくつかせて、僅かに眉を顰めた。

「アンジュ達の故郷は、良いところですね。豊かで、穏やかで……でも、暖かいせいか、この星の海はなんだかむせかえるような……」
「色々な生き物の匂い、だそうだ。バースの生き物は海から生まれて海に還るらしい。母なる海、と言っていたか」
「ああ、それで……水の星、と。なるほど」

 シュリの視線を感じとり、ヴァージルは勝ち誇ったように笑う。

「俺は、独自の情報網で貴方を見つけましたが――カナタに教えるつもりはありません。でも、彼はきっと辿り着きますよ。追っかけっこは俺仕込みですから」
「偉そうに。じゃあ、のんびりと待つとするか」

 シュリは大きく伸びをして、草の上に横たわる。それを横目で見下ろしたヴァージルが、納得したように呟いた。

「終わったんですね、ようやく」
「終わった? 何がだ」
「貴方の戦いが、ですよ」

 青い海が太陽を飲み込んで、空と海面が黄昏に染まり始めていた。
 ヴァージルは言いたいことを言ってすっきりしたらしい。やはり、何の感慨もなく「よかったですね、では」の一言で去って行った。遠くなる背中を見送りながら、一体どこから走ってきたんだ、とシュリは呆れていた。
 
 もうすぐ日が暮れる。シュリは慣れた手つきで野営の支度を始めた。テントを張って、寝床を作る。雨は降りそうになかった。この気温なら、外で寝ても良いかもしれない。
 薪を組んで火を付け、湯を沸かす。シートの上に置かれていた見覚えのないコーヒー粉と携帯食はありがたく頂いた。
 そのまま、しばらく炎を眺めていた。揺らめく炎は心臓の鼓動や脈拍に似ていて、どこか心を落ち着かせる。遠くに見える山の端が、ぼんやりと明るみを帯びている。街灯りだろうか。夜に火を焚けるのは、ここが安全で、平和な証拠だ。バース出身者達に共通する優しく善良な気質は、この穏やかな土地で養われたのだろう。
 強さを司るサクリアが、何故自分に宿ったのか。深く考えたことはなかったが、今は分かる気がする。
 人と獣の進化を別ったのは、火だ。
 夜に沈み、獣の様に生きていた自分に、人としての輪郭を与えたのは炎の灯りだ。その灯りの下で、文字を読み、知識を養い、苛烈な環境で生き延びるための知恵を付けた。星灯りから身を隠し、息をひそめて暗闇にまぎれている時でも、瞼の裏に焼き付いた炎は消えない。
 ――炎が、俺に力を与えた。俺は、炎を得て人に成った。

 小さな枝を折って、ナイフで手早くささくれを作る。いくつかまとめて焚き火に放り込むと、生木の水蒸気がバチ、と音を立てて爆ぜて、火の粉が頬を焼いた。立ち昇った煙が淡い暗闇に溶けていく。

「この宇宙が棺桶……だったか?」

 胸元から手帳を取り出す。旅先で助けた老人の『ソーシ曰く』の御高説が見開きいっぱいに書かれたページを開いた。勿論、その文字はシュリには解読できないが、その迫力ある筆跡は達筆と呼ばれるものなのだろう。
 老人によると、自然のもの全てが弔いになるから、特別なものは何もいらない、という内容らしい。ほぼ全てを聞き流していたので、覚えているのはこれだけだ。太陽と月――朝と夜を司る星を双璧と例えることが気に入っている。

 厳しい冬を越えたとはいえ、まだ夜は少し冷える。シュリは手帳を懐にしまい、本革のジャケットの前を閉めて、草むらに寝っ転がった。
 沈みゆく太陽を惜しむように、月が現れ、軌跡を追っていく。月は半分近くが欠けていて、丁度、今の自分のようだった。また心臓のあたりが鈍く疼いたが体は痛みに慣れてしまった。
 息を大きく吸い込む。桜の花の香りに交じって、湿った土の匂いがする。小さな虫が指を這い上がって、こそばゆい。波音に獣の遠吠えと虫の声が混ざって賑やかだ。
 そうやって自分を取り巻く小さな自然に意識を向けているうちに、夜空にぽつぽつと星が輝き出した。見える星の数も、輝きも、聖地に比べて遥かに少ない。それでもシュリは、美しい、と思った。

 ――棺桶にしては、上等だ。そうだろう?

 空っぽの墓にちょこんと座ったノアが、満足げに微笑む。「悪くないよ」雨の降り始めみたいな、静かな声でそう言った。

「それでも、あいつらは泣くんだろうな」

 だが、耳を澄ましても、声は聞こえなかった。
 そうか。終わったのか。シュリは独り言ちた。
 同意するように、柔らかな風が草を揺らす。水分を含んだ空気が火照った頬を冷やして、心地よかった。全身の体の力を抜いて、絶え間ない波の音に身を委ねる。
 海に――知りもしない、母の腕に抱かれて眠る赤子の気持ちを想像しながら、シュリはゆっくりと瞳を閉じた。
そして幕が上がる
 はいコレ、とミランが言って小瓶をカウンターに置いた。なんでもないようなその仕草とは裏腹に、コトリ、という音は店内に意味ありげに響いた。

「なにかな?」

 モノクルを外して、ロレンツォは興味深げに小瓶を眺める。

「フェリクスだよ」

 一瞬、間があった。ロレンツォはその一瞬で、ミランの言った意味を理解したらしい。あえて削ぎ落とした回答をしたミランに対して、聞き返すこともなく意図を汲んでくるのは、クサッテモ地ノ守護聖ッテコトカ、とミランは妙に納得した。
(腐ってるのは守護聖たち(ぼくら)? それとも僕だけ?)

「これは、君が持っていなくていいのかな?」

 わざと、視線を合わせずにミランは答える。

「それってさぁ、結構人間っぽくない?」

 ソンナコト聞クヨウニナルナンテ、ロレンツォモ人間ミタイ、アンジュト恋人ニナッタカラカナ?
 言わなくていい言葉を内側に押し留めると、妙な沈黙が生まれてしまう。

「では、預かっておこう。早急にフェリクスの家には王立研究院から人員が派遣されるだろうけど、問題は?」
「ないよ」

 ロレンツォの語尾に被せるように、ミランが答える。相変わらずミランは視線を合わせようとしない。それでもすぐに出て行く気はなさそうだとみて、ロレンツォは静かにコーヒーを淹れはじめる。やがて、コトリ、と置かれたカップとソーサー、そこから立ちのぼる香ばしさの中に嗅ぎ慣れない香りを感じとってミランは言った。

「これお酒入ってない?」

 ロレンツォはやっと視線の合ったミランにうっすらと微笑みかける。

「眠れてないようだったからね」
「そう思ったんなら、ミルクとかにするんじゃないの? コーヒーにお酒って、寝かしたいのか起こしたいのか」
「君が、好きな方を選べばいい」

 さっきよりも少し、苦く微笑みかけてくるロレンツォにミランはフードを深く被り直してカップを差し出した。

「思いっきり甘くして、ふわふわにしたミルクも入れてよ」

 仰せのままに、と言ってロレンツォは泡立てたミルクをカップに注いだ。

「ミルク自体を甘くしておいたよ」

 ロレンツォは何気なく、カチリ、と度数の高そうなお酒が少しだけ入ったグラスをミランのカップに接触させる。燻されたような香りがミランのところまで漂ってきた。そのグラスをひと息に呷ったロレンツォを見てミランは、あの日初めて知った「献杯」という言葉を思い浮かべた。


***

「けんぱい? 乾杯じゃなくて?」

 オルゴールの工房にはもう聴き慣れたメロディーが流れている。そのオルゴールの音色に合わせてゆっくりと、陶器で作られた小さなミランが回っている。

「はい。この曲を作った友達はもう死んじゃってますけど、こんな風にミラン様に踊ってもらえたらきっと嬉しかったと思うから。それで……よければ、このオルゴールの完成記念に、ミラン様と献杯できたらな、と思ったんですけど、もしかしてお酒とかって」
「少しなら、だいじょうぶ」

 そう言ってミランがにっこりと微笑むと、ハンスは「良かったぁ〜」という台詞とともに息をたっぷり吐いた。薄張りのグラスにおそらく醸造酒だろうと思われる薄い紫色の液体がそれぞれ少しずつ注がれていく。

「実は、俺もあんまり飲めないんです。だけどこのお酒だけはなんだか、飲んでも悪酔いしなくて、スルスル飲めちゃうっていうか、ミラン様のお口に合えばいいんですけど」
 最初は無口だったハンスがここまで饒舌になるのはオルゴールの完成に興奮しているのかもしれない、そんなことを思いながら、ミランは注がれた酒を掲げて、グラスの中に揺れる薄紫色を窓から入ってくる柔らかな夕方に透かしてみる。
「知り合いの、髪の色に似てる」

 へぇー!と言いながら、ハンスは自分のグラスに酒を注いでいる。

「こんな綺麗な髪のお知り合いがいるなんて、さすがミラン様ですね」
「知り合いっていうか、なんだろ……幼なじみ? 同僚? 腐れ縁?」

 あはは、とハンスは笑う。

「きっと、お友達ってことですね」

 その言葉に虚を突かれたミランに気づかないまま、ハンスは軽い祈りの言葉を唱えて、キン、とグラスを触れさせた。

「こういうとき、この星では――って言うんです。偶然なんですけど、この酒の名前はその言葉をもじって作られてて、ホラ」

 ミランは、そっとその言葉を繰り返す。薄紫色の液体をハンスに見せるように掲げてからグラスを空けた。アルコールというより、花のような香りのするお酒だった。

「美味しい。味もいいけど、香りがいいね」
「この酒の香りが分かるようになったのも、ミラン様のおかげです」

 ロレンツォから指令を受けて、この星に来たときのことを思い出す。

「ハンスがあの日、あそこにいてくれて良かった。こんなに早く仕事を終えられたのは、この曲があったおかげ」
「何度でも言わせてもらいますけど、あの日俺は、天使が来たんだって思ったんです。ミラン様が踊ってるのを見たら、なんでか分かんないけど涙が出て、そのうち、春の匂いもしはじめて」
「わーかったってば、ねぇ、もう一杯もらっちゃおうかな」

 工房の中には、夜が滲みはじめていた。


***

 その星に降り立って、ミランは事の重大さを肌で理解した。香りがないことが、景色の奥行きにここまで影響を及ぼすのだと実感する。宙港で行き交う人々の表情もどことなく所在なげだった。
 ロレンツォからもらったサングラスをかけて辺りを見回してみる。サクリアの澱みを可視化できる代物だというのは本当で、煙のようにサクリアが漂っていることがよく分かった。
 宙港から地上に降りる際、窓から地表をサングラス越しに観察してみると、澱みの中心と思われるエリアが見えた。窓のそばに備え付けてあるボタンを押すと、透明窓に見ているエリアの地名が浮かび上がる。澱みの中心があるのは首都らしかった。透明窓上に表示された街の名前をタップするとそこへの行き方と所要時間が表示される。見ていると、不意にフードを引っ張られた。振り向くと、赤ん坊が満面の笑みでこちらをみている。

「やだこの子ったら、すみません」

 赤ん坊を抱えた母親が恐縮して頭を下げてくる。

「気にしないで。フードが気になるのかな、元気な証拠だね」

 サングラスを外してそう声をかけても、母親はすみません、と謝るばかりだ。よく見ると、疲れた顔をしている。

「……コンポンテキカイケツにならないから、本当はダメなんだけど」

 ミランはそう小さく呟いて、手を赤子の頭上で一閃させる。すると、あたりに香りが立ちこめた。

「あれ〜? この匂い……おむつ替えたほうがいいかもね」

 母親はハッと我に返ったように我が子のお尻を匂う。

「やだ! 本当ですね」

 すみません、ありがとうございました、と言って母親は走り出す。去っていく母親の後ろ姿に、ミランはしばらく目を眇め、そしてまた、サングラスをかけた。



 澱みの中心に向かって歩いていくミランの足取りはステップでも踏むように軽い。それは大きな公園の中にあるらしかった。しばらく歩いていると、どこからかオルゴールのような音が聞こえる。サクリアの澱みが濃い方へと足を進めるごとに音も大きくなっていく。オルゴールの音が大きくなるにつれ、ミランは自分の体の中にうねりが生まれてくるのを感じた。
 こういう曲は良い曲だとミランは知っている。

「ねぇ、そのオルゴールの曲、なんていう曲?」

 サングラスを少しずらして、問いかける。
 オルゴールを鳴らしていたのは青年だった。突然ミランに話しかけられてどぎまぎしている。

「これは、友達の作った曲で……」
「そっか。僕これからその曲に合わせて踊るから、君の時間が許すまでそれ、鳴らしといて」

 パサリ、と着ていたパーカーを脱いで、ミランは少しストレッチをした後、曲に合わせて踊りはじめた。
 その踊りを、ハンスはなんと形容すればいいのか分からなかった。メディアで観たことのある、どんな踊りとも違う。けれど、彼の手足が空間を撫でて、時に切り裂いて、時に睦むように絡み合う度、なぜだか懐かしくなって涙がこぼれる。
 何がこんなにも懐かしいのだろう。そう思いながらハンスが何度目かの涙を拭ったとき、公園に、春の匂いが満ちていたことに気づいた。

 公園の中で香りが感じられることに気づいた人々が騒ぎはじめたころ、オルゴールの音がやむとともに、ミランの踊りも終わりを迎えた。
 あらゆるものの輪郭が夜に溶けつつあったが、ハンスにはミランが天使のように輝いて見えた。

「ふぅ〜……とりあえず、今日はこんなところかな。あっ、ねぇ君、そのオルゴールの原曲ってどこで聴ける? それから今日泊まれそうな宿と、ここらへんで一番大きな芸能事務所を教えてもらえると助かるんだけど」

 天使が、話しかけてきている。

「ん? おーーい、きみきみ、君だよ〜!」

 そこから、ハンスが最初の返事をするのに十分、今日泊まれそうな宿として近隣のホテルを紹介するのに二十分、一番大きな芸能事務所については調べてくるから、明日ここでまた待ち合わせるという約束を取りつける頃にはすっかり日が暮れていた。

「なんだかお腹空いちゃった。ねぇ、君がよく行く店まで連れて行ってよ」

 こう頼まれるころには、ハンスもこの気ままな天使からものを頼まれることに慣れてきつつあったが、なめらかな受け答えは到底できなかったため、黙って近くの小さなバーレストランまで案内をした。

「天使様が何を召し上がるのか分かりませんが、俺の知っている中でここが一番美味い店です」

 そう言って帰ろうとするハンスの袖を、ミランが引いて、「僕が奢るからさ、一緒に食べようよ。この店で何が美味しいか教えて」と言った。
 天使と同席するなんて畏れ多い――ハンスはそう直感したが、なぜだか断れなかった。



「――だからね、俺はアイツに言ったんですよ。お前の曲はすごいから、もっと多くの人に聴かれるべきだって。そしたらアイツ、何て言ったと思います? お前が聴いてくれたらそれでいい、ですよ。ホントにふざけんじゃないよって話なんです」

 ハンスは酔うといつもこの話をする。本人はお酒を「飲めない」と言っているけど、正確には「飲んだことを忘れている」のだ。
 最初に出会った日、あのバーレストランで、ハンスは結局緊張して酒を飲み過ぎてしまった。結果、しっかり饒舌になって、この話をしてくれた。
 ハンスとはこれまで合計三回ほど一緒に飲んだことがあるが、毎回必ずこの話をして、最後には眠ってしまう。外で飲んでいるときは後始末に難儀するものの、ミランはハンスからこの話を聴くのが嫌いではなかった。
 とても素敵な作曲家で、妙なところが頑固で、無欲な友達の話。
 ハンスはいつも死んでしまった彼に対して悪態をついているけれど、それはナントカの裏返しであることをミランは分かっていた。

「あげく、あんな早く逝ってしまって……バカだ。アイツは本当に……」

 ここまで喋って眠ったのが一回目。

「でもね、俺は嬉しかったんです! ミラン様があの曲で踊ってくれて」

 ここからひとしきりミランの踊りを褒めちぎってから、電池が切れたように突然眠ったのが二回目。

「ミラン様があの曲で踊ってくれて、メディアにもたくさん出てくれたおかげで、それで、よく分からないけどこの星に香りが戻って……アイツの曲をたくさん聴いてくれる人が増えて……俺は、ホントにあなたに感謝してもしきらない」

 ここまで言って眠ったのが三回目だった。
 今日はこの後どうなるかな、とミランがワクワクしながらハンスのグラスに酒を注ぎ足してやる。あ、すいません、ありがとうございます、とハンスは毎度律儀に言って、酒をぐいっと飲み干す。

「アイツに俺は、ずっと恋をしてたのかもしれません。なんていうか、アイツになりたかった、アイツのそばにいたかった。アイツの曲が、たくさん聴かれることでアイツ自身もアイツの曲も、もっと自由になれるんじゃないかって、そう思っていた」

 ミランの頭に、ずいぶん遠い昔の恋がよぎった。ハンスの言う恋と自分が経験した恋は少し違うように感じたけれど、だからといってハンスにそれが間違いだなんて言えるはずもなく、かといって自分の感じ方が間違っているとも思わなかった。

「会いたいです。アイツに――」

 そう言い残して、ハンスは眠りについた。
 ミランは、机に突っ伏したハンスの背中にブランケットを掛けてやってから、ハンスが彼に夢の中で会えるように、ネジを回してオルゴールをかけた。
 陶器で作られたミランが、オルゴールに合わせてゆっくりと回っている。
 ずいぶん素敵に造形してくれたものだと感心する。風をはらんで膨らむ衣装、指先のひとつひとつまで。陶器という素材の性質上、まろみを帯びた輪郭を描いてはいるものの、ミランの踊りを一度でも見たことがある人なら、これがミランだとはっきり分かる。
 このミランを象ったオルゴールは、ミランがこの星の映像メディアを席巻したことと、オルゴールをかけることで、香りが戻ってくるなどのまことしやかな噂がたったことでずいぶん売れた。ハンスの工房もずいぶん大きくなったが、それでも生産が追いつかず、今ではオルゴール製作の大部分は外部に委託している。だが、ミランに贈られたこのオルゴールだけは、ハンスがその製作の全てを手がけた一点物だった。その証として、ミランの瞳の部分には宝石が埋め込まれている。ごくごく小さな薄い緑色の石ではあるものの、聞くところによると一粒で家が買えるほどの値段であるらしい。
 
 ハンスの友達には、身寄りがなかった。ミランが彼の曲で踊るにあたっての著作使用料の半分は、ハンスに支払われることになっていた。もう半分は彼の育った孤児院に寄付された。そうなるように生前の彼が設定していたらしい。
 ミランが彼の曲で踊れば踊るほど、また、今後その曲がこの星の各地で聴かれるほど、ハンスにお金が入ってくる――そのことに対してもハンスは怒っていた。
 急に分不相応なお金が入ってくることになったハンスはそのお金を全てつぎこんで、このオルゴールに埋め込むための宝石を買った。

「ハンス、僕は君もじゅうぶん頑固者だとおもうよ。結局さ、君たちはとっても――似たもの同士、ってことだよね」

 ハンスに宛てた置き手紙の結びにそう書き添えるころ、オルゴールがそっと鳴り止んだ。
 ミランは自分に贈られたそれを大事に包んで鞄に入れ、静かにこの星を発った。
 この星の冬が終わる匂いがしていた。


***

 久しぶりにフェリクスの家の扉を開けたんだ。連絡はしなかった。いつもしないから。いると思ったんだ。
 アトリエの扉を開けたら、この砂みたいのがそこら中に落ちてて、フェリクスの服と……耳飾りもそこにあった。だから――ソウイウコトだってわかった。他に何を覚えてるかって? そうだな……たくさん風景が描かれた絵があったよ。僕のオルゴールもあった。ネジを回すと、僕が踊るやつ。でももうネジは回らなかった。それだけ時間が経ってたんだ。僕は――気づかなかった。
 
「僕の方が、先に死ぬと思ってた」

 どうしてこんな話をロレンツォにしているのかミランは分からなかったが、ロレンツォは黙って聞いていた。
 あの日のハンスが思い浮かぶ。もしかして自分は、酔っているのかもしれない。コーヒーに何か盛られたのかもしれないけど、そうなったって別に良いや。ミランは自暴自棄になっていた。ここで酔い潰れたところで、きっとロレンツォがなんとかするだろう。それよりもう眠ってしまいたいのに、眠れない。

「朝が来るのが、怖いんだ」

***

「どう、ですか?」
「ずいぶんいいよ。これでずっと夜の中にいられるんでしょ」
「まぁ……はい。そこは、いわゆる地下コロニーなので。自然光のボタンも探せばありますけど、そのボタンを押したところで人工照明なのは変わりません。今は足元の照明を歩けるギリギリまで落としてる状態です」
「ありがと、タイラー」
「念のため、身の回りの世話用のロボットもつけておきました。自分の意思に反して眠りすぎても、生命維持はできるはずです」
「逆に言うと自分の意思では死ねないってことだね」
「そこを出る時は是非、ミラン様自身の意思と足で出てきていただきたいですけど、それができなくてもデータは取り続けていますので」
「……きみも、歳をとったね。そういう態度のこと、老獪って言うんだよ」
「分不相応な出世をさせられたので……」
「眠気がきた。もう寝るよ」
「おやすみなさい、よい夢を」

 ティロン、という音ともに通信が切れたのを確認してタイラーが呟く。

「スケールのデカい引きこもりだな……」
「タイラーもやってみますか?」

 うわっ、という悲鳴をタイラーはすんでのところで飲み込んだ。いつの間にか背後に立っていたコンシェルジュ姿の人影を軽く睨みつけてから、こっそり深呼吸する。

「私は遠慮しておきます。気が狂いそうだ」

 スッ、と執事から肩越しにサンプルケースが渡される。

「こちらが、フェリクス様です。解析にまわしていただけますか?」
「え……行ってきたんですか? 神鳥の特務が動いてるって聞きましたけど」
「現場保存のためのサイラスくんグッズは少々扱いが難しいもので」

 人差し指を口に当てて、いつもの得体の知れない笑みを浮かべている。

「現場保存……? 令梟守護聖の死後、該当住居は痕跡消去対象では?」
「アンジュ様の特令です。ミラン様が死ぬまでは残しておくようにと」
「またあいつは……」
「おや、不敬ですよタイラー」
「処罰ですか?」
「いいえ、あなたの肩書きが一つ増えるだけです」

 人はそれを昇進と言うのでは? そう思ったところでタイラーは考えるのをやめた。

***

 あれからどれだけ寝たか、よく分からない。どれだけ眠っても夜なのはすごく安心した。
 眠って眠って、眠るのにも飽きたころ、アンジュから手紙が届いた。それぞれの守護聖の近況なんかが書いてある手紙。
 返事は書かなかった。
 何度か王立研究院から派遣された人が検査に来て、その度に掃除をして、薬を置いていった。
 薬なんか飲まないつもりだったけど、飲まないなら大量の食事をしなくちゃならないと世話用ロボットがうるさく言うからしぶしぶ飲んだ。

「ねぇハンス。早く終わりが来ないかな」

 僕はいつからか世話用ロボットのことをハンスと呼んでいた。なんとなく懐かしい名前。誰かの名前だった気がする。

「先日の検査結果では、ミラン様のサクリア値に変動はありませんでした。あなたの死期は予測できません」
「その、こっちの希望は全部無視した物言い……誰かに似てるよ」
「あなたの言う『誰か』とは具体的に誰を指しますか? 必要があれば参考にします」
「いいよ。もう少し眠る」



 雪の上を歩いている。それだけでなんだか少し億劫になる。
 十分に眠ったから、眠りが浅い。変な夢を見るんだ。

 ――銀河中フラフラしちゃってさあ。ショーライのこと、ちゃんと考えてる?

 うるさいなぁ。眠いんだってば。

 ――同じ場所に戻る気なんて無いだろ

 あったよ、君の元に何回だって戻ってきたのに。君が僕の帰る場所を奪った。

 ――雪の上を歩くときは……

 分かってるよ。でもさ、もう君の足跡はない……分かってるってば。

 ――服を脱ぎ捨てる癖、いい加減直せよ

 その癖が、妹と君の前だけで見せる癖だったこと、君は知らないままだったね。

 ――早く靴を脱がないと凍傷になるよ

 何でか分かんないけど、この靴は脱げないんだよ。足が痛いのに、どうしても脱げない。ねぇフェリクス、手伝ってよ。

 ――ミランはさ、大勢の人に囲まれて踊ってるのが良いよ

 この痛んだ足じゃ踊れないよ。靴が脱げないんだ。

 ――要するに、僕は僕なりにここで楽しくやってるってこと。ミランからしたら、変化のない退屈な日常かもしれないけどね。だから遠慮しないでアイドルに戻って、いや、別に戻らなくてもいい。とにかく、ミランにも自由に――

「……勝手なこと言わないでよ!」

 そう言って飛び起きて、それが夢だったと気づいた。息が荒い。暗闇の中で無意識に足を撫でてみる。どこも怪我してない。
 僕が叫んだ声を異状と判断したハンスが、部屋の照明をつけてなめらかに近づいてくる。

「心拍上昇・脳波の乱れもあります」

 水と薬を手渡そうとしてくるのを見て、体が無意識にそれを払いのけた。思ったより動きが大きかったようで、水の入ったコップは音を立てて遠くまで転がっていった。

(ロボット相手に、何やってるんだか)

 感情を揺らした自分自身が億劫になって、立てた膝に、顔を埋める。

「……死んでも、うるさいんだから」

 その独り言に文句を言うようなタイミングでハンスが音を立てる。

「あなたに、緊急で通信が届いています。応答しますか?」

 通知されている相手の名前を見て、嫌な予感がした。今日はこれ以上何もしたくないのに。そう思ったけど、あまりにもハンスが放つ着信音がうるさくて「応答」、と言ってしまった。
 ハンスが映し出したホログラム上に久しぶりに見る顔が浮かび上がった。

「久しぶりだね」
「嫌な夢を見た後に見る顔は、君じゃなくてアンジュがよかった」
「フフ……元気そうで何よりだ」

 ロレンツォはいつも通りに見せているようで、どこかいつもと違っていた。不気味。

「タイラーでもなく、君がわざわざかけてくるなんて、どうせ良い知らせじゃないんでしょ」

 そう口に出したのは自分なのに、そういうことか、と納得する。ホログラム上の彼は、その言葉を否定せずに少し目を伏せた。どう言おうか少し考え込んでいる顔――そうか、ロレンツォは優しいと不気味なんだ。

「いいよ、ロレンツォ。言って」

 聞きたくない。でも、なぜだろう、聞かなきゃいけないって、心がそう言ってる。

「……ノアが、死んだよ」


***


「おう」

 墓前に花を供えて立ち尽くしているミランの後ろから、明るい声がかかる。

「出てこれたんだな」

 金髪が光を反射する。暗闇から出てきたばかりの目に優しくないな、とミランは思った。

「さすがにね……」

 ユエは墓標を親しげに撫でる。生前、そんな風に触れられるのを嫌がった彼の姿が思い出された。

「お前が酒を持ってるなんて珍しいじゃねぇか。弔い酒、ってやつ?」
「あぁ……これ? うん、いつだったかな、誰かに教えてもらった気がするんだ。弔い酒……じゃなくてなんだったかな、ケンパイ?」

 はーん、なるほど献杯。ユエはそう言って「せっかくだから良いグラス準備しとく。気が済んだら来いよ」と身を翻して、住居のほうに行ってしまった。
 墓標の前でしゃがみ込んで語りかける。

「何も残さず逝っちゃったんだって? 君らしいよ」

 少し肌寒い風が吹いて、供えた花びらのいくつかが風に遊ぶように舞っていった。
 その行方を眺めていたミランは自分がどうやってここまできたのか、覚えていないことに気づく。

(帰り方はユエに聞けば良いか、そんなこと聞いたら呆れられそうだけど)



 とくとくとくとく、と酒が注がれていく。
 薄紫色の液体をみて、ユエとミランは二人同時に「あ、」と思った。

(そっか、こんな色だったっけ)

 ミランは妙に遠い記憶に納得した。誰と飲んだか忘れたけど、たしかにこんな香りだった気がする。

「懐かしいな」

 ユエがそう言った。

「俺が聖地……令梟に来たばかりの頃は、三人だった」

 ここには二人しかいないけれど、ユエの言わんとするところをミランは汲み取っていた。

「ノアは、ずいぶん無茶したって聞いたよ」

 ユエは「あぁ」と短く言って、酒を掲げた。ミランも同じようにして、グラスに口をつける。

「それが、あいつの望みだったからな」

 ユエの表情は、寒季の前に色づく木の葉のようだとミランは思った。令梟にいた頃はこんな表情、見たことなかった。ずっと、新緑みたいにピカピカしていたから。

「そっか……」

 ミランは、窓の奥にある夜を見つめる。星明かりの綺麗な夜だった。

「踊っていかねぇのか?」

 ふいに、ユエがそう聞いた。

「踊り……そうか、踊り、なるほど」
「その発想はなかった、ってか?」
「そうだね……。ねぇ、ユエ」

 そう言ってミランは靴を脱いで足を差し出した。

「僕のこの足、君にはどう見える?」
「どうって、前と変わらないように見えるぜ? 歩き方に問題もなかったように見えたが……怪我でもしてんのか?」

 ううん、とミランは首を振った。

「足は動く。でも、足が動く、ってことと踊れるってことは違うんだ。僕にとっては」

 分かるぜ、とユエが言った。ミランは少し意外そうに目を見開く。

「なんだその目。俺様だってダテに長い時間生きてねーからな」

 あ、うんごめん、とミランは素直に謝った。

「書道と同じだ。手が動けばいいってもんじゃない……そういうことだろ」

 こんな話がユエとできることに、感動する。そんなことを言ったらまた怒られるかもしれない。

「……そうだね。いつかまた、僕が踊れるようになったら、そのときはまた、ここに来るよ」

 二人は微笑みあって、あと一杯だけ、酒を酌み交わす。
 窓の外で流れ星が一筋、長い尾を引いて流れていった。



「ねぇユエ」
「なんだ?」
「聞きたいことがあるんだけど」
「別れ際になんだ? そんなもったいぶらなくても今までいくらでも聞くタイミングあっただろ。だいたいお前帰り方が分からないってどうやってここまで――」
「うるさい」

 そう言うと、ユエはミランにほろ苦く微笑んだ。なぜだろう、と思うのと、ノアの口癖を思い出したのが同時だった。

「ちょっと、懐かしくなっちまった――で、なんだって?」
「……フェリクスのお墓ってどこにあるの?」

 ユエは最大級に呆れた声を出した。

「っ、お前……まぁ、仕方ねぇか」

 そう言ってユエは今度はしっかりとミランを見据える。

(懐かしい。首座だったときの目だ)

「それを確かめたきゃ、お前が最後にフェリクスを見た場所に行け」
「でも、『令梟守護聖の死後、該当住居は痕跡消去対象』でしょ? それに、あれから僕がどれくらい引きこもってたと」
「いーいーかーら! 行ってみろ。それで、その目でちゃんと見てこい」

 ばん、とユエがミランの背中を叩く。

「アンジュが、ちゃんとしてくれてっから」

 驚きで何も言えないままでいるミランを船に押し込んで、ボタンを押す。

「スオウから出られたならお前はもう、大丈夫だ。心配すんな」

 そう言ってユエは手を掲げる。
 ミランはどういうこと、という言葉が喉に詰まったまま、閉められた扉の向こうをジッと見つめていた。


***

 そうそう。あの施設は通称スオウと呼ばれていてね。ユエが育ったところの技術や文化が継承されている……なぜ言わなかったかって? 君なら分かるだろう。そう。まさしく「聞かれなかったから」だ。フェリクスの住まいにしてもそうだよ。君の心の準備ができたら伝えるように言われていた。タイラーも同じことを頼まれていたはずだけど、私も彼も君の心の準備ができたかどうかの判断はしかねるところだったからね。その辺りの判断ができるのは、さすが元首座、といったところかな。あぁ大丈夫。サイラスがちゃんと現場保存の処置をしたそうだから、君が最後にあの家に行ったときの状況とほとんど変わっていないよ。さすがに少しフェリクスのサンプルは取ったらしいがね。――ミラン、きみ、怒っている?

***

 はぁ、はぁ、と息遣いが荒くなる。何十年も引きこもっていたせいですっかり体力が落ちてしまっていることを、ミランは自覚した。
 この星はいつ来ても雪深い星だったはずだが、今はちょうど「ごく短い夏季」が戻ってきているらしい。ごく短い夏季といっても、暑いわけではない。むしろ心地よい風が吹く程度で、雪もなく、歩きやすい。それでもミランの息は乱れた。

(歪みが……解けたんだ)

 凍傷になるような雪や気温が、懐かしくも思える。

(知らない星みたい)

 初めて見た夏季のせいで、すっかり植生は違って見える。
 それでもミランは、自分の前を歩く雪の音や、自分を少し気遣いながら歩くそのリズムを思い出せる。自分が歩くべき方向も。

(君はもう、いないのに)

 見慣れたようで見慣れない、雪が降り積もっていない屋根が徐々に見えてくる。スノードームのようなアトリエも。
 それらの建物に近づく度、ミランは胸が詰まるような心地がした。

(あ。もしかしてキンチョー、ってこういう感覚なのかも)

 門の扉に手をかけたとき、ミランはそう思った。
 深呼吸をする。ダンスをはじめる前のように。


 僕の生体情報を認識して音もなく開いた門扉。家主がいないのに鍵をかける意味はあるのだろうか。
 庭には控えめに下草が生えていたけど、生い茂る、というほどでもなかった。誰かが手入れをしてくれたのか、それとも短すぎる夏季ゆえにそうなるのか、僕には分からない。サァという風の音。この星では聞き慣れない音だった。その風と音を見送るようにして、扉を閉める。
 エントランスは、あの日のような埃っぽさを感じた。
 僕の部屋、キッチン、浴室、暖炉の部屋、フェリクスの寝室。
 順番に窓を開けていった。「行くならついでに空気の入れ換えをお願い」とアンジュに頼まれたから。
 ただでさえ物の少ない家が、家主を失っていっそう寂しげに見えるけど、それは僕の気持ちがそう感じさせているのかもしれない。暖炉の前の、フェリクスがよく座っていたソファを撫でてみる。彼はよく、このソファでうたた寝をしていた。今考えてみると、暖炉の前でするうたた寝が好きだったのかもしれない。

「だとしたら――」

 その独り言が思いの外響いたことに静かに驚く。この家はこんなに広かっただろうか。

「ちょっと、意外かも」

 アトリエの扉は密閉性が高くて、他のどの扉よりも開けるのに苦労する。
 体力が弱っているから、記憶よりも、より力を込めて開けなくてはいけなかった。
 ようやくできた隙間から身を滑り込ませて、目をぎゅっと閉じる。

(君の、匂いがする)

 他の、どの部屋よりも濃く感じるそれを、少しずつ肺に入れるように息をする。
 そうして、観賞魚を水槽の水に慣らしていくように、少しずつ、アトリエの空気に自分を溶け込ませる。それはどうしたって、必要なことだった。
 だって、目を開けたら、砂粒が散らばっていて、それは全部フェリクスで……目を開けられそうにない。
 怖い。
 お化けでいいから、出てきてよ。
 うるさくていいから、呆れた声で、僕を叱ってよ。
 涙が瞼の裏に湧き上がりかけた――そのとき。

 ティン、トリロリン、ティン、トリロリン。

 懐かしい音がして、僕は思わず目を開けた。アトリエの中には雲間から降り注ぐ光が差し込んで、そのうちの一筋が、オルゴールを照らしていた。

 ――ゼンマイを巻いてないのに、好き勝手踊りだしたんだよ

『人形になってもうるさい』って殴り書き。

 ――真っ白なキャンバスには、何を描いてもいいし、描かなくたっていい。自由なんだ

 あの日そう言った君の声。

 足が自然とオルゴールに近づく。アトリエの真ん中に置かれたキャンバスのそば。花瓶台のようでステージのような場所。
 そこで僕が踊っている。
 ここだよって教えてくれるように。
 裸足に砂粒を感じる。
 先を行く君の足跡を踏んで進んだ日のことを思い出す。
 そして理解する。

(そうか、僕は――靴を脱ぎたくなかったんだ)

 涙がこぼれ落ちる。
 それも踏みながら歩く。
 キャンバスの目の前に、薄紫色の砂粒の山があった。

「ごめんね、フェリクス。気づくのがずいぶん遅れちゃって」

 キャンバスを手に取る。

 ――若葉みたいな色だろ? ミランらしい色だなと思って

「約束、守ってくれてたんだね」


*****

 カタン、と筆の置く音を知覚して、ようやく絵が完成したことに気づく。初めて人間を描いたにしては、我ながら良い出来だと思った。
 両の掌に収まるサイズのキャンバスにしたのは、君の小さな鞄にも入るように。大げさすぎるほど喜ぶ顔が、今から想像できる。
 絵の中の彼の、腕の軌道を指でそっとなぞる。写実的に描きこみすぎなくても、流星緑の脳天気なほど明るい緑が彼らしさをよく表現してくれる。

「芽吹きたての命の色、か」

 フッと笑って、キャンバスを置いたそのとき――人差し指の爪の先がなんだか変なことに気づく。見ると、自分の体が、少しずつ、さらさらと砂のように流れていっている。
 怖いとか驚きより、納得が勝った。
 あぁ、こんな風になるのか、と思った。
 ふと、キャンバスの側に置いてあったオルゴールが目に留まる。

「最後くらい一緒に踊ろうか」

 徐々に砂と化していく指で、ゆっくり、ゼンマイを回した。

 ティン、トリロリン、ティン、トリロリン――。

 君の見よう見まねで舞う度に、アトリエに砂が舞う。

(これは掃除がめんどくさそうだ)

 この絵を見た君の顔が見られないことは少しだけ残念。だけど、後悔はない。
 雪の上で君が見せてくれたターンを思い出す。また少し、砂が舞う。
 力が上手く入らなかったせいで少ししか回せなかったオルゴールがやがて止まる。
 砂が入ったせいで壊れたのかもしれない。
 ゆっくりと歩いて、もう一度、キャンバスに近づく。

「ああ、やっぱり君は、美しいね」

 君を抱き締めたかったけど、間に合わなかった。

*****


 どれくらい、そうしていただろう。
 足下の砂が雨の後みたいに、涙でしっとりしていたから、ずいぶん泣いていたのだろう。
 フェリクスと、僕の涙が混ざって薄紫色の絵の具のようになっている。
 そこを何気なく指ですくい取ってみた。

「うん、やっぱり君は、綺麗だね」

 すくい取った絵の具のような君を、足に塗りつけてみる。
 痛んでいた足が命を取り戻した気がした。
 一粒、涙が落ちる度、薄紫色をすくい上げて、塗りつける。
 全身を化粧するような感覚。リコでもこんなふうにしたことがあったっけ。
 最初に踊った日のことはもう思い出せない。だけど、君に初めて出会った日のことは思い出せるよ。
 準備ができた。オルゴールを回す。

 ――君が最後にあの家に行ったときの状況とほとんど変わっていないよ

 オルゴールはあの日、回らなかった。
 きっと誰かが、直してくれたんだろう。
 今日のために。

 ティン、トリロリン、ティン、トリロリン――

 生まれなおすみたいな気分だ。
 まずはゆっくりと、体を起こす。
 僕は、まだ鈍い体を思い切り伸ばして、不格好なターンを決めた。
あしあと
「そう、か」

 夜更けのような、朝焼けのような、そんな紫の瞳をすいと細めて、ロレンツォ様は頷いた。

「君がそれを選ぶなら、私が反対する理由はないしね」

 そう言ってから一度だけ薄く唇を開いて、閉じる。言いかけた言葉があったのかもしれないが、それはその時の俺の耳に届くことはなく、きっとこの先も一生訪れないだろうと思った。それを、良かった、って思ってしまったことも、一生内緒だ。

「はい、ありがとうございます。ロレンツォ様」

 そう言って頭を下げた。顔を上げたとき、尊敬する地の守護聖様はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
 きっと、ユエ様でもフェリクス様でも同じ事を言ってくださったと思う。そんな中で彼に一番に報告したのは、憧れもあってだ。
 そして、否定しないと信じていたから。
 どんな道を選んでも。どんな生き方を選んでも。どんな――死に方を選んでも。
 人が導き出した選択を、否定しないでくれるであろう人に、最初に報告したかった。
 アンジュが、令梟の宇宙の行き末を決めたとき、きっと、彼もその場にいたのだろう。そしてきっと、否定しなかった。その人に、自分の行き先も、聞いて欲しかったのだ。
 それは少しだけ、狡さもあるんだろう。俺は自分のそういう狡さだって理解している。
 理解している。

 だから、親友は、後回しになってしまったけれど。


 *


「俺は、リモージュ陛下のご加護を受けたいと思います」

 守護聖全員が集まっての場で俺がそう告げたとき、皆様それぞれ別の表情を浮かべていた。ぐっと眉根に皺が寄ったシュリ様。困ったような顔をしたノア様。驚いたように目を見開いたフェリクス様と、少し面白そうなものを見るように口元を緩めたミラン様。ヴァージル様はいつも通りで、先に知っていたロレンツォ様も同じ。ユエ様は強いまなざしで、俺を見て、それから、「いいんだな?」と、確認した。「はい」と俺が頷いたら、ユエ様は三秒だけ目を閉じて、それからまっすぐに俺を見て頷いた。

「分かった」

 静かな声にほっと短く息が漏れた。いつのまにか、息を詰めちゃっていたらしい。

「……なん、で」

 掠れた声にちいさく苦笑が漏れた。だって、こうなることは分かっていたし、分かっていたから、今日まで言わなかったんだ。
 ずっと避けていた視線を、親友に合わせる。
 カナタの引きつった顔に微笑みを返した。

「ごめんね、カナタ」
「……ッ、そういう、こと、じゃない! なんでって……!」
「俺には俺の理由がある」

 叫びかけたカナタの声に被さるように、少しだけ声を張って言い切った。
 カナタの瞳が揺らぐのを見てから、噛んで含めるように、もう一度ゆっくりと、言う。

「理由が、あるんだよ。カナタ」
「……全然、分かんない。だって、みんなは」

 みんなは、そうだ。他の守護聖はアンジュの庇護下のまま、生きると言った。
 俺だけだ。令梟の宇宙から離れて、神鳥の庇護下に入ることと選んだのは、俺だけ。
 最初はいいだろう。アンジュのサクリアがあるうちは、みんなのサクリアがあるうちは。でもきっと、それだって神鳥の――リモージュ陛下のサクリアの元だと、きっと些細な年月だ。
 俺は、いつか、みんなと違う時間を生きていくことになる。
 カナタとだって、そうだ。

「みんなはみんな、だから。俺じゃない」

 口を突いて出た音は、自分でも思ったより平坦で、あ、ちょっと不味いかもって思った。こういう声が出ちゃうとき、逆に上手く感情がセーブ出来ない時だ。

「だから、それが分かんないって言ってんだよ! ゼノ!」
「――カナタは」

 ああ、だめだ。本当はこんなこと、言いたくないのにな。

「人の考えを、自分の価値観の中で測りがちじゃない? そういうとこ、子供っぽいなってずっと思ってる」
「ゼノ」

 静かな声はユエ様だった。そこで、ああ、またやっちゃった、って思う。
 いいかげん子供じゃないのに。俺も、カナタも。いつまでたっても、こういうの、なくならない。
 カナタはあからさまに傷ついた顔をしていて、でも、言われるだけじゃなかった。そういうところが、カナタが愛されてきたところなんだろうな、って、思う。思うけど、こういうときは、ちょっと、しんどいな、とも、思った。

「――オレはゼノの、そうやって他の人はどうせ分かんないから、って、最初から説明を諦めるところ、ずっとどうかと思ってるから」
「……カナタ」

 名前を呼んで肩に手を掛けたシュリ様を振り払って、カナタは応接間を出て行く。

「シュリ」

 ヴァージル様がただ呼びかける。何をしろ、と言うわけでもなかったけれど、シュリ様は短く舌打ちして、カナタを追いかけるように出て行った。その姿を見送ってから、俺は全員に頭を下げて、その場をあとにした。

 ――アンジュはその場では、なにも、言わないでいてくれた。


 *


 聖地の夜風が好きだ。特にこの時間の公園は人もいなくて、でも手入れされた噴水の規則正しい水音が響いていて、気持ちが良い。
 やわらかい風と、穏やかなスオウの光。
 アンジュの抱いた星々が散らばる空。
 目を閉じて、長い髪をすり抜けていく風を感じる。そのひとときを堪能する。

「ゼノ」

 静かな優しい声に目を開けた。
 スオウに照らされた噴水のしぶき。その向こうに、彼女が立っていた。

「アンジュ」
「隣、いい?」

 うん、と頷いて、椅子がわりにしていた噴水の台をかるく拭う。アンジュは黙ってそこに腰を下ろした。
 アンジュは何も言ってこなかった。静かな時間がただ風とともに流れていく。
 しばらくしてから、そっと、声が聞こえた。

「髪、結ってないんだね」
「あ、うん。お風呂上がりだったから」
「そっか。そうしてるゼノ、いつもよりちょっと大人っぽく見えるね」
「本当?」

 なんだか照れくさくて思わず頬をかいてしまう。アンジュはそんな俺を見て、少しだけ笑い声をたてた。

「前言撤回しようかなぁ」
「え、な、なんで?」
「ふふ。なんでだろうねぇ」

 楽しそうに笑うアンジュの横顔が、夜に縁取られている。その光景が、景色が、世界が、好きだなって、思う。
 だから俺もちょっとだけ笑って、すうっと息を吸った。ひと息で、告げる。

「ごめんね、って、言えなくて、ごめんね」

 アンジュが目を瞬いて俺を見た。夜の中で、そこだけからりとした青空がちかちかと反射する。すぐにそれは笑みの形で崩れた。

「ゼノ、さすがにそれはちょっと、変」
「うん、俺も、言ってからちょっとそう思った」
「だよね」

 あははは、とアンジュが声を上げて笑う。俺もつられて笑っていた。ひとしきりふたりで笑って、笑って、それからはぁーとアンジュが大きく息を吐いた。

「うん。私も。ごめんって、言わない」

 そう言って、空に挑むようにアンジュは視線をあげた。その瞳が、宇宙を抱いている。力強くて、美しい、俺たちの女王陛下。最期を決めた、俺たちの女王陛下。
 その細い手が、膝に置かれたまま強く握られていて微かに震えているのは、見ないふりをした。その手を握るのは、俺の役目じゃない。

「カナタとちゃんと仲直りしてね?」
「う……。はい……」
「ふふ。よろしくね、ゼノ」

 ――その、よろしく、に込められた意味が分からないほど、俺はもう子供じゃなかったし、俺たちはその意図を汲み取れない程度の関係でもなかった。

「うん。アンジュも、よろしくね」

 俺の言葉に、アンジュは静かに、うん、と頷いた。

 *


 俺は俺の故郷を救えなかった。
 俺は彼女の宇宙も、救えなかった。
 そんな俺に出来ることは何だろうって考えて、考えて、俺は俺の行く末を決めたんだ。
 ぜったいに、アンジュより先に死ねなかった。
 ぜったいに、アンジュより先にサクリアがつきちゃだめだった。
 俺の故郷が、カナタの、アンジュの故郷が、みんなの故郷があった宇宙を、最期まで。最後の最後まで、見届けること。それがきっと、俺の使命だから。俺の役割だから。
 それが出来る道を、選んだ。
 ただ、それだけだった。それだけで、俺はこの先の、気の遠くなるような幾千年を生きることを、決めたんだ。


 *


 アンジュの守ってきた聖地とここは、少しだけ匂いが違う。ここの――神鳥の聖地のほうが花の香りが強いのかな。そんなこと思うのは、俺だけかも知れないけれど。
 屋外の作業は嫌いじゃない。部屋に籠もるのも良いけど、物をどかさなくても部屋に辿り着けさえすれば眠れる場所がそのままあるから、楽だ。

「んー、こんなもんか、な」

 ふうと息を吐いて、顔を上げた。風が汗を拭うように吹き抜けていく。
 手元には小型のドローンがたくさんある。元は持たなくていい日傘だったもの。それをさらに小型にして、連携して自律制御するようにした。光学迷彩も取り入れてあるから、外からは見えないようにだって出来る――まぁ、ぶつかれば分かっちゃうけど。
 この小型ドローンが遮るのは陽射しじゃない。サクリアそのものだ。今度、ヴァージル様が赴かれる先で必要となるもの。
 偏った俺たちの――令梟のサクリアが、雨のように粒子になって降り注ぐという場所。
 一過性のものだと思います、とは、言われた。タイラーから。きっとすぐに神鳥の力が行き渡って、落ち着くんだろう。そんなことはみんな分かっていて、俺たちは無力だとも知っていて、それでも、俺たちは動く。アンジュの慈しんだ宇宙を担う一端として、最後までありたいから。
 それはそれとして、実験らしい実験が出来ないまま持って行かれることになりそうで少し困る。まあ、実験する場所と環境がないんだけれど。

「うーん、どうしようかな……」

 あってもなくてもいい、のは事実。作動しなくてもヴァージル様はそんなもんでしょう、て言っちゃいそうだし、これは俺が勝手にやっていることでしかなくて、でもだからこそ、ちゃんと作動して欲しいんだよなぁ。

「よう」

 声とともに手元が陰り、俺は顔を上げた。

「ゼフェル様」
「また何か作ってんのか?」
「はい。ええと……」

 事情を説明して俺が笑うと、ゼフェル様はきゅっと眉根を寄せた。いつだって感情と表情が繋がっているな、と思う。俺とは違うな、とも。

「――んで、それどうやってテストすんだよ」
「そこなんですよね。どうしようかなって……。ロレンツォ様に相談しようかと考えてはいるんですけれど」

 ためらっている理由はひとつ。ロレンツォ様はついこの間までここに――神鳥の聖地にいたからだ。それも結構、長い間。
 ……アンジュからしたら、もっと、長い時間になると思う。せっかくアンジュの元へ帰ったばかりのロレンツォ様にまた呼び出すのは忍びないし、タイラーやサイラスに相談すると事が大きくなりそうだし。

「……聞けばいいだろ、うちのに」

 ん、とゼフェル様が親指で示した先を考えて、俺はぱちりと目を瞬いた。
 ああ。そうだ。その手があったんだ。

「そう……ですね」

 気づいてはいたはずなのにそこに考えが至らなかった。ただ単純に、俺たちのことは俺たちで、という意識が強すぎたんだろう。
 アンジュが閉じた宇宙のことは、アンジュの守護聖である俺たちがやるべきことで、神鳥の方々を巻き込めない。その考えがどうしても根っこにあるんだ。
 それをやめろって、何度も言われているのに。
 そっと、俺は自分の手を見下ろす。リモージュ陛下のご加護が宿った、その身を確認する。
 俺はもう、みんなと生きる時間は違う。
 アンジュが宇宙を閉じると決めた後、俺たちは人の身でありながらサクリアが尽きるまで死ねないことが決まった。俺たちのサクリアはゆっくりとこの神鳥の宇宙に溶けていく。それでも、その溶けきるまでは、俺たちはただの市井の人の身ではいられない。
 その上で、俺は。

「じゃあ、伺いますね。ルヴァ様のところへ」

 ――その身にさらに、リモージュ陛下のご加護を受けて、みんなより長い、永い時を生きることを、決めたんだ。


 *


 それでも思っていたよりずっと早く、日は過ぎていく。
 案外、悪くない日々だった。
 まぁ……、時々、よく分からない噂は、されているけれど。

「アンドロイドって聞いたけど」

 ……それはさすがにちょっと、おもしろすぎない?
 俺が王立研究院に顔を出したとき、ちょうど俺の噂話をしていたらしい囁き声が耳に入った。話していた人は、慌てたように散って行っちゃったけど。

「ゼノ様」
「こんにちは、タイラー」

 奥から顔を出したタイラーに挨拶をして、俺はちょっとだけ言葉を呑んだ。
 タイラー、少し顔が疲れている。目の下の隈が濃い。

「すみません、ゼノ様。ああいうのは言ってはいるんですけど」
「あ、いいよいいよ、全然。気になるのは分かるしね」

 先代とか先々代とかの噂から変わらない姿でいたら、それはまぁ、色んな噂も立つだろう。俺がどういう立場かなんて、直接言い回っているわけでもないし。

「ええと、さっきはアンドロイドって言ってたよ。この間はクローンだったっけ」
「……すいません……」
「あはは、他にはあった?」
「……幽霊……とか」
「ユエ様が嫌がりそう」

 ふはっと思わず声が漏れた。まぁ、変わらない気もするけれど。俺たちは結局、令梟の宇宙の幽霊みたいなものかもしれないし。

「あ、ごめん、タイラー。これ」

 言いながら俺は、頼まれていたものを取り出して手渡す。
 赤いリボン型の小型機械。

「ありがとうございます。いろいろ依頼して申し訳ありません」
「ううん、これもカナタとシュリ様のところでしょう?」
「はい、ええと」

 俺からそれを受け取って、タイラーが言い淀む。あ、そっか。頼まれていたのは二つあった。

「自動記録のはもう少し待って。要約と同時に報告もしちゃえるようにしてるんだ。それは変声機のほう」
「変声機……」

 赤いリボンを持ったまま、タイラーの目が眼鏡の奥ですうっと細まった。

「あ、ごめん。この間アンジュと話したら、変声機といえばバースではその形だったって……聞いたんだけど……」
「……いやあってます、あってます、けど。……あいつ……」

 タイラーが喉の奥で呻く。
 そのまま、はぁ、とため息を吐いて、タイラーは口の端だけ持ち上げてちいさく笑った。

「確かにお預かりしました。カナタ様の元へお届けします」
「うん、ごめんね、頼んじゃって」

 タイラーの眉毛が少しだけ下がって、困ったような顔になる。

「あっ、ちがうよ! 喧嘩してない! ただスケジュールが合わないだけ!」
「それなら良かったです」

 タイラーが笑う。――この生き方を選んだ時もそうだし、聖地でも飛空都市でも、それからもう何年と経った今でも、俺とカナタは時々喧嘩をしちゃう。喧嘩出来るくらいまっすぐと言葉を交わせるの相手がいるのは良いことだよ、って、オリヴィエ様には言われたけれど、まぁ、そのたびにみんながやきもきしてるのは、分かってる。申し訳ないな、とも思っている。
 でも、うん、それくらいは、いいんじゃないかな。そんなふうにちょっとだけみんなの好意に甘えている。
 毎日毎日顔を合わせて、あの宇宙を守ってきた仲間。
 今は別の道を選んで生きている俺たち。
 その細いつながりに甘えている。

「――みんなは元気そう?」
「ええ。ミラン様はまた別の惑星でデビューされました」
「あはは、さすが」

 目を細めるタイラーを見て、あ、と思った。目じりに少し、皺が増えた。なんて、失礼なことを思いながら。

「ゼノ様」
「うん?」
「……もうすぐ、俺たちがあそこで暮らした日数より、こちらに来てからの方が長くなります」

 その言葉に、どう答えるのが正解だったんだろう。
 一瞬で脳裏を色んな思いが駆け抜けていく。でも、上手く言えなくて、俺はただ「そっか」と笑ったんだ。


 *


 みんなからの依頼を受けて、好きなことをして、あちこちに顔を出して。時々みんなとごはんに行ったり、遊びに行ったりする。
 最初はあった、令梟の宇宙とこっちの違和感が、やがって時間という波に呑まれて溶けていく。
 そんな中、俺は初めて、仲間の死を知った。

 フェリクス様だった。


 *


 タイラーからの報告を受けて、家に帰って、ベッドに身を投げて、じっと天井を見上げる。
 明かりが眩しくて腕で顔を覆った。細い息を零す。

「もっと、悲しいかなと思ってたんだけどな」

 悲しくないわけじゃない。でも、思ったより心は凪いでいた。
 あの日みたいに――スピネルの死を目の前で見たあの日みたいに、俺は叫ぶんじゃないかな、泣いちゃうかもな、なんて、少し思っていたんだけれど、当たり前のようにそんなことはなくて、俺の視界はスピネルみたいに乾いたままだ。
 案外悪くない死に方だな、なんて思うほどで、俺は俺の思考にちょっとだけ嫌気がさす。
 だけど、寂しさはある。そうしょっちゅう会っていたわけじゃないし最後に会ったのはいつだったかな、とそんな風に考えることが寂しい。そういうのが、寂しい。もう会えないというのが当たり前にそこにあったのに、俺はまた、誰かが生きている毎日をただ浪費したのか、という後悔もある。
 そう思った次の瞬間、俺は起き上がっていた。放り出していたジャケットを手にとる。
 突然訪ねた俺にサイラスは何も言わず、ただあの細い眉をピクリと動かした。そうして、星の小路を開いてくれた。
 シュリ様は俺を見て少しだけ寂しそうに笑って、俺を奥の部屋へと案内してくれた。
 カナタは、泣いていた。

 泣いていることがほんの少し、羨ましかった。


 *


 近況とか、思い出とか、他愛ない話を重ねる。シュリ様が持ってきてくれた遠い地方のお酒を少しだけ口にした。どういういきさつのものかまでは教えてくれなかったけれど、それでいい気がして、俺もカナタも特に聞かなかった。まぁ、たぶん、寒い地方のそれだ。だって舌が痺れそうなほど、アルコールが強かったから。
 ほんの少しの愚痴と、悪態と、たっぷりの優しさでもって、カナタはフェリクス様を語る。シュリ様はそれを面白そうに見ていて、時々口を挟んで軽く笑う。
 終わらないおしゃべりの夜。
 その日、カナタの探偵事務所は盛況だった。たぶん、みんな知ったんだろう。そうしてたぶん、カナタを心配したんだ。みんななんだかんだ、カナタに甘いから。
 ロレンツォ様とアンジュが来て、シュリ様と言い合いになって――この人たちもいつまでこれやるんだろうな、とは思う――帰って行って、そしたら今度はヴァージル様が顔を出した。カナタを頼みます、なんてシュリ様に言ったものだから、カナタからもシュリ様からも「保護者じゃない」って言われてたけど。……でもまぁ、俺はそこに関しては、ヴァージル様の意見と同じだ。今のシュリ様はほとんどカナタの保護者だと思っている。言わないけど。

「そうだ、ゼノ。また時間があるときで構わないが、時計の調整を頼んでいいか」

 ふと、シュリ様が言い出して俺は頷く。シュリ様の持っている時計は、時折手入れさせて貰っている。

「時計の調整?」

 ヴァージル様がシュリ様を見やる。

「時々頼んでいる。こういうものはゼノが得意だ」
「まぁ、それはそうでしょうけど。……そうか、ゼノに頼むのもありか」

 ヴァージル様が考えるように口を手で覆う。
 なんだろう。カナタと目を合わせて、俺は軽く首を傾げた。

「ヴァージル様、何かありましたか?」
「いえ、ええ、少し。……ずいぶん前に、ゼノが作ってくれた日傘、ありましたよね」
「持たないやつ?」

 カナタが聞くと「ええ」とヴァージル様が頷いた。

「あれを一機、置いてきた場所があって。メンテナンス、を頼めば、それ自体長持ちしたりするもんですか?」
「え? ええ、それはもちろん……」

 過度なサクリアの暴露を防ぐ機能もつけたあれだ。あれ自体はそう長持ちする物でもないけれど、メンテナンスすれば少しは寿命だって延びる。でも、それを置いてきたなんて初耳だった。

「では一度、頼んでもいいですか? 辺境の惑星ではあるんですが――」


 *


「別にカナタも一緒に来なくても大丈夫だったのに」
「だって気になるじゃん。うー、寒い」

 ぶるっと体を震わせて、カナタはジャケットの前を握りしめる。

 そこは、冬の惑星だった。もっと正確に言うなら、死んだ惑星かもしれない。命の気配はもうなくて、真っ暗な空からただしんしんと雪が降り続けている。古い建物がいくつか並ぶコロニーは、少し前まで王立派遣軍が使っていて、放棄されたものだという。
 放棄の理由は、辺境の拠点が必要なくなったから、だったかな。捨て置かれた遺物は雪に埋もれている。
 ヴァージル様が持たない日傘を置いた場所は、そのコロニーの端も端。言われなきゃ気づかないような、小さな――小さな、お墓だった。
 ピカピカに磨かれた石碑。そこには文字が刻まれている。俺たちの知らない文字だった。その石碑の上にはいつか見た日傘がふわふわと浮いていて、その石碑だけは雪に埋もれていない。非現実的な光景を、俺とカナタは見つめて、いつのまにか詰めていた息を吐く。息は白く、空に溶けていった。
 その小さなお墓のいきさつは、俺もカナタも聞くつもりはなかった。どうしてヴァージル様がこれを置いたのかも分からない。俺たちは何もかもを話し合うような間柄ではないから。
 それでも、ヴァージル様が俺の機械を使ってくれたこと。俺にメンテナンスを頼んでくれたこと。その事実が、嬉しかった。

「じゃあ、メンテナンスするね。手伝って、カナタ」
「もちろん」

 帆を張り替えて、骨組みを確認して、バッテリーを新しくする。もちろん新しいものを置くのが早かったけれど、なんとなくヴァージル様の置いてくれたそれをそのまま使いたくて、俺はメンテナンスを選んだ。カナタも否定はしなかった。
 ふたりで作業して、ふたりで墓を拭き上げた。

「ゼノ、翻訳出来る?」
「うん。読む?」
「名前とかだったら、呼んであげたい気がする」

 カナタの感傷は正直少し強すぎる気もしたけれど、俺はカナタのそういう所嫌いじゃなくて、機械を通して翻訳することを選んだ。でも、そこには名前はなかった。ただ、墓にはひと言だけ、こう書かれていた。


 愛しい子。


 カナタは目を細めて、まるで幼子を撫でるように石碑を撫でた。
 ふと、俺の唇から音楽が零れ落ちた。


 いとしいこ――


 カナタが目をぱちぱちと瞬かせる。

「ゼノ?」
「……ごめん。思い出しちゃって」
「知らない歌だそれ。神鳥の歌?」
「ううん。俺の故郷……スピネルの歌」

 俺はあまりスピネルのことを話さない。だから、カナタはおどろいた顔をした。そういう顔をするときのカナタは、いつもより幼く見える。
 でも、その次の顔は、俺の知らないカナタの顔だった。慈しむような大人びた微笑。
 ああ、と、思った。
 俺たちだって、大人になったんだ。
 カナタはその大人びた顔で、そっか、と言って空を見上げた。
 俺たちはこれから、こういう別れをどれほど重ねていくのだろう。俺は最後の最後まで、それを見守ることになる。
 すっとカナタが腕を空に伸ばした。うーん、と伸びをする。

「ゼノ、もっかい聞きたい」
「えぇ……恥ずかしいよ……」
「いーじゃん」

 カナタに請われて、俺はもう一度歌を口にする。
 歌い終わると、カナタは目を閉じていた。そして目を閉じたまま、薄く唇を開いた。

「それさ」
「うん」
「オレが死んだら、こうしてもう一回歌ってよ」

 ――何も言えなかった。

 言うべき言葉なんて見つからなくてただ息を呑んだ。カナタを見つめる。指先が少しだけ、震えた。
 俺の見つめる先で目を開いたカナタは、少しだけ挑戦的に唇を持ち上げて、笑った。

「そういう覚悟、したんでしょ」
「……ずるい」
「あはは、ごめん」

 笑うカナタを軽く小突いて、俺は息を吐いた。心臓がバクバクしている。いつかそういう日が来ることを突きつけられて。

「あのさ、カナタ」
「うん」
「俺は、何も出来なかったんだ」

 スピネルの爆発をただ見届けた。アンジュの苦悩だって見てたけれど何も出来なかった。でも。

「でもさ、こうして、メンテナンスくらいは出来る」

 ふわふわと浮く日傘を少し撫でる。サクリアの暴露も、陽射しも、今は雪だって防いでいる小さな機械。

「最後まで……見守ることは、出来るんだよ」

 カナタは俺の言葉にもう一度微笑んで、それから、肩に積もりはじめた雪を払った。俺たちは傘を持たなかったから。

「ゼノってさ」
「うん」
「案外、不器用だよね」

 告げられた言葉はさすがに聞き捨てならなくて、俺は苦笑いしてしまう。

「……元、とはいえ、鋼の守護聖に、それ、言っちゃう?」
「ごめん。でも事実じゃん」

 優しさはどうしたんだよって言い返せばいいのかな、これ。なんてちょっと思った。

「なんてーかさ、生き方が不器用」
「生き方かぁ」

 まぁ、うん、そこに関しては器用ではない、かもしれない。
 困って笑う俺に、カナタは優しく笑っていた。

「でも、オレ、嫌いじゃないよ、ゼノのそういうところ」
「……カナタ」
「なんで、とは、たぶんずっと思うけどさ。でも、うん、嫌いじゃない」

 言い切られてむずがゆさを覚える。だけど嬉しかった。カナタがそう認めてくれたことが、俺の生き方を、選んだ道を、否定しないでいてくれたことが、嬉しかった。

「ありがとう、カナタ」

 雪が降る。
 持たない日傘の下に、誰かの愛しい子がいた証がある。

 俺たちは生きる時間を別にして、死んだあとの約束をした。
 遠い惑星の歌を、たったひとつの約束にした。


 *


 バイクのメンテナンスを頼まれていた。
 ――よく、晴れた日だった。


「おー。ピカピカじゃん」
「カナタ、わりと乗り方荒いよね」
「前もそれ言われた」
「もー」

 俺が送ったバイクを愛しそうに撫でて、カナタは笑う。古びたジャケットを着て。

「長旅?」
「ん、まあね」

 カナタが頷く。
 久しぶりに聖地にきたと思ったらバイクを預けてきて、そしてわりとすぐに引き取りに来た。せっかちだなぁと、少し思う。

「無茶しないでね、ほんとに」
「はーい。ゼノってわりと心配性だよね」
「うるさいな」

 保護者がもういないんだから、小言くらい誰かに言われた方が良いと思う、カナタは。
 俺の言外に気づいたのか、にっとカナタは歯を見せた。

「――メンテナンス、ありがと。じゃあね、ゼノ」
「うん。いってらっしゃい。またね」

 俺の言葉に、カナタは静かに笑った。
 笑ったけれど、でも、いつもなら返ってくる「またね」がなくて、それで俺は気がついた。

 ああ、そういうことか、って。

 俺たちは何も言わなかった。笑い合って、それから俺はポケットから小さな機械を取り出してカナタに放り投げた。

「あげる」
「っと。なにこれ。……あ」

 起動スイッチを押したカナタの手元で、それは形を変えた。ぱたぱたと傘が開いて浮き上がる。カナタの頭の上に。

「持たない日傘だ」
「そ」

 カナタは笑って、もう一度スイッチを押した。収納されたそれをポケットにねじ込む。

「ありがたく貰う!」
「ん」

 俺たちの、口にはしない大切な約束。持たない日傘に込められた、それを覚えているよ、の意図は、ちゃんと通じたらしい。
 だから、俺はカナタを正面から見つめた。

 大切な親友へ、ありったけの優しさを込めて。

「――いってらっしゃい、カナタ」
「いってきます、ゼノ」

 いとしいこ。
 喉の奥でその歌を押しつぶす。
 それを歌うのは、もう少し先であれば良いな、と思いながら。
 でもわりと、遠くなさそうだなと思いながら。


 そしてきっとそれを、俺は、俺の故郷があった宇宙を見送ったときに、もう一度、歌うんだ。

 ――いとしいこ、と。
惑い人



「フェリクスはさぁ、これから何するの?」
「何って、陛下の意向に従って、後始末をやってる最中だけど。今まさに」
「いやいや、そうじゃなくて」

 ミランは顔の前で大げさに手を振ったあと、空中の四角い何かを切り出して、「それは、それ」と横に置いた。

「仕事以外の膨大なフリータイムをどうやって生きるのさって話。この件が終わったら次はどうするの? ず~っとこの星に住むつもり?」

 鼻と耳を真っ赤にしたミランがばさばさとコートの雪を払う。捲り上げたコートに寒風が吹き込んだのか、ぶるりと身震いをしたあと、くしゅん、と小さくくしゃみをした。


 ここは、永い冬に閉ざされた星だ。
 令梟から持ち込まれたサクリアが引き起こす異常気象。当初はそう思われていたが、大量の星の転移による軌道の変化、地軸変動の前触れ、もしくは星の寿命――それらが幾重にも絡み合っている可能性が高い。研究院の報告書は「処置には慎重な判断を要する」という文言で結ばれていた。
 そうとなれば「我々」の出番だとラボからの要請を受けて、この星で暮らし始めた。暦の上では三回目の冬を迎える。

「極寒の星。君の故郷に似ているかもね。頼めるかな? 長丁場になるかもしれないが」
「問題ないよ。任せて」

 神鳥に来て以来、色々な星を渡り歩いてきた。一人暮らしも、もうお手の物だ。

「存外、君が一番ふらふらしてるね」と、ふらふらさせている元凶が、目尻に皺を寄せる。
「まるで、惑星だ」

 惑い星。誉めてるのか、貶してるのか。真意を測りかねて黙っていると、彼は骨ばったひとさし指で、テーブルに大きく放物線を描いた。

「賞賛だよ。傍からは彷徨っているように見えるけど、自分の軌道……とどのつまり、何らかの信念を持って、進んでいるだろう、君は」

 滑らかに泳いだ指が始点に戻り、緩やかな楕円を結ぶ。それから、全てを見透かしたような濃紫の瞳が僕を掠めた。意味ありげな視線につられて後ろを振り返ると、彼が眺めているのは壁に飾られた僕の絵だった。その土地固有の鉱石や植物から作られた顔料を使ったくらいしか特徴がない、ごく普通の(と自分では思っている)風景画が七枚ほど。アンジュが気に入ってくれたので、拠点を移す度に報告書と共に送っていたものだ。
 訪れた星の順に並べられた小さなキャンバスは、たしかに惑星の旅路に見えなくもない。

「お気に召さない?」
「いや……母は……。彼女は、まっすぐに、自分の道を往く人だった。だから」

 だから、僕自身もそう在りたいと思っている。その言葉は、差し出されたコーヒーと共に飲み下してしまったけれど。目の前の男は、やっぱり全てを見透かしたような胡散臭い笑みを浮かべて、満足げに頷いた。


「銀河中フラフラしちゃって。ショーライのこと、ちゃんと考えてる?」
「ミランにだけは言われたくないセリフ」
「え~失礼しちゃう。ミラン君はちゃんと立派に大人気アイドルやってますぅ」

 唇を尖らせたミランが、雪の上で軽くステップを踏む。ターンと共に粉雪が舞い上がり、陽の光を反射して輝いた。
 降り注ぐ無数の煌めきはサクリアに似ている。光に彩られたミランの姿はあの頃と少しも変わらなかった。難なく振り上げた足の高さも、ターンのキレも、広げた腕のしなやかさも、全く衰えが見えない。サクリアの加護が残っているとはいえ、どれだけの鍛錬で全盛期の肉体を維持しているのか。小さいころから彼を見ていたから、それは容易に察せられる。

「ま、この前電撃引退しちゃったけど」
「……ここに来るために?」

 経歴不明・年齢不詳の天才アイドルは彗星のごとく突然現れる。デビュー直後から引退まで、人気・実力ともに絶頂のまま。引退後は二度と姿を現さない。時代が一巡して人の記憶からその姿が消えた頃、またどこかの星で表舞台に舞い降りる。

「違うよ~。あの星の人類は寿命が短いから、元々長居するつもりはなかったんだ。でも、あそこの音楽は好きだったから百年後くらいにまた行くかも!」

 まるで三日後の散歩ついでに顔を出す、くらいの口ぶりで、ミランはまた踊り始めた。

「同じ場所に戻る気なんて無いだろ」
「え~? 何を根拠に?」
「……だってミランだし」

 根拠なんてない。なんとなく、僕の知っているミランならそうってだけだ。風に舞い踊る花びらのように軽やかなステップで、振り返ることなく、祝福を撒き散らして去っていくのだろう。
 踊るミランを無視して踵を返すと、ばしゃばしゃと忙しない水音が追いかけてくる。隣に並んだブーツには、融雪剤と泥が混じった雪解け水で黒い染みが出来ていた。

「気候変動で困ってるかと思ってたのに、結構余裕そうじゃない? ここの人たち」

 極寒の地と意気込んでいたらしいミランは、除雪された街並みを見て拍子抜けしたようだ。

「だから難しい。長期的な影響を考えたら、僕らのサクリアを何とかしたほうがいい。けど、環境変化が緩やかだったせいか、大きな問題が起きていないから」

 元々ごく短い夏季がある程度の星だった。気候に左右されずに食糧を確保する技術は発展していたから、深刻な被害は出ていない。苛烈な自然環境の中で生きてきたこの星の人々は、基本的に善良で、穏やかな人間が多かった。彼らは雪を特別楽しむでも厭うでもなく、当たり前にそこにあるものと受け入れている。

「あ~悪いなりに安定してるところで、一気にサクリアを回収すると急激な変化が起きちゃうかも……って?」
「研究院はそう判断した。だから、時間をかけて少しずつ歪みを解いているんだ」
「このままの方が良かった~なんて、言われたりし、てっ」

 一際大きな水音が弾けた。ミランが試すように僕を覗き込む。

「かもね」

 長く続いた冬が終わる。雪が溶けたら春になる、なんて絵空事だ。雪が解けたら雪が隠していたものが出てくる。綺麗なものも、汚いものも。今までの星でもそうだった。夢のような奇跡なんて起きない。

「ふぅん。まぁ何年かかるかもわからないし、今から心配したって仕方ないか」
「そういうこと。でも、ミランが手伝ってくれるならちょっと早くなるかもね。緑のサクリアの影響もかなり強いみたいだから」

 へ~そうなんだ、とミランが適当に相槌を打った。どうせロレンツォやタイラーのレポートを何も読まずにノリと勢いで来たんだろう。

「僕はしばらくここにいるけど、ミランは適当なところで離脱していいからね。……こっちの席、座って」

 コミューンのドアを開いて、助手席を指し示す。後部座席に手持ちのカバンを放り投げてから、ミランが振り向いた。

「フェリクスはネージュに戻らなくていいの? せっかく神鳥(こっち)に持ってこられたのに」
「一度くらいは行こうとは思っているけど。今は、いいんだ」
「なんで?」
「今更、縋るような郷愁もないし――あの星はずっと、美しいから」

 座席に滑り込んだミランは「そっか」と答えたきり、珍しく口と目を閉じて、大人しくシートに体を預けた。
 
 自動運転のコミューンは街の中心部を通り過ぎて、郊外の一軒家の前で停止した。広大な森のなかにぽつんと佇む白い家が、僕の住み処だ。
 船を漕いでいたミランの肩を揺すり、降りるように促す。
 除雪システムの入っていない私有地の道は、深夜から朝まで降っていた雨で雪が緩やかに溶けて、古い雪の上に透明な層を作っている。

「雪の上を歩くときは……」

 コツを伝えようと後ろを振り向く。ミランは慣れた様子で、僕の足跡を上から踏み締めるように歩いていた。視線に気付いて、得意げに鼻を鳴らした。

「二個前にいたとこ、雪が結構降るとこだったから。でもこのブーツは失敗。靴下までべちゃべちゃ」

 玄関のタイルの上で足踏みをして、ぐじゅ、ぐぽ、と空気と水が混ざる音をリズミカルに奏でて見せる。

「靴、早く脱がないと凍傷になるよ」
「それは、困る」

 無用の心配。そんな言葉が一瞬頭をよぎったが、ミランは促されるままに家の中に入って靴を脱ぎ始める。

「綺麗だけど、物、無さすぎじゃない?」

 吹き抜けのエントランスにミランの声が響く。独りで暮らすには広すぎる家に、一人分の家具だけがぽつぽつと置かれているせいで、空間の余白が強調されて見えるのだろう。先に届いていたミランの荷物が異物のようにどどんと並んでいるのも、一役買っているかもしれない。

「一人暮らしなんだから、物増やしたってしょうがないだろ」
「え~ただでさえ人気がないとこに住んでるのに、家の中もスカスカって寂しくない?」
「別に。僕は一人で居るのが性に合ってるし、静かに暮らせればそれでいい」
「それって一人が好きなんじゃなくて、人間が嫌いってだけじゃない? まあフェリクスはそういうとこあったよね」

 ミランが失礼なことを言いながら、地べたに外套を脱ぎ捨てた。寸でのところで掴み上げ、代わりにタオルを投げつける。

「服を脱ぎ捨てる癖、いい加減直せよ」
「はは、ありがと。変わらないね、君は。安心するよ」

 小さな呟きと共に、今度は濡れたブーツと靴下が転がった。だから、と文句を言おうと開いた口を噤む。その素足に、いくつかの絆創膏が張られているのを見てしまったから。
 そうか。ミランは、もう――。
 先の言葉を思い浮かべようとして、ぞくりと背筋が凍った。妙に手が震えるのを冷え切った部屋のせいにして、暖炉に薪と種火を放り込む。八つ当たりのように投げつけた薪が、軽い音を立てて割れた。

「そうだ、アトリエあるんでしょ? あの、スノードームみたいなとこ?」

 当の本人は、物珍し気に暖炉の周りをうろついていたが、すぐに飽きたらしい。ひらめいたように辺りを見回して、そのままパタパタとスリッパを鳴らして廊下に消えた。手当たり次第にドアを開いては閉じる音が響く。

「ガラスの覗き窓の扉!」

 後ろから追いかけながら声をかけると、「それっぽいから最後にしようと思ってたのに」と負け惜しみが返ってくる。

「ユエなら一番にその扉を開ける」
「ドアノブがオレに握られたがってた、とか言ってね。あれ本当に意味がわからなくて怖かった……って、うわぁ、良いじゃん」

 アトリエの扉を開けて、ミランが感嘆のため息をついた。

「なんか僕の部屋っぽくない? 飛空都市の」
「そうかもね。元々は温室だから」

 半球状のガラス張りの天井にはヒーターが張り巡らされていて見た目よりは暖かい。天気の移り変わりで色の見え方が変わるとかインクが劣化するとか、そういうこだわりもないので、改装せずにそのまま使っている。前の家主が育てていた植物も残っているから、ミランにとっては懐かしい雰囲気なのかもしれない。
 ミランは壁に立てかけただけの絵を一枚一枚眺めてから、最後にイーゼルに載っている塗りかけの絵の前に立った。評論家のように腕を組み、精一杯難しそうな顔を作る。

「うん。相変わらずどういうインスピレーションで描いてるのか全然わかんない――けど、これ、青が綺麗で好きだな。海の底にも光が射すんだね」

 それは夜空に一筋見えた流星だと指摘すると、ミランは体をくねらせてもっと難しそうな顔をした。

「受け取る印象は見た人の自由だから。その青、ここで採れる宝石を使った絵の具なんだ」
「宝石? 勿体なくない? 普通の絵の具じゃダメ?」
「化学的に作られた絵の具も便利だけど、僕は鉱石や貝、植物から作る色が好きかな」

戸棚の引き出しからガラス瓶を取り出して、作業台の上に並べていく。

「動物も植物も、一億年経てば石油や宝石になるんだって」
「じゃあ、僕らも死んだら、綺麗な絵の具になれるかもしれないんだ。いきものとして死ねれば、だけど」

 僕たちの「終わり」がどんなものになるのか。それはまだ、誰にもわからない。神鳥の女王陛下が仰るには、同じような例はほぼ無いそうだ。サイラス達に定期的に生体データを送っているから、そのうち「貴方はそろそろ死にます」なんて教えてくれるかもしれないけれど。

「そうだね。動物の血を使った、真っ青な絵の具もあるし」
「え~血はちょっと嫌かも……あ、僕は絵の具より、星の砂になりたい。プラチナコーストで貰ったんだ」

 丁度こんな瓶に入ってた、とガラス瓶を持ち上げて軽く振ると、新緑色の粉末がさらさらと揺れる。

「それは隕石から見つかった鉱物を使ってて……若葉みたいな色だろ? ミランらしい色だなと思って、最近買ったんだ」
 流星緑(ミーティアグリーン)。名前からしてミランにぴったりだと思ったから。

「じゃあさ、この絵の具で僕を描いて! 芽吹きたての命の色で」

 自分の顔の横に持ち上げて、ミランがにんまりと笑う。絵の具と同じ、新緑色の瞳がボトルに映って弧を描いた。

「いつかね」
「いつかって、いつ?」

 ミランが珍しく食い下がる。僕が人間を描かないって知ってるくせに。

「そうだな……雪が溶けて、こんな風に明るい緑が沢山出てきたら、かな」
「へえ? じゃあ春が来るまで、この星で頑張っちゃお」

 ミランが足を高く上げて、スリッパを脱ぎ捨てた。自らを抱きしめるような姿勢でうずくまって、それから、長く細い息を吐いて、静止した。つられて僕まで息を止めてしまう。
 ぱっと顔を上げて天を仰いだ瞬間、天窓から光が降り注いだ。若草色の瞳が、雪の下から芽吹いた若葉のように瑞々しく潤っていた。肩に掛けたままだったタオルをふわりと浮かせて、それよりも軽やかにミランが大きく跳躍する。花の香りが広がって、寒々しいアトリエが春で満たされた。

(ミランが居れば、春なんてすぐに来るかもしれないな)

 春の化身のような男と、その踊りに中てられて楽観的な考えが頭をよぎった。だめだ。雰囲気に絆されてはいけない。

「ミラン、ストップ。とりあえず荷ほどきしようよ。夕飯までに終わらせたい」
「え~せっかくノってきたとこだったのに」
「だからだよ。放っておくといつまでも踊り続けるだろ。ほら、片付けて。自分のスペース以外に物置いたら容赦なく捨てるから」
  

 春の訪れも夏の終わりも感じないまま、季節が巡っていく。
 僕にとっては四回目の冬。今年は暖冬になるらしいですね、と薪を運んできた男が言う。

「ミランさんは暑い土地のご出身でしたっけ。この前のダンスもそこの?」
「うん、砂漠の星に伝わる伝統舞踊だよ。でも故郷を離れたのは子供のころだから、アレンジ入っちゃって原型留めてないかも」
「そうなんですか。いやぁ、あんな凄いダンスを見たのは初めてで、感動しちゃって……」

 最初は雪を見てるとインスピレーションが湧くとか、静謐な砂漠の夜を思い出す静けさだ、とか言っていたくせに、半年も経たずに雪ばっかりで退屈!とミランが音を上げた。気分転換になればと、郊外の人工温室に連れて行ったら「自分でもびっくりするほどテンションが上がっちゃって、思わず」踊りだしたおかげで、ミランはちょっとした有名人になってしまった。
 彼らの世間話を背中で聞きながら、王立研究院から示されたレポートを眺める。
 サクリアが干渉し合って発生する波長に、僅かに変化が見られた。だが、気候に影響を及ぼすほどではないらしい。つまり、この暖冬はただの偶然ということだ。

「さすがにちょっと、気が滅入るよね~」

 男を見送ったミランが、ディスプレイを覗き込んでため息を吐いた。両手にはマグカップを持っていて、どうやら中身を入れすぎたらしい。運び方が慎重だ。

「そりゃあ、数年やそこらで何とかなるとは思ってなかったけど」

 そっと置かれたマグカップの中身は、意外にもコーヒーだった。この前ラボから送られてきた荷物に入っていたものだろう。ロレンツォが焙煎した豆らしいが、酸味が少なくて僕の好みに合っている。ついでにミランの淹れ方も悪くない。

「ありがとう。もう少し、目に見える変化があるといいのにな」

 絡まって澱んだサクリアを解いて吸い取るだけでなく、相殺するようにぶつけてみたり、逆に押し込んでみたり。色々試しているけれど、手応えを感じる方法はまだ見つけられていない。

「あのね……膠着状態なところ申し訳ないんだけど」
「どこか、呼ばれた?」
「そんなに遠いとこじゃないんだけど。最近周りが煩くなってきたから、ほとぼりを冷ますのもいいかなって」

 ミランは、なぜかこの星ではアイドル活動をする気は無いらしく、あれ以来人前で踊るのは我慢している。こっちの仕事と両立出来る程度なら好きにすればいいのに、と僕は思うけど、本人が気乗りしないことをわざわざ薦めるのも違う気がするので黙っていた。

「フェリクスも一緒に行かない? 気晴らしになると思うよ」
「僕はいい。ユエが送ってきたレポートで、試したいことがいくつかあるし」
「じゃあ、多分半年くらいで帰ってくるから! ぜっっったい捨てないでよね、僕の荷物!」

 ミランが住み着いて丸一年が経っている。スカスカで寂しいと言われたこの家は、発言主のせいで物が溢れて賑やかだ。そういう家に一人で暮らす方がよほど寂しい。その感覚は、きっとミランにはわからない。

 
 結局、ミランが戻ってきたのは一年後だった。
 それからも時々どこかの星に呼ばれるようになった。「一緒に行こうよ」と毎回誘われるけれど、断った。僕自身、別の場所に派遣されることもあったし、長年付き合った甲斐があってか、ようやくこの星のサクリアが微かに変容しはじめた。ようやく掴めるようになったその感覚を鈍らせたくはない。

「え~でもさぁ……まぁいっか」

 今、何か言おうとしたのに諦めたな、と気付いたが、追及はしなかった。
 ミランはどうでもよくない事ほど「まぁいいや」としまいこむ。僕は何が「まぁいい」かはわからなくても、何かを飲み込んだことはわかる。だから「言いたいことがあるならはっきり言えよ」と言いたくなるけど、結局、僕も「まぁいいか」としまいこむ。お互いが「まぁいい」で済ませられずに本当に喧嘩になった時、どうやって収拾を付ければいいのかわからないからだ。
 多分、ミランもそれをわかっている。だから、僕らは千年経っても、予定調和の喧嘩しか出来ない。


 ミランがどこかから帰って来るたび、物が増えていく。各地の名産品、出演した映画や歌が収録されたメディア、「作ってもらった」という踊る人形のオルゴール。
 その人形がミランを模したものであることはすぐに判った。風を孕んで膨らむ衣装は、細部まで入念に装飾が施され、鮮やかに透き通る若葉色の瞳は宝石で表現されている。精緻なカッティングが光を巧みに反射して、波立つ水面のようにきらきらと揺らめいた。柔らかな輪郭で描かれた目鼻立ちはミランの中性的な面差しをよく捉えていて、あどけない少女にも、美しい青年にも思える不思議な雰囲気を纏っている。

「どうしたの、これ」

 ただの民芸品にしては出来が良すぎる。真っ白な陶器の頬やくちびるには程よく紅がさされていて、伸びやかなポージングとあいまって血の通った人間のようにすら思えた。
 そう訊ねると、ミランは「話すと長くなるから」と言ってゼンマイを巻き始めた。

「これはフェリクスにあげる。人恋しくなったら鳴らすといいよ。きっと気に入るから」

 僕が口を挟む間もなく、ミランはその場で踊り出した。曲が途切れて、人形が動かなくなっても、ミランは舞を止めない。

 ――彗星だ。

 僕はじっとミランを見ていた。雪に眠る静かな夜を切り裂く、星の旅人を。燦然と輝くその躰で、綺麗に降り積もらせた真っ白な雪を蹴散らして、隠していた本音をぐちゃぐちゃの土から掘り返して眩い光に晒してみせる。
 嫌だ。平静に振る舞っていた自分がかき乱される。もう、やめてくれ!と今にも叫んで逃げ出したい。それなのに、足も、手も、動かない。目を逸らせない。瞬きすらも許されず、僕はミランをただ見つめていた。
 思えば、ミランが初めてここに来た日。あの日以来、豊潤な春の甘い香りが、体に纏わりついて離れない。


 ミランがいない時は、そのオルゴールを隣に置いて絵を描くのが日課になった。
 ある日、ふと思い立ってオルゴールの後ろに絵を置いてやった。雪深い森、夕暮れの湖、流氷の海、朝焼けに燃える山。人形の造形が良いから、どの背景でもちゃんと「絵になる」けれど。
 聖地の花畑の絵を添えてやると、普段よりも足早に響くメロディーと共に、人形がくるくると廻りだした。ゼンマイを巻いてなんかいないのに。このまま風に乗ってどこかに飛んでいってしまいそうな気さえする、喜びに満ちた踊りを、僕は呆然と眺めていた。
 ようやく、旋律が止んだ。余韻を惜しむ様に、少し遅れて人形がゆっくりと回転を止めた。

「……静かだな」

 椅子の背に体を預けて、ぼんやりと寄りかかってアトリエを見廻した。絵の具、筆、描きかけのキャンバス、乱雑に積み重ねられたスケッチブック。ここに住み始めたころよりも、物は増えている。それなのに、空っぽだと思ってしまう。
 ふと、窓辺に春が見えた。

「咲いてる? この気候で、花を付けるはずないのに」

 淡い薄紅色の小さな花が誇らしげに咲いている。せっかく温室があるなら、とアンジュが贈ってくれた種だ。いつか、冬を解くことが出来たら、その証に咲くだろうと思っていた。香りに吸い寄せられるように近付いて、そっと花びらをなぞる。懐かしいサクリアの気配がした。

「あぁ……やっぱり、ミランには春が似合う」

 笑ったつもりだったが、自分の口から零れたのはため息だった。吐いた息で視界が白く濁る。寒さで肺がずきずき痛む。こんな凍てつく空気の中に、春がぽつんと佇んでいるなんて。
 あのたんぽぽの綿毛みたいな男が飛んでいくなら、その行き先は、こんな雪で塞がれたガラスの天井(スノードーム)よりも、底抜けに明るい蒼天であるべきだ。その方がずっと、美しいから。

  
 一人に戻って、二人になって、たまに二人ともいなくなった後、一人に戻った。そうしているうちに、十年が過ぎた。
 十年ごとに拠点を移すつもりだったが、研究院の人間以外とろくな人付き合いをしなかったのが功を奏して、不老を訝しがるような相手もいない。だから、まだしばらくここに住み続けるつもり――と私信を添える。「人付き合いは大事って言ったじゃん!」そんなお叱りが聞こえてきそうだ。

「引っ越し、めんどくさいもんね。荷物沢山あるし」
「誰のせいだよ」
「フェリクスだって、絵、いっぱい溜めこんでるじゃん。しかも似たようなのばっか、沢山」
「僕が何を描くかは自由だろ。っていうか、ミランが僕の絵に興味があったなんて知らなかったけど」

 突き放すような言い方になったのは、なんだか責められている気がしたからだ。
 八つ当たりを誤魔化すように着色済みの絵をいくつか持ってきて「アンジュに送るから、選んで」とミランに押し付けた。
 しばらくの間、床に並べた絵を熱心に(そして珍しく、静かに)見比べていたミランが、思いついたように立ちあがった。

「あのさ。僕を描いてよ」

 今突然思いつきました、みたいな仕草で言ったくせに、声色には焦りが滲んでいる。暖炉の炎を映した瞳は不安げに揺れて、目線がうまく合わない。
 ああ、やっぱり、と思った。感情を抑えてなるべく平坦な声色で「いいよ」と返事をすると、ミランは苦虫を噛み潰したような顔で僕を一瞥した後、入念にストレッチを始めた。
 足の間に埋まった頭の下から、「ここの暮らしも気に入ってたんだ」と言い訳のような呻きが零れた。

「ほんとだよ? ずっと冬で退屈、とか文句も言ったけど。本当なんだ。信じてよ」

 アトリエにスケッチブックを取りに行くために立ちあがった僕に、ミランが言った。子供がするような言い訳に、「わかってるよ」と短く答えて、暖気が逃げないように一度ドアを閉める。

 ――お母さん、僕は大丈夫だから。本当だよ。
 母の舞台当日に限って、僕はよく熱を出した。
 足手まといになりたくなくて、でも、舞台に集中している母の心の中に少しだけ、自分の居場所が欲しくて。ベッドの中から、わざとしおらしいことを言って見送る健気な息子に、母は笑ってるけど困ってる、みたいな顔をして手を振った。
 きっと、さっきの自分はあの時の母と同じ顔をしていた。

「本当に、僕は変わってないんだな。昔から」

 アトリエの棚をひっくり返して、一番古いスケッチブックを取り出した。埃を払って、ぱらぱらとページを捲る。懐かしい絵を見つけて、思わず口元が緩んだ。

「ミランはさ、大勢の人に囲まれて踊ってるのが良いよ」

 そう言いながらスケッチブックと鉛筆だけを持ってきた僕を、ミランが怪訝そうに見上げた。まずは下書きだと言うと、拍子抜けしたようにまたべたりと上半身を床に伏せた。

「人を楽しませるの、楽しいだろ。ミランの天職は守護聖だと思ってたけど、アイドルも向いてるよ。本質は似てるんだろうな」

 スケッチブックの表紙をめくる。最初のページは、この星での最初のスケッチ。鉛筆だけを使って描いた、寒々しい冬の空。

「そうやって暮らしてるうちに、一緒にいたいと思える相手が出来るかもしれないよ」

 二枚目。多分、どこかのレストランの待ち時間に描いた、ラフスケッチ。家族連れが楽しそうに食事をしている、ありふれた風景。生憎、僕は経験したことがないけれど。

「そしたらこの仕事を休んで、その人と故郷に――リコに戻ったっていいんだし」

 ずっと一緒、は難しいだろうけど。普通の人の人生は、僕らからしたらほんのわずかな時間だ。同じ姿形をしているのに時間の価値が違う。そんな異物に恐怖を抱かない人間なんていないだろう。
 結局、人恋しければ同類と群れて暮らすしかない。ユエとノアが神鳥の宮殿に身を寄せて、カナタがシュリやレイナと一緒にいたのもそういうことだ。

「……ねえ。フェリクスは、アンジュのこと好きだった?」

 床に伏せたままのミランの表情は判らない。
 答えようとして、一度口を閉じた。喉の奥のあたりがチリチリと痛む。誤魔化すようにスケッチブックに視線を落とす。僕の心を体現したのか、やたらと波打っているページがあった。絵の具の試し塗りが、あの日、雨上がりの飛空都市で見上げた虹みたいに綺麗だ。

「うん。好き、だったよ。あの時はわからなかったけど」

 遅すぎた、とは思っていない。けれど「もしも」を考えると胸のあたりがずきりとする程度には想っていた。人の営みから外れた僕が、数々の戯曲で謳われてきた「恋」という感情を知った。胸に広がる甘い痛みはその代償なんだろう。

「そう」

 僕の吐き出した長いため息と、抑揚のない相槌が重なった。

「ミランは?」
「教えない」

 傷だらけの足を隠すように、ミランがぎゅっと膝を抱えた。

「あっそ。じゃあ、これは独り言」

 更にページを捲る。三枚目は、吹き抜けの階段と暖炉。同じアングルになるように椅子を動かして座りなおした。物が多くて、同じ空間だとは思えない。なにより、今は暖炉の前の特等席にミランが居る。

「ミランはこの家を見て、綺麗だけど何もないって言っただろ。それは僕のことだって思ったんだ。僕は、たまたまサクリアが多く宿っただけで、特別な力は持ってないから」

 四枚目。アトリエに置いた植木鉢に、咲くはずのない花が咲いた。ミランは、そういう特別な力を持っている。枯れる前に摘み取って栞にした。その色を忘れないように、花びらにだけ水彩で色を乗せた。

「僕には何もない。守護聖じゃない僕に何ができる? だから神鳥に来て、何者でもなくなる自分に焦ってた。ネージュに帰らないのかって、皆に言われたけど、自分を……守護聖を信仰する人達に混ざって暮らすのは、違うと思ったんだ」

 挟まっていた栞を取って、花にそっと触れる。アンジュがくれた、淡い薄紅色の小さな花。

「ろくな力も無いのに、昔みたいに、また勘違いしたらかっこ悪いだろ」

『フェリクスって、一人で何でもできるって思い上がってるよね』
 今でも思い出せる。『ほんと失礼だったよね、私。ろくにフェリクスのこと知らなかったのにいきなり本当のこと言って』と、更に失礼な追い打ちもセットで。

「実をいうと、令梟のサクリアが上手く調和しなかったことは、僕にとっては都合がよかった。不謹慎だけど、『元守護聖』としての役割が出来たからね。率先して色んな星に行って、結構な失敗もしたけど……そのうち、「何者でもない」のも悪くないって思えるようになったんだ」

 スケッチブックの真ん中あたりは、ろくでもないページが続いている。あの花が咲いた後、心が乱されて、何も描きたくなかった。乱雑に消したり、ページを破ったり、塗りつぶしたり。何もない、真っ白のページも少しあった。

「真っ白なキャンバスには、何を描いてもいいし、描かなくたっていい。自由なんだ」

 荒れっぷりに少し恥ずかしくなって、一度スケッチブックを閉じた。まともなページを探して開くと、ミランが気に入ったと言っていた、彗星の絵の下書きが出てきた。水彩でざっくり色を塗ってある。海の底だと言われたのは、なんだか嬉しかった。宇宙に繋がる空は深海に、海底に射す光は気まぐれに天を渡る箒星(ほうきぼし)にもなれる。
 
 暖炉の炎が一際大きく爆ぜた。ミランの目が、続きを催促する様にじっと僕を見上げている。

「ごめん、長くなったな。要するに、僕は僕なりにここで楽しくやってるってこと。ミランからしたら、変化のない退屈な日常かもしれないけどね。だからミランも、遠慮しないでアイドルに戻って、いや、別に戻らなくてもいい。とにかく、ミランらしく生きたいように」
「……勝手なこと言わないでよ!」
「なんだよ、急に」

 ミランが僕の胸倉を掴んだ。机にぶつかって、スケッチブックと鉛筆が床に落ちる。何するんだよ、と手首を掴み返したところで、ようやく、長い睫毛の奥の大きな瞳が涙を湛えているのに気が付いた。

「別にっ僕だってねえ! ここで楽しくやってたの!」
 ――ああ。溢れる。
「ミランらしくとか、自由にだとか……僕のこと勝手に決めないで!」

 潤んだ瞳に映っていた自分がぐにゃりと歪んで、それからすぐに、形を失って流れ落ちた。

「フェリクスは、僕を彗星って言った。彗星って、旅人でしょ? 旅人は、帰る場所があるから旅に出られるんだ。僕はここがそうだと思ってたよ。僕だって、ここで自由だった。フェリクスの作る料理は結構好きだし、まあちょっと口煩くて結構神経質だし、掃除しろとか片付けろとかやかましいけど、僕はそういうのあまり気にしないし。それに、僕が踊っても歌っても『ミラン様』なんて言わずに放っておいてくれるから」

 一息に捲し立てた後、ミランは僕の手を振り払ってぼろぼろと零れる雫を袖口で荒っぽく拭った。それでも涙はとめどなく溢れて、しまいには肩を震わせて泣きじゃくり始めた。
 あの、肝心なことほど言わないミランが、感情をむき出しにしている。本気で怒って、子供のように泣いている。
 どうすればいい? 何を言えばいい?
 わからなかった。ミランは守護聖になる前から、とっくに、当たり前に「神様」で、神様「じゃない」ミランも、神様で「ありたくない」ミランも、僕は想像したことがなかったし――こんな喧嘩、初めてだったから。

「……僕らしい僕でいるのって、全然、簡単じゃなかった」

 絞り出すような声だった。
 そうか。ミランも悩んで、苦しんでいたんだ。ミランだって、普通の人間だったんだ。

 ――僕と、同じで。

 当たり前のことに今更気付くなんて。ああ、僕はいつも――遅すぎる。
 窓から身を乗り出して、積もったばかりの雪を掴んだ。両手で握り固めてからタオルにくるんで、赤く擦れて痛々しい目元に当ててやる。

「決めつけたつもりは無かったんだ。ごめん。でもね」

 床に落ちたスケッチブックを拾い上げて、一番後ろのページを開いて見せた。人形が踊るオルゴール。はじっこに殴り書きがある。『人形になってもうるさい』 

「ひどくない?」
「ゼンマイを巻いてないのに、好き勝手に踊り始めたんだよ。全然止まらないし」
「まさかぁ……いや、ありえるかも」

 はは、と気の抜けた笑い声と一緒にぽたりと水滴が落ちて、その文字は滲んで読めなくなった。

「その時、思ったんだ。ミランはいつも、面倒なしがらみとか、役割とか――あらゆる重力から解放されて、軽やかに飛ぶんだ。皆の視線を集めて、さらに輝きを増して……そんな」

 お土産だと渡されたコンサートの映像を観た。歌い、踊るミランの動きに合わせて、サインライトの光が大きくうねる。星の海を自由に泳ぐ魚みたいで、美しいと思った。

「そんな、彗星みたいなミランが僕は好きなんだよ。昔からずっとね」

 ミランの手をぎゅっと握って、祈るように目を閉じた。本当は、笑いたかった。でも、笑うと、僕まで泣いてしまいそうだったから。

「……だから、いっておいでよ。僕はここにいるから」
「でも、僕は、変わったよ。変わっちゃったよ。怪我がすぐ治らない。今だって目の周りがめちゃめちゃ腫れぼったくなってヒリヒリしてる。もう最悪。風邪も普通にひくし、徹夜したら三日くらい調子が悪いし。すごく……すごく、人間になっちゃった。きっとこれから、見た目だってどんどん変わってく」
「だからって、僕とミランの関係は変わらないよ。幼馴染みで、同期で、腐れ縁で――こんな、取っ組み合いの喧嘩が出来る、友達なんだ。今更何万光年離れても、千年会わなくたって、大丈夫。おじいちゃんになっても、すぐにミランだってわかるから」
「千年もここにいるつもり? せいぜいあと百年くらいでしょ」

 昨日送られてきた研究院の推測と概ね一致している。割と的確な見立てだと伝えると、ミランが得意げに笑って、床に落ちた鉛筆を僕に放り投げた。

「次来た時、居なかったら怒るからね」
「それはこっちのセリフ。来るのが遅かったら気の向くままにフラフラ旅をしてるかも」
「えぇ~。ま、いっか。生きてれば、宇宙の果てでも、いつか会えるし。おじいちゃんになったフェリクスをネージュに連れてってあげるのもアリかも」
「だったら、ついでにリコにも案内してもらおうかな」
「……いいね。宇宙旅行、しようよ」

 すらりと居住まいを正したミランが、タタン、と足で床を鳴らした。両の腕が、宇宙を大きく揺蕩った。星をかき抱いて、愛おしげに指先で撫でる。軽やかなジャンプで別れを告げて、次の星へ。無重力と錯覚するような音のない着地。
 今、僕は宇宙の真ん中でミランを見ている。呼吸も、瞬きも忘れて。感情が涙になって溢れる。鉛筆を持つ手が止まる。

「描かないの、フェリクス」
「目に焼き付けるから。大丈夫」
「ふぅん。じゃあ、泣いてちゃダメだからね」

 オルゴールの旋律が加わると、ミランの動きが殊更軽快になった。銀河を巡る壮大な旅が始まる。その体は幻想的な煌めきを纏って、残像は淡く輝く光の尾を描いた。
 もう、惑星の――僕のちっぽけな引力は、ミランを捉えることはできない。

「あの絵の具、使ってよね。春の、命の色」

 わかってるよ、と上手く言葉に出来たのかはわからなかった。

 * 
 
 ミランを冬に閉じ込めたくなかった。こんな、肺が凍るようなところじゃ駄目なんだ。暖かな春の陽気の中で朗らかに笑って、踊っていてほしかった。
 ……わかってる。僕の、エゴだ。

「それも、一種の愛だと私は思うよ」

 愛? これが? 勝手な理想を押し付けて、自分から手を放しておいて?

「睦み合うだけが愛ではないよ。まぁ、上手な愛し方とは言い難いが……君は、昔から不器用だった」

 データを整理する手を止めて、ロレンツォが片方だけ眉を吊り上げた。

「何? 私が愛を語るのは可笑しい?」

 どこか人を食ったような口調と裏腹に、その表情は殊更に優しい。

「違うよ。やっぱり、僕は母の子だったな、と思っただけ」

 *

「やっほーフェリクス。約束通り来たよ」

 家主の返事はなかった。生体認証システムは生きていて、門の前に立つミランの虹彩と声紋を瞬時に読み取り、音もなく扉が開いた。
 すっかり雪が解けた庭を悠々と歩き、家に入る。相変わらず物が少なくがらんとしたエントランスは、少し埃っぽい気がした。すん、と鼻を利かせても生活の匂いがしない。

「いないの、フェリクス?」

 ほんとに旅に出ちゃったのかな。でも、僕の部屋は散らかったままだし。ていうか帰ってくるの何年ぶりだっけ? 逃した季節を数えようとして、ミランはすぐに諦めた。

「まあ、一番それっぽいところは最後に行くんだよね、僕は」

 家中をふらふらと検分したあと、アトリエの扉に手をかけた。無意識の祈りのせいか、ミランにしては丁寧な、ゆっくりとした動作だった。
 自然光の差し込むアトリエはその明るさに反して、耳が痛くなるほど静かで、寒い。

「痛ッ」

 裸足の足裏に、何かが刺さったような感触があった。

「ガラス……いや、砂利かな? フェリクス~駄目だよ、掃除サボっちゃ。こんな……え?」

 その砂粒は、床一面に散らばっていた。不思議と円の軌道を描いているように見えるそれを、指を押し付けるように掬いあげる。空にかざすと、光を反射してきらきらした。
 鉱石を砕いたという、あの綺麗な絵の具に似ている気がした。それと――。
 踏み出した足の先に、また、何かが触れた。羽を模した繊細な銀細工。拾い上げて、手の中に集めた光と見比べる。
 それと――フェリクスのサクリアみたいだ。

 ミランは長い時間、それを眺めていた。
『一億年経てば石油や宝石になるんだって』
 丸いガラスの天井から降り注ぐ夕陽で、アトリエの床はすっかり赤く染まっていた。それなのに、足元に広がる砂は淡い紫の光を放ち続ける。
『僕らも死んだら、綺麗な絵の具になれるかもしれないんだ。あ、僕は絵の具より、星の砂になりたい』
 握りしめた手に砂ごと指が食い込んで、薄っすらと血が滲む。
 その手を額の前で組み、フェリクスのサクリアを探した。土に、水に、大気に。あるはずの気配を感知しようと、神経を研ぎ澄ませた。
『この絵の具で僕を描いてよ、芽吹きたての命の色で』

「……ほんとに、いないんだ、フェリクス」
 あの冴え冴えとしたフェリクスのサクリアの気配はどこにも感じられない。
 どこかから、聞きなれたオルゴールの音色が響く。亡き友が作ったというあの曲。集中を乱され、ミランは咄嗟に耳を塞ぐ。眩暈がする。質の悪い白昼夢でも見ているような気分だった。

「ここで待ってるって、言ったじゃん。一億年どころか、まだ百年だって」

 自分が待たせた時間を棚に上げて、吐き捨てた。それから、アトリエ中を漁って見つけた一番きれいな空き瓶と適当な紙を使って、光の粒をかき集めた。二つ折りにした真っ白な紙の上を、細砂がさらさらと滑り落ちていく。

「……絵の具にしちゃうのは、勿体ないなぁ」

 硬く封をしたガラス瓶に向かって話しかけるが、砂粒達はきらきらと輝いてみせるばかりで、何も応えなかった。
ジェーン・ドゥに最後の祈りを




 主星のとある街の片隅。ともすれば見過ごしてしまうような薄暗く入り組んだ路地の、曲がりくねった道の先の、更にその奥の奥。人目から隠れるような場所に、その店はひっそりと存在していた。
 ただでさえ分かりにくい立地の上に、看板も、中を覗けるショウウインドウも無い。重厚で古めかしい扉が、外界からこの店を封印するかのようにそびえている。

 ――いつからあった?
 往来で捕まえた住人達にそう訊ねると、皆口を揃えて「わからない」と答える。昔からあった気もするし、つい最近、いつの間にか出来ていた気もする、と。
 ずっと昔、星が沢山降った夜に出来たんだよ。星を集める店なんだって! そう嘯く子供もいた。

 ――何を売ってる?
 いや、売っているのではなくて、買い集めているらしいよ。店主は大変な資産家で、蒐集家だって噂だ。古今東西、全宇宙の逸品珍品を集めているとか。
 そうなの? 物々交換って話だよ。
 私は「夢を買ってもらった」って聞いたけど。誰から? そうね……誰、だったかしら?

 屋号も、営業時間も不明。店主の姿すらも見た者がいなかったので、「ジョンとジェーン・ドゥの店」と、誰かが無責任な名前を付けた。
 得体の知れない彼らの店に、来訪者は絶えない。

 *******
   
 カランカラン。人を拒絶するような店構えに似つかわしくない、可愛らしい梟のドアチャイムが来客を知らせた。小さな子供を連れた女性が、不安そうに顔を覗かせる。

「やあ、いらっしゃい。お嬢さん方」

 耳の深くで鳴り響くような声に驚き、女性が思わず後退る。声の主を探して店内を見廻すと、目の前に突然、大柄な男が現れた。
 エキゾチックで彫りの深い顔立ちに、なめらかに波立つ髪。夕暮れの空を閉じ込めたかのような複雑で美しい紫の瞳が、無数のランプの光を受けて妖しく揺らめいている。薄暗い店内に佇むさまは、まるで夜を司る精霊と見紛うほどだ。
 てっきり隠居老人の道楽と思っていたけれど、こんな精悍な男性が店主だったとは。
 女性は子供の手を引くのも忘れ、しばし立ち尽くしていた。

「そんなところにいないで、こちらへどうぞ。飲み物を用意しよう。小さなレディ、コーヒーはいかが?」

 はぁい、と頷いた子供の声で女性は我に返り、ふたりは導かれるがままにカウンターの椅子に腰掛けた。
 店主は、キャビネットからサイフォンを取り出した。かなり年季の入ったものなのか、木で出来たスタンドの一部はすり減り、ガラスの部品は縁が僅かに欠けて、刻印も薄れている。大切に手入れをし、長く使い続けてきたのだろう。店主は丁寧に、しかし流れるような手つきで部品を組み立てていく。
 手早く挽いた豆をロートに入れ、フラスコに取り付けるとごぼごぼとコーヒーが沸き上がる。それを店主がくるくると攪拌すると、店いっぱいに芳醇な香りが広がった。

 マジックショウさながらのサーブに、娘はうっとりしたようなため息をこぼして言った。

「大人の匂いって感じだね」

 精一杯の背伸びに気を良くした店主は、内緒話をするように「見ててごらん」と囁いた。
 ふ、と鋭い吐息でアルコールランプの火を吹き消す。みるみるとコーヒーがロートからフラスコに落下して、娘が歓声を上げた。

「どうして? どうして!? おじさん、魔法が使えるの?」
「おじ……まぁいいけど。不思議だろう? あとで調べてみると良い。どうぞ、召し上がれ」

 たっぷりのミルクとシュガーを入れたカフェオレをとびきりのウィンクと共に渡されて、柔らかな頬が林檎のように紅潮していく。赤くなった顔をマグカップで隠した娘を面白そうに観察したあと、店主は母親にもカップを差し出した。

 
「じゃあ、御用件を伺おうか」

 来客の緊張と警戒心がほぐれたのを見計らって、店主が切り出した。そうでした、と母親が手を打って、娘を促す。
 小さな手が差し出したのは、オルゴールだった。蓋を開くと民族衣装を纏った人形がぴょこんと起き上がって、音楽にあわせてくるくると踊り出す。

「夢で言ってたの。ここで踊ったらも~っと楽しいのにな~って」
「へぇ
……いつから?」
「ここにお引っ越ししてきてから毎日だよ。前はね、えっと……別の星に住んでた時は、こんなことなかったんだけど」
「子供の言う事だし、と半信半疑だったのですが。たまたま、このお店の噂を聞いて……」

 でもまさか本当にお店があるなんてね、と母娘は顔を見合わせる。
 ちょっと失礼、と店主がオルゴールを受け取った。何か鑑定らしいことをするのかと思いきや、彼は品物を一撫でしただけで得心したように頷いた。

「ありがとう。『彼』をずっと探していたんだ」
「え? おじさんのオルゴールだったの? そっかぁ。お友達に会えてよかったね」

 少女が声を掛けると、人形が勝手に廻り出す。くるくるくるくる。そのまま空へ飛んで行ってしまいそうな勢いだ。

「相変わらず、落ち着きのない……さて。このオルゴールのお代に、何か欲しいものを選んでくれる? 勿論、相応の金銭でもいい」

 喜色を浮かべて席を立った少女が選んだのは、三枚組のポストカードだった。美しい花畑と澄み渡る湖、雨あがりの虹が照らす生き生きとした森、白銀の雪が舞い散り、ダイヤモンドのように輝く海原。
 前衛的な色使いね、と言う母親に、店主が店の一角を指し示す。飾られているのは似たような作風の絵画で、「この作家は、ずっと旅をしていてね。旅先で手に入れた絵の具を使うのがこだわりだったそうだ」と手慣れた口調で解説する。
 店主は木彫りのウサギをおまけに付けた。カードスタンドらしいよ、と言って、作者が適当に入れたであろう背中の切れ込みにポストカードを差し込んだ。
 かなり個性的な画風の絵とウサギを、楽しそうに踊る人形に見せてあげたあと、母娘は嬉しそうに店を出て行った。


「お疲れ様」

 店主は誰ともなく声を掛け、店の奥に向かった。
 いくつもの暗号を入力してキャビネットの扉を開き、飾り棚の真ん中にオルゴールを置く。傍らに添えたガラス瓶の中で、薄紫の輝きを帯びた結晶がティン、と小さく鳴った。共鳴するように、オルゴールはまた音楽を奏で始める。
 浮足立つようなワルツを聴きながら、店主は羽ペンを取り出し、さらさらと文字を綴った。
 
 ――彼は、最後まで楽しく踊っていたみたいだよ。

 ******

 ギギィ、と見た目通りの重苦しい音と共に分厚い扉が開いた。
 夢遊病のような足取りで、ふらふらと店に入ってきたのは酷くやつれた青年だった。店の奥から現れた店主を見るやいなや、助けてください!と店主に縋りつき、捲し立てるように身の上話を始めた。

「つまり、君は毎晩続く悪夢を何とかしてほしいと」

 折角のコーヒーは客に飲まれないまま、すっかり冷めきってしまった。そのことにいささか不満を覚えつつ、店主が男の長話を乱暴に要約した。めんどくさそうにパタパタと仰いでいる扇子からは、極上の香を焚きしめたかのような香りが漂う。

「どこぞの探偵事務所じゃあるまいし、ウチは便利屋稼業はやってないんだが……噂好きの御婦人方にも困ったものだね」

 すらりと長い脚を持て余すように組み替え、少しも困っていなさそうに店主が独り言ちる。

「ジョンとジェーン・ドゥなら悪夢に至るまでの諸々も含めてまるっと全て解決してくれるって街の人が言ってたんです。お願い、見捨てないで! 眠いのに、眠るのが怖いんです」

 情けない懇願を無視して、店主は店内をうろつき始める。つられて男も店をぐるりと見廻した。がさごそと店主が棚を漁っている一角に、いくつもの紙の束が雑多に積み上がっているのが見えた。あれは……本だろうか。物は多いながらも整理はされているこの店で、明らかに異彩を放っている。

「あぁ、それはね、どう並べるといいのか迷ってしまって、そのままにしてあるんだ。作者順か、タイトル順か、年代別か……フフ、確かに悩ましい」

 鷹揚な言い訳と共に店主が席に着いた。
 手にしていたのは色とりどりのキャンドルで、カウンターに並べられたそれらは、まるでシャンデリアの光を反射したカクテルのように美しい。さしずめ、この店主は高級ホテルのバーテンダーといったところか。

「アロマキャンドルですか? 綺麗だけど、気休めだなぁ」
「ぐっすり眠れるよ。もう二度と目が覚めないんじゃないかってくらいにね。ついでにこの悪霊退散ルームスプレーも付けよう」
「はぁ……」

 男は半信半疑で、謎のスプレーをシュっと空中に吹く。名前に反して、意外とフローラルで爽やかな香りだった。たしかに、これなら悪魔ではなく美女と花畑で戯れる夢が見られるかもしれない。香りを楽しみながら、大樹の形をそのまま生かしたカウンターに身を預けると、身体に寄り添うような滑らかなカーブが妙に心を落ち着ける。
 止まり木で羽を休める鳥の気持ちって、こんな感じかも……。そう言って男はカウンターを愛おし気に撫でまわした。

「さて、お代は……そうだな、その素敵な指輪を貰おうか」

 モノクルを掛けた店主が、男の首元を覗き込んでそう告げた。突然間近に迫った美しい顔に気圧されて、彼は頷くより他なかった。アスコットタイからするりと銀色のリングを引き抜いて、店主は満足そうに笑った。
 綺麗に磨き直した指輪をベルベットの敷布で包み、キャビネットの抽斗にそっと仕舞い込む。まるで眠った赤子をベッドに寝かせるかのように、丁重に。扉を閉め、厳重に鍵を掛けた。
 強化ガラスの頑丈な扉を拭き上げながら、店主は虚空に話しかける。夜を歌うような声だった。

「随分とサクリアが残っていたね。辛い旅だっただろう。ゆっくりするといい。彼は……まあ、死にはしないだろうから」
 
 ――三日三晩、泥の様に寝てしまって火葬されかけた、と再び彼が駆け込んでくるのは、また別の話。なんてね。

 *****

「便利でお洒落な小物入れだと思ったんですけど、すっごい重いんです、これ。開かないし」

 カートを引き摺った若い女性が、うんざりしたように訴えた。どこぞの惑星の古物商から通販で取り寄せた品らしい。

「あと、この鍵。一緒に付いてきたのに、小物入れの鍵じゃないみたいで。何でしょうね?」

 謎の重量物と引き換えに、持たなくていい日傘を受け取って、彼女は足取りも軽やかに去って行った。
 

 デバイスを小物入れに繋ぎ、解錠の暗号を入力しようとして、店主はふと手を止めた。

「……その前に、軽くする機械を取り寄せるか」

 彼の事だ。どうせ銃火器の類ばかりで、腐るようなものは入れないだろう。
 勝手にそう決め付けて、馬鹿みたいに重たい小物入れをカウンターの端に放置した。無駄に腕が疲れた。今日はもう、ペンすら持ちたくはない。

 店主は頬杖をついて、飾り気のない安っぽい鍵を眺める。何の変哲もない。使い込まれ、表面には無数の傷がついているし、エッジは摩耗して丸まっている、ただの鍵だ。
 こんなものを、よくもまぁ。流石の執念深さに思わず感嘆が洩れる。
 彼の遺品は、何も見つけられなかった。一切の痕跡を風のように消し去って逝ったと思っていたのに、こんな形で還ってくるなんて。
 うすはりのテイスティンググラスを二つ並べる。一つにはラム酒を。彼の男の髪色を思わせる琥珀色が、ゆったりと丸いボウルに曲線を描いた。もう一つのグラスには、広口瓶から漆黒の液体を注ぐ。瓶の底で、コーヒー豆がざらざらと踊った。

「結局、自分で豆を漬け込むやり方に落ち着いたよ。なかなかだろう?」

 自家製リキュールが入ったグラスを鍵の前に差し出して、別れの盃を交わす。

「君の、忠義心に」
 
 ――彼は、君との約束を果たしたよ。
 
 ****

 その日の来訪者は老紳士だった。
 傍らには紳士用としては少しばかり華奢なステッキ。とある財団のオークションで競り落としたものだが、どうしてだか自分には分不相応な気がするそうだ。年代物だが、細身の柄には傷一つ無い。才媛のしなやかな指で丁寧に、大切に扱われていたのだろう。
 店の奥から店主が持ってきたのは、白銀の鳥が翼を広げた見事な杖頭だった。鳥の尾羽のように連なった宝珠がしゃらりと涼やかに揺れている。サイズを確認するでもなく、店主はそれを杖に取り付けた。
 ぴったりと杖頭が嵌まったそれは、まるで王笏(おうしゃく)のような威厳を放った。

「これはこれは……本当に、どこぞの王族のレガリアかもしれませんなぁ」

 品の良い調度品に囲まれて杖を携える店主の姿は、それこそ王を描いた荘厳な絵画と言われても違和感がない。
 良いものを見た、と上機嫌で店を出る老紳士の腕には、ステッキの代わりに見事な織物が掛かっていた。

「ところで、ジェーン・ドゥはどちらに?」
「いるよ、ここに」

 去り際に投げかけられた疑問に、店主は笑顔で天を指し示してみせた。
 ――意外と重たくて、びっくりしたよ。そういえば、彼女は身体を鍛えていたね。瓶ビール一ケースを素知らぬ顔で運んで来たのには驚いた。

 ***
 
「お久しぶりです。お変わりなくお過ごしでしょうか」

 その日は朝から小雨が降っていた。
 店主が暇潰しに水槽の手入れをしていると、見知った顔が音もなく扉を開き、会釈する。

「そちらのお魚さん達もロボットフィッシュも謎の食虫植物もお元気そうですね」
「彼のところでサクリアを浴び続けていた影響だろう。そうだ、こちらの魚と交配させてみたいのだけど」
「オオ、それは禁則事項です」

 にこやかに言い放った彼に、店主は「お堅いね」とわざとらしく肩を竦めて見せる。

「高強度サクリアの長期間曝露による長寿命化立証のための実験……とか言って、陛下に許可を取っておいてくれ」
「本当にお変わりありませんね。ま、善処致します。それで……本題ですが」

 男は即座に真顔に戻る。白い手袋をはめて、懐から何かを恭しく差し出した。
 この宇宙のシンボルが彫刻された、大ぶりな金色のブローチ。かつての輝きは少しも色褪せておらず、かの守護聖の誇らしげな姿がありありと目に浮かぶ。
 二人はしばしの間、思い出話に興じた。

 シルクのハンカチに包んだブローチを、眠りを誘う銀の指輪の隣に飾ってやって、店主は店の外に出た。雨上がりの澄んだ星空を見上げる。青みを帯びた光彩が湧き上がるように、星雲が広がっているのが見えた。
 夜の匂いを吸い込むと、肺がちくちくと痛んだ。胸騒ぎがする。

 青暗い星空に、一際大きな星が堕ちた。

 **

 律儀なノックの音に続いて、梟のドアチャイムが遠慮がちに鳴った。

「ああ……君か」

 思考の海から意識を引き上げて、店主が立ち上がった。小脇に箱を抱えた眼鏡の男が目礼をする。男が纏う深い黒は、彼らの故郷で死者を悼む色だということを店主は知っていた。

「これを」

 受け取った箱は開かないまま、自慢のコーヒーで男をもてなす。
 彼は、これを一区切りとして主星に腰を落ち着けるそうだ。宇宙中のビールを飲み歩いてしまったと話すので一番好きな銘柄を訊ねると、「なんだかんだ、あいつのとこの地ビールが一番だったかな」と懐かしそうに笑った。
 こんなに目元に皺を寄せて、くしゃりと笑う男では無かった気がする。それを指摘すると、男は白髪が交じり始めた後頭部をガシガシと掻いて言った。

「まあ、あれから一万年、経ちましたからね」


 男が辞したのち、店主はまたコーヒーを淹れた。とっておきの豆を使ったその一杯を一口ずつゆっくりと味わいながら、箱を開く。まるで宝物を披露する子供のように、ひとつひとつ、カウンターに中身を並べていった。
 暇つぶしのジグソーパズルやデート先で買った謎の球技のルールブック。女王試験時代に一緒に使ったものだ。こんなものを律儀に取っておいたなんて、と口元が緩む。
 その次に、手紙の束を取り出した。一通一通、丁寧に開封された跡がある。備忘録のつもりで送り続けていた手紙だが、そのどれもに彼女の言葉が綴られていた。

『五六七七回目の女王就任記念日、おめでとう』そんなふざけたメッセージカードまで出てくるものだから、段々と照れくさいような、勿体ないような気持ちになってきて、店主は途中で読むのをやめた。
 最後に箱から出てきたのは、深緑の宝石が一粒だけついたシンプルだが上品なネックレスだった。店主は深いため息を漏らした後、ネックレスにそっと口づけをした。
 ロレンツォ、と愛おしい人の声が、確かに聞こえた。見上げると、幾百、幾千の花々よりも美しく可憐な笑顔がそこにあった。

 ――おかえり、私の宇宙。
 
 店の奥のキャビネットを開く。一番高いところの棚板を丁寧に拭きあげてから、隠し扉から取り出したティアラを飾る。その隣にネックレスを添えて、また、幾重にも鍵を掛けた。

 店の扉を開けると、夜明け前のひんやりとした空気が入り込んだ。
 見上げた空には青白い朝陽が射していた。来客を見送ったのはつい先程だったはずなのに、いつのまにか、夜が終わり、もうじき新しい朝がやってきてしまう。愛する人が存在しない明日(みらい)が。
 彼女のサクリアが尽きたということは、自分もそう長くはないのだろう。構わない。死は、怖くない。私の人生は、全てが新鮮な驚きで満ちていたのだから。
 彼女のおかげで、人を愛する喜びと、喪失の恐怖を知った。そして、これから「死」という未知を知ることが出来る。
 
 ――君は、最後まで、底知れない宇宙の神秘だ。愛している。これからも、ずっと。

 出す宛ても無い手紙に、一滴だけ涙が零れた。
 それを皮切りに、果てしない旅を終えたような充実感と疲労感がどっと沸き上がる。生命の理から外れて以来、感情も感覚も鈍っていたのだろう。久々に味わう情動を全身で甘受し、店主はひとり、静かに打ち震えた。

 *

 永い役目を終えたドアチャイムを外して、店内のランプを一つ一つ吹き消していく。
 手探りで辿り着いたキャビネットを愛おしそうに撫でた。
 心地良い静寂と闇に包まれて、逸品たちは一足先に眠りについたのだろう。サクリアの気配はもう消えてしまった。

「願わくば……死が、進化でありますように。そしてまた、君と」

 小さな祈りが暗闇に溶ける。男の姿はもう、どこにもなかった。 
果てしない宇宙の果て
 令梟の星々を神鳥の宇宙に統合させてから、もうどれくらいの時間が流れただろう。五百年を超えたあたりから数えるのを止めてしまった。
 星も民も、もとよりこの宇宙にいたかのように整然と営みを続けている。サクリアが起こした数々のトラブルも最近は頻度が下がっていた。
 自身に宿るサクリアが減ってきているだけでなく、自分達が神鳥を構成する一つの物質――生命として秩序に組み込まれた、ということだろう。
 
 主のいないカウンターは、いつもより広く感じる。アンジュは一人分のコーヒーとともにカウンターの隅に陣取って、不在中に溜まっていた手紙の束を開いた。
 店に持ち込まれる遺物や相談も最近はめっきり減り、守護聖達も皆、自分のために時間を使い始めたように思えた。
 その証拠に、彼らからの連絡は事件よりも他愛のない近況報告が大部分を占めていた。あるものはメールで、あるものは絵葉書で。あるものは、直接ここに足を運んで。

「うわぁ、鮮やかな色。新しい星で見つけた絵の具かぁ。相変わらずセンスいいね、フェリクスは。えーと、カナタは事務所に居着いた猫を飼い始め……なんで写真が入ってないかなぁ」

 それぞれの人生や考え方を少しずつ、ゆっくりと共有していく。遥か昔、女王候補時代に戻ったようなこのやりとりが、アンジュは好きだった。何千年、ともに過ごしていた相手なのに、まだ知らない一面が出てくる。 
 返信は後回しにして、先ほど届いたばかりの封書を手に取る。宛先も送り主も書かれていない。上質な純白の封筒に、翼を広げた鳥が模られた赤い封蝋。この宇宙のシンボルを使える送り主。心当たりは一人しかいない。

***

「お久しぶりです、アンジュ様」

 久々に聖地を訪れたアンジュを出迎えたのは、王立研究院の制服に身を包んだサイラスだった。今は古巣に戻り、主に令梟から移転した星々の観測を――要するに、アンジュ達の仕事のサポートが彼の主要業務だ。

「サイラス。連絡、ありがとうございました」
「それが私の仕事ですから。さあ、急ぎましょう。陛下が時差を調整してくださっていますが、なるべく長く観測されたいでしょう」

 アンジュの荷物をさっと受け取り、身を翻す。長い白衣がふわりと広がった。いつまでたっても見慣れない制服姿を追いかけ、アンジュも足早に歩を進める。すれ違う職員に会釈をしながら、サイラスが早口で捲し立てる。

「研究院の一室を手配しておりますが、必要であれば宮殿の星の間も使って構わない、と陛下より仰せつかっております」
「格別の御配慮に感謝致します、と伝えてください。後でちゃんとご挨拶に伺わないとね」

 案内された一室は、特別監視室と銘打たれた部屋だった。観測用の機材で埋め尽くされた大きなデスクの奥には、泊まり込みでの作業を想定した居住スペースがあり、ベッドと簡易キッチン、ソファにテーブル、観葉植物までもが備えられている。

「さて。始めましょうか。こちらが現在の令梟の宇宙です」

 サイラスの声で、ホログラムが浮かび上がる。墨汁を零したような、深い暗闇がディスプレイ上に広がった。ぐ、とアンジュの喉が鳴る。

「あと、どのくらいですか。……終わりまで」
「聖地基準で、おおむね三、四日と予測されています」


 令梟の宇宙の終焉が近い、と連絡をくれたのはサイラスだった。

「大変稀な事象ですので、特別体制で多次元観測を行います。アンジュ様もこちらで御覧になりませんか」との誘いに、アンジュは二つ返事で聖地に赴いた。

 震える指が虚空をそっと撫でた。干渉されたホログラムは一瞬明滅した後、すぐに元の暗闇を映し出す。こうして令梟の宇宙を眺めるのは、ひどく久しぶりだった。大都会の夜景のような賑やかな星図が暗黒に侵食されていく様に耐えられず、大移動直後以降、アンジュは積極的な観測を避けていた。

「もう、空っぽなんですね。あんなに沢山の星が残っていたのに。全部無くなっちゃった」

 星々の移転には莫大なエネルギーが必要だった。そのため、生命体が存在する銀河系を優先して送り出し、生体反応の無い大部分の星はそのまま棄て置かれた。
 サクリアの循環が止まり、自らの持つエネルギーが尽きた星から虚無の空間に飲み込まれる。最期はその空間ごと蒸発するように消えてしまうと聞かされていた。

「……ですが、アンジュ様。当初の想定よりも、かなり長く残存したと思いませんか」

 サイラスが座標を入力していく。側面のモニタに映し出されたのは、煌々と輝く一つの星だった。

「この星はつい最近、数千年前に生まれました。活動を終えたはずの宇宙に新しい星が、しかも恒星が発生するなど前代未聞です。アンジュ様のサクリアはいまだ令梟の宇宙に届き続けていたのですね」

 アンジュはモニターに縋りつくようにして一つの光を見つめていた。

「この星は、タイラーが見つけたのです。毎日、観測していましたから。彼の執念ですね」

 誇らしげに目を細めたサイラスに、アンジュは向き直って問い掛けた。

「サイラス。新しく星が生まれたということは、令梟の宇宙はまだ」
「残念ながら」

 微笑みを消して、サイラスがゆっくりと首を振った。でも、と食い下がるアンジュを制するように尋ねた。

「宇宙意思の声は、聞こえますか?」

 アンジュが瞳を見開く。数秒の沈黙の後、は、と大きく息を吐いて、両の耳に軽く手を添えた。眼を閉じて、天を仰ぐ。
 祈りにも似た時間だった。サイラスは微動だにせず、静かに宣託を待っている。

「……何も。でも、こんなに大きくて明るいのに……」

 呟きを落として、アンジュは悔しそうに俯いた。静けさで耳が痛かった。力が抜けてよろめいた体をさりげなく支え、サイラスが言葉を続ける。

「アンジュ様、逆なのです。この星はもう間もなく超新星爆発を起こします。だから輝度が増して、この深宇宙にあっても我々にこうして観測されている。爆発の後にはブラックホールが生まれ、虚無の空間に収束していくでしょう」
「そのあとは?」
「光と闇のように、生と死も表裏一体です。一つの宇宙が消滅した後は、新たな宇宙が生まれます」

 
 一通りの状況と操作説明を終え、サイラスが辞した後、アンジュはホログラムの投影範囲を部屋全体に広げた。部屋の照明を全て消してベッドに寝転べば、宇宙の真ん中に自分がいた。あの頃のように。
 手のひらを大きく振って映像をぐるりと回す。暗闇を手繰っていくと唯一の光が眼前に現れた。身を起こして、目を凝らす。
 たしかにそこには一つ、星があった。ごうごうと激しく燃える星が。

「生きているのね。たったひとりで」

 どぶん、と炎が巻きあがる。呼応するようにアンジュの心臓がどくどくと鳴動した。惑星の表面で小規模なフレアが起きて、ガスが噴き出す。爆発が連鎖して輝きが増していく。
 これは命の炎。星の鼓動。その輝きが尽きる時が、令梟の宇宙の終焉だ。



「あなたの望みは?」

 あの時、妖精が戯れに投げかけた問に、アンジュは迷いなく答えた。

「終わらせること。全てを、ちゃんと」

 ――ちゃんと、見届けよう。それが、私の最期の役目だから。
 
***

「おはようございます、アンジュ様。朝食をお持ち致しました」

 無駄にリズミカルなノックと共にトレイを持ったサイラスが現れた。タイマーで開くカーテンによって、部屋はすでに明るい。ホログラム映像は陽の光にかき消されてしまった。

「昨夜は……多少は眠れたようですね。安眠オルゴールを強制セットしておいて良かったです」

 まだ寝不足でぼんやりとしているアンジュをよそに、てきぱきとテーブルセットを進めていく。洗面所から戻るころには、すでに朝食の準備は完了していた。

「……ありがとうございます。これ、サイラスが作ってくれた、んですよね」

 今朝のメニューはレタスとうどんのサンドイッチ。これを作る人間は宇宙広しと言えど、二人もいてほしくない。

「僭越ながら。毒見致しましょうか」
「まさか。ちょっと懐かしくなっただけです。いただきます」
「では、お食事を取りながらで結構ですので」
 サイラスは今朝更新されたばかりの観測データを映し出し、数値の意味を丁寧に説明していく。

「数時間の誤差はありますが、明後日の未明だと」
「わかりました。ありがとう」
「どなたか、お呼びしますか?」

 その問いかけに、アンジュは首を横に振る。伴侶や親友の優しさに縋りたくはなかった。元より自分一人で見届けるべきだと思って、独りでここに来たのだから。

「左様ですか」

 サイラスは一瞬、何か思考する仕草をした後、テーブルに空のティーカップとポットを置き、砂時計をひっくり返した。三分です、と告げて胸に手を当てて一礼した。

「今夜お迎えに上がります。しっかり仮眠を取って、お仕度をしてお待ちください。私は準備がありますのでこれで失礼します。紅茶はセルフサービスで」

 迎えって、どこに? そう尋ねる間もなく扉を閉められてしまった。「あ~忙し!」わざとらしいセリフと大きな足音が聞こえた。
 相変わらずサイラスのペースにはまっている。アンジュは諦めて、サンドイッチを頬張った。レタスの隙間からぶつ切りの麺がぼたぼたと落ちた。

   
 サイラスが迎えに来たのは、日付が変わる直前だった。
 深夜の宮殿の最深部を二人で歩く。構造は令梟のそれと酷似している。地図が無くても、この先にあるものが何かは察せられた。

「あの……もしかして次元回廊を……」
「ええ。直接、御覧になりたいでしょう?」

 許可は取りましたので、とさらりと言うが、一研究員が気軽に使えるようなものでも、あっさりと許可が下りるようなものでもない。
 アンジュの視界がじわりと滲んだ。ぎゅっと眼をつぶって涙を堪え、先を急ごうとするサイラスの服の端を掴んで引き留めた。

「……ありがとうございます。これだけじゃなくて。今までのことも、全部」
「それはそれは。執事冥利に尽きるお言葉ですね」
「もう執事じゃないでしょ」

 反論を無視して、サイラスは懐から小型の通信機を取り出した。自分の服を掴んでいる指を丁寧に外し、そのてのひらに載せてしっかりと握りこませた。

「次元回廊はワームホールを連続させたものです。自身の位置を見失わないよう、これを使ってお進みください。通信機能も大幅アップしております。道中、寂しければ歌でも歌いますので」
「えーと、それはいいかな」
「そう遠慮なさならずに。いつでもお声がけ下さい。それでは」

 時空の扉のロックを外して、サイラスが深く一礼をする。

「いってらっしゃいませ。女王陛下」

 女王でもないですけど、と零しながらアンジュは扉の前に進み、姿勢を正した。宝石と彫刻で装飾された金色の扉がゆっくりと開き、漆黒の闇が目の前に広がった。

 アンジュは暗闇に向かって躊躇なく足を踏み出す。恐怖はない。元より世界の半分は闇なのだから。
 安らぎの夜があるから朝が来る。闇がなければ光は存在しない。あの二人がそう教えてくれた。
 手元の通信機が示す現在地はかつての故郷、太陽系だ。故郷の近くに星が生まれたのは、自分の未練によるものだろうか。

「アンジュ様。サイラスです。聞こえますか。」
「はい、大丈夫です。目的地も見えています」
「そうですか。ゼノ様が組み込んでくださった防御システムは、物理的な落下などは防げません。くれぐれも、ブラックホールにはお近づきにならないよう。イベントホライズン(事象の地平線)に落ちたら、その名の通り通信は途絶し、救助は困難です。足元にお気をつけ下さい」
「わ、かりました」

 サイラスの忠告に、思わずたたらを踏む。

「あっぶな。ノアも落ちそうになったって言ってたっけ・・・・・・」

 パン! と両手で頬を叩き、気合を入れなおす。焦るな。時間はまだあるから。
 微かに見える星あかりを目指し、歩き始めた。暗闇には命を燃やし尽くした星々の残骸が漂っていた。墓標のように並ぶそれに祈りを捧げながら足早に通り過ぎる。
 鎮魂の旅さながらに、アンジュは歩を進める。
 無数のデブリが漂うオールトの雲を超えて、太陽系を抜ける。更に歩いて、歩いて、歩いた先で、ようやくその星に辿り着いた。


「こんなに暗くて、遠いところで、生まれたの。ごめんね、気付かなくて」

 膨張しきった宇宙の終端で孤独に輝く星に、そっと手を差し伸べた。指先が光に触れた瞬間。
 終わりの星はアンジュの到着を待っていたかのように崩壊を始めた。通信機からビープ音が鳴り響き、虹色の薄いシールドがアンジュを包んだ。赤く脈動するプロミネンスを突き破った真っ白な光が、アンジュを襲う。

「……きれい」

 翳した手の境界線が消えた。熱線がじりじりと皮膚を焼く。堪らず膝を突いたが、それでも視線だけは、決して逸らさなかった。

 やがて、エネルギーを放出しきった星から全ての輝きが消えた。

「さようなら、私の……」

 アンジュの掌の中で、最後の命が果てた。

「私の宇宙。おやすみ……またね」

 瞬間、堰を切ったように感情が溢れ出す。数千年分の嘆きを吐き出すように、アンジュはわんわんと声を上げて泣いた。涙も慟哭も飲み込んで、虚無の空間が収束していく。



「虚無の空間の完全消失を確認しました。アンジュ様、お疲れ様でした」

 サイラスの声に、アンジュは顔を上げた。あれからどのくらい時間が経ったのか判らないが、サイラスが迎えに来たということは、全てが終わったということだろう。
 かなりの量のサクリアを持っていかれた感覚があった。気怠さと吐き気を誤魔化すように、頬をはたき髪をかき上げる。
 ぐるりと周囲を見回した。明るくも暗くもない。雪原のような、空白の空間に二人の体が浮かんでいた。
 サイラスに支えられ、立ち上がる。握られた手がじくりと痛んだ。シールド越しとはいえ、熱線に曝された皮膚が無傷なわけは無かった。

「早々に手当が必要ですね。歩けますか?」

 無言で頷く。まだ、口を開いたら涙が零れそうだった。そのままエスコートされるように歩き始める。一歩一歩、踏み締めるようにして、昂った感情を地面に埋め込んでいく。

「みんな、見てたのかな」
「ええ。それぞれの星の施設にお越し頂いたはずです。私はゼノ様と観測していました」
「そっか……すごく、綺麗だった」
「はい。今まで観測した天体現象の中で、最も美しいと思いました」

 それからまた、二人は無言で歩いた。

***

 翌日、女王陛下との謁見を終えたアンジュは「きっとこれが最後だから」とサイラスに握手を求めた。
 サイラスは傷付いたアンジュの手を両手で優しく包み込んで、しっかりと目線を合わせた。

「星の爆発は生命の始まりです。私たちの体は星々の死骸で出来ている。異なる星どころか、別の宇宙の原子で構成された我々の手が、こうして接触しているのは奇跡的な確率だと思いませんか」
「え? ど、どうかな……」
「今、二つの宇宙の民が共に暮らしていることも、宇宙の終わりに新たな星が誕生したのも、私は全て、奇跡だと思います。そして、その奇跡は貴女が起こしたのです」

 アンジュの喉元に甘ったるい痛みがこみ上げる。感傷を振り払おうと手を引いたが、彼の大きな手のひらはそれを許さなかった。

「貴女がご自身をどう評価しようと、私は貴女を誇りに思います。これまでも、これからも。ですから」
 もう一度、深く視線を交わしてサイラスが言った。
「また、お逢いしましょう。必ず」


 店まで送るという申し出を固辞して、アンジュは独り夜道を歩いた。王立研究院は今、新たな宇宙誕生の予兆を探すことで手一杯だろう。これ以上彼の手を煩わせるわけにはいかない。
 手のひらの熱は引かない。燃え尽きた命の痕跡がじくじくと疼いた。体の回復が遅れているのは気のせいではないだろう。

「また、か。逢えるのかな、あなたとも」

 あの梟に向かって呼びかける。返事は聴こえなかったが、構わなかった。あの人が逢えると言ったのだから、それで十分だった。死は新たな生命の始まり。だから、きっと。
 夜空を煌めく星々に混ざって、小さなランプの灯りが見えた。暖かなその光に向かって、アンジュは軽やかに駆け出した。
カーテン
 さて、そろそろ終幕の時が近づいて参りました。
 舞台の上からおひとり、またおひとりといなくなり、舞台装置もすっかり片付けられ、客席もすべて空になり……ついに私だけが残されてしまったようです。
 私がいる場所を照らしているライトも、そう遠からず消えるでしょう。
 寂しい?
 ほう、それはなかなか面白い質問です。
 まったくそうは思わない、と虚勢を張るつもりはありませんが、案外平気なものですよ。
 人はひとりで生まれ、ひとりで死にゆくものです。だからこそ、その定められた時間、限りある人生のなかで巡り会ったものたちが、尊く思えるのではないのでしょうか。
 ここに古い懐中時計があります。露天で売られている玩具のようなもので、経年のためケースがひどく劣化していて、部品も同じような有様。修理をしたとしても、もう動くことはないでしょう。
 こちらは、かつて存在した店に持ち込まれた品です。ジェーン・ドゥの名を冠したその店は、ずいぶん昔になくなりました。その店の主人は非常に変わった経歴の持ち主でしたが、今さらそれを繰り返す必要もありますまい。
 私が彼の店を訪れたとき、ちょうどこの時計が持ち込まれたのです。
 彼は掌の上にある文字盤を眺めながら、いかにも楽しそうに言いました。
「時を遡ることができる時計、ね。実に興味深いじゃないか? 君も私も到達できなかった領域に、この時計は容易くアクセスできる」
「ええ。しかし正確に言えば、あなたも私も到達できませんでしたが、彼女たちはその世界を知っていました」
 目を細めると、紫色の瞳が子どものように輝きました。かつてその色をすみれのようだと形容していたのは、誰だったか。
「確かにそうだ」
 彼は喉の奥で笑い、それからじっと手元を見つめました。私は、自分が彼の深く沈みゆく意識から弾かれたことに気づきましたが、特に何の感慨も抱くことなく冷めた茶を口に含みました。
 共通の話題がみつかったとき、普通でしたら思い出を語り合うという流れになったかもしれませんが、あいにく、私たちは昔話をして楽しむ間柄ではなかったもので。
 店を訪れた客に提供されるという、丁寧にドリップされた薫り高いコーヒーではなく、彼が入れてくれたのは、複雑で芳醇な味わいを持つ珍しい茶でした。彼と私の間にあるものは、それで十分だったのです。
「不運に過ち、一瞬の逡巡……それらが引き起こした悲劇は星の数ほどもあるだろう。たとえば、君は」
 独白じみた呟きを向けられ、私はティーカップを置きました。
「時を戻して、何かをやり直したいと思った経験があるかい?」
「ありませんね」
 即座に返答すると、先ほどみせた冷笑とは打って変わって、彼は声を上げて笑いました。
「はっきり言うね。まあ、君らしいが」
「あなたもそうかと思っておりましたが」
「己がしてきた選択について、君ほどの自信はないな」
「お言葉ですが、自信などありませんよ」
 ただ、と私は再びティーカップを持ち上げて、続けました。冷めても味の良いその茶は、答えのない議論に束の間の潤いを与えてくれました。
「自らのなすことに責任を持ち、主体的に生きる人生には喜びがあるでしょう。しかし同時に、人はまた、過ちを犯す権利を持つものだと私は思っています。自由とは、そういったものではないかと」
「……なるほどね」
 街の裏通りを通り抜けてきた風が、木製の窓枠を鈍く軋ませました。
 しばらくの沈黙のあと、ことりと乾いた固い音がして、件の懐中時計がテーブルの上に置かれました。
「よければ、君に預かっていて貰いたい。私は……これを見ると、つまらない夢に追いすがってしまいそうになるのでね」
 彼は肩をすくめました。
「愚かだと思うだろう。ただの玩具に」
「いえ」
 そのとき私は、口を開きかけたことを覚えています。先を何と続けるつもりだったのでしょうか。
 そんなことはない。
 実に興味深い。
 あの方ならば、そうは思われないはず。
 それとも――うらやましい?
 今ではもう、思い出すことはできませんが。
 おっと、お喋りが過ぎたようです。沈黙と孤独は人を饒舌にするとかしないとか。ま、あと少しですので、よろしければこのままお付き合いください。
 ほどなくすべての灯りが落ちて完全な闇と静寂がやってくるでしょうが、私はそれを楽しみにしているのですよ。意外と。
 その時が来たら、止まっている懐中時計の針も再び動きはじめるのかもしれません。
 時の流れを自在に操ることができるのは、今も昔も宇宙の女王その人だけです。
 しかし、彼から託されたあと、この時計にも時にまつわる不思議な力が隠されていたことに気づいたのです。
 時計の蓋を開けると、過ぎ去った記憶が、彼方に消えてしまった思い出が、懐かしい人々の面影が蘇って――おや、そんなことをお話しているうちに、針が動きはじめたようですね。ひしゃげた短針と長針が左回りでゆっくりと回転していく様子は、老人が誇り高く顔を上げて歩んでゆく姿にも思えます。
 いよいよ時が満ちました。これで私もようやく退場が許される、と。やれやれ、といったところでしょうか。サクリアのない私が最後まで残るなど、何とも滑稽な話ではありませんか。
 最後の最後に、僭越ながらひとつお願いがあります。緞帳が下がり、閉幕を告げるベルが鳴る前に、ぜひあちらをご覧ください。闇に目を凝らして、静かに呼吸を落ち着かせて。
 客席で手を振っている「彼ら」の姿が見えませんか。賑やかすぎるほどの笑い声がしませんか。
 耳を澄ましていれば、やがて割れんばかりの拍手が聞こえるはずです。
 あれは、力の限り生きた者たちの鼓動の音です。
 令梟の宇宙は滅びました。
 女王はその座を降り、サクリアは失われ、多くの命が深い眠りにつきました。
 ここまで彼らの涙を、絶望を、苦しみを、後悔を、喪失を、熱い血が流れ続けた傷口を、そして祈りを見守ってきたあなたに私は尋ねたい。
 彼らの人生は――悲劇だったのでしょうか?