果てしない宇宙の果て

 令梟の星々を神鳥の宇宙に統合させてから、もうどれくらいの時間が流れただろう。五百年を超えたあたりから数えるのを止めてしまった。
 星も民も、もとよりこの宇宙にいたかのように整然と営みを続けている。サクリアが起こした数々のトラブルも最近は頻度が下がっていた。
 自身に宿るサクリアが減ってきているだけでなく、自分達が神鳥を構成する一つの物質――生命として秩序に組み込まれた、ということだろう。
 
 主のいないカウンターは、いつもより広く感じる。アンジュは一人分のコーヒーとともにカウンターの隅に陣取って、不在中に溜まっていた手紙の束を開いた。
 店に持ち込まれる遺物や相談も最近はめっきり減り、守護聖達も皆、自分のために時間を使い始めたように思えた。
 その証拠に、彼らからの連絡は事件よりも他愛のない近況報告が大部分を占めていた。あるものはメールで、あるものは絵葉書で。あるものは、直接ここに足を運んで。

「うわぁ、鮮やかな色。新しい星で見つけた絵の具かぁ。相変わらずセンスいいね、フェリクスは。えーと、カナタは事務所に居着いた猫を飼い始め……なんで写真が入ってないかなぁ」

 それぞれの人生や考え方を少しずつ、ゆっくりと共有していく。遥か昔、女王候補時代に戻ったようなこのやりとりが、アンジュは好きだった。何千年、ともに過ごしていた相手なのに、まだ知らない一面が出てくる。 
 返信は後回しにして、先ほど届いたばかりの封書を手に取る。宛先も送り主も書かれていない。上質な純白の封筒に、翼を広げた鳥が模られた赤い封蝋。この宇宙のシンボルを使える送り主。心当たりは一人しかいない。

***

「お久しぶりです、アンジュ様」

 久々に聖地を訪れたアンジュを出迎えたのは、王立研究院の制服に身を包んだサイラスだった。今は古巣に戻り、主に令梟から移転した星々の観測を――要するに、アンジュ達の仕事のサポートが彼の主要業務だ。

「サイラス。連絡、ありがとうございました」
「それが私の仕事ですから。さあ、急ぎましょう。陛下が時差を調整してくださっていますが、なるべく長く観測されたいでしょう」

 アンジュの荷物をさっと受け取り、身を翻す。長い白衣がふわりと広がった。いつまでたっても見慣れない制服姿を追いかけ、アンジュも足早に歩を進める。すれ違う職員に会釈をしながら、サイラスが早口で捲し立てる。

「研究院の一室を手配しておりますが、必要であれば宮殿の星の間も使って構わない、と陛下より仰せつかっております」
「格別の御配慮に感謝致します、と伝えてください。後でちゃんとご挨拶に伺わないとね」

 案内された一室は、特別監視室と銘打たれた部屋だった。観測用の機材で埋め尽くされた大きなデスクの奥には、泊まり込みでの作業を想定した居住スペースがあり、ベッドと簡易キッチン、ソファにテーブル、観葉植物までもが備えられている。

「さて。始めましょうか。こちらが現在の令梟の宇宙です」

 サイラスの声で、ホログラムが浮かび上がる。墨汁を零したような、深い暗闇がディスプレイ上に広がった。ぐ、とアンジュの喉が鳴る。

「あと、どのくらいですか。……終わりまで」
「聖地基準で、おおむね三、四日と予測されています」


 令梟の宇宙の終焉が近い、と連絡をくれたのはサイラスだった。

「大変稀な事象ですので、特別体制で多次元観測を行います。アンジュ様もこちらで御覧になりませんか」との誘いに、アンジュは二つ返事で聖地に赴いた。

 震える指が虚空をそっと撫でた。干渉されたホログラムは一瞬明滅した後、すぐに元の暗闇を映し出す。こうして令梟の宇宙を眺めるのは、ひどく久しぶりだった。大都会の夜景のような賑やかな星図が暗黒に侵食されていく様に耐えられず、大移動直後以降、アンジュは積極的な観測を避けていた。

「もう、空っぽなんですね。あんなに沢山の星が残っていたのに。全部無くなっちゃった」

 星々の移転には莫大なエネルギーが必要だった。そのため、生命体が存在する銀河系を優先して送り出し、生体反応の無い大部分の星はそのまま棄て置かれた。
 サクリアの循環が止まり、自らの持つエネルギーが尽きた星から虚無の空間に飲み込まれる。最期はその空間ごと蒸発するように消えてしまうと聞かされていた。

「……ですが、アンジュ様。当初の想定よりも、かなり長く残存したと思いませんか」

 サイラスが座標を入力していく。側面のモニタに映し出されたのは、煌々と輝く一つの星だった。

「この星はつい最近、数千年前に生まれました。活動を終えたはずの宇宙に新しい星が、しかも恒星が発生するなど前代未聞です。アンジュ様のサクリアはいまだ令梟の宇宙に届き続けていたのですね」

 アンジュはモニターに縋りつくようにして一つの光を見つめていた。

「この星は、タイラーが見つけたのです。毎日、観測していましたから。彼の執念ですね」

 誇らしげに目を細めたサイラスに、アンジュは向き直って問い掛けた。

「サイラス。新しく星が生まれたということは、令梟の宇宙はまだ」
「残念ながら」

 微笑みを消して、サイラスがゆっくりと首を振った。でも、と食い下がるアンジュを制するように尋ねた。

「宇宙意思の声は、聞こえますか?」

 アンジュが瞳を見開く。数秒の沈黙の後、は、と大きく息を吐いて、両の耳に軽く手を添えた。眼を閉じて、天を仰ぐ。
 祈りにも似た時間だった。サイラスは微動だにせず、静かに宣託を待っている。

「……何も。でも、こんなに大きくて明るいのに……」

 呟きを落として、アンジュは悔しそうに俯いた。静けさで耳が痛かった。力が抜けてよろめいた体をさりげなく支え、サイラスが言葉を続ける。

「アンジュ様、逆なのです。この星はもう間もなく超新星爆発を起こします。だから輝度が増して、この深宇宙にあっても我々にこうして観測されている。爆発の後にはブラックホールが生まれ、虚無の空間に収束していくでしょう」
「そのあとは?」
「光と闇のように、生と死も表裏一体です。一つの宇宙が消滅した後は、新たな宇宙が生まれます」

 
 一通りの状況と操作説明を終え、サイラスが辞した後、アンジュはホログラムの投影範囲を部屋全体に広げた。部屋の照明を全て消してベッドに寝転べば、宇宙の真ん中に自分がいた。あの頃のように。
 手のひらを大きく振って映像をぐるりと回す。暗闇を手繰っていくと唯一の光が眼前に現れた。身を起こして、目を凝らす。
 たしかにそこには一つ、星があった。ごうごうと激しく燃える星が。

「生きているのね。たったひとりで」

 どぶん、と炎が巻きあがる。呼応するようにアンジュの心臓がどくどくと鳴動した。惑星の表面で小規模なフレアが起きて、ガスが噴き出す。爆発が連鎖して輝きが増していく。
 これは命の炎。星の鼓動。その輝きが尽きる時が、令梟の宇宙の終焉だ。



「あなたの望みは?」

 あの時、妖精が戯れに投げかけた問に、アンジュは迷いなく答えた。

「終わらせること。全てを、ちゃんと」

 ――ちゃんと、見届けよう。それが、私の最期の役目だから。
 
***

「おはようございます、アンジュ様。朝食をお持ち致しました」

 無駄にリズミカルなノックと共にトレイを持ったサイラスが現れた。タイマーで開くカーテンによって、部屋はすでに明るい。ホログラム映像は陽の光にかき消されてしまった。

「昨夜は……多少は眠れたようですね。安眠オルゴールを強制セットしておいて良かったです」

 まだ寝不足でぼんやりとしているアンジュをよそに、てきぱきとテーブルセットを進めていく。洗面所から戻るころには、すでに朝食の準備は完了していた。

「……ありがとうございます。これ、サイラスが作ってくれた、んですよね」

 今朝のメニューはレタスとうどんのサンドイッチ。これを作る人間は宇宙広しと言えど、二人もいてほしくない。

「僭越ながら。毒見致しましょうか」
「まさか。ちょっと懐かしくなっただけです。いただきます」
「では、お食事を取りながらで結構ですので」
 サイラスは今朝更新されたばかりの観測データを映し出し、数値の意味を丁寧に説明していく。

「数時間の誤差はありますが、明後日の未明だと」
「わかりました。ありがとう」
「どなたか、お呼びしますか?」

 その問いかけに、アンジュは首を横に振る。伴侶や親友の優しさに縋りたくはなかった。元より自分一人で見届けるべきだと思って、独りでここに来たのだから。

「左様ですか」

 サイラスは一瞬、何か思考する仕草をした後、テーブルに空のティーカップとポットを置き、砂時計をひっくり返した。三分です、と告げて胸に手を当てて一礼した。

「今夜お迎えに上がります。しっかり仮眠を取って、お仕度をしてお待ちください。私は準備がありますのでこれで失礼します。紅茶はセルフサービスで」

 迎えって、どこに? そう尋ねる間もなく扉を閉められてしまった。「あ~忙し!」わざとらしいセリフと大きな足音が聞こえた。
 相変わらずサイラスのペースにはまっている。アンジュは諦めて、サンドイッチを頬張った。レタスの隙間からぶつ切りの麺がぼたぼたと落ちた。

   
 サイラスが迎えに来たのは、日付が変わる直前だった。
 深夜の宮殿の最深部を二人で歩く。構造は令梟のそれと酷似している。地図が無くても、この先にあるものが何かは察せられた。

「あの……もしかして次元回廊を……」
「ええ。直接、御覧になりたいでしょう?」

 許可は取りましたので、とさらりと言うが、一研究員が気軽に使えるようなものでも、あっさりと許可が下りるようなものでもない。
 アンジュの視界がじわりと滲んだ。ぎゅっと眼をつぶって涙を堪え、先を急ごうとするサイラスの服の端を掴んで引き留めた。

「……ありがとうございます。これだけじゃなくて。今までのことも、全部」
「それはそれは。執事冥利に尽きるお言葉ですね」
「もう執事じゃないでしょ」

 反論を無視して、サイラスは懐から小型の通信機を取り出した。自分の服を掴んでいる指を丁寧に外し、そのてのひらに載せてしっかりと握りこませた。

「次元回廊はワームホールを連続させたものです。自身の位置を見失わないよう、これを使ってお進みください。通信機能も大幅アップしております。道中、寂しければ歌でも歌いますので」
「えーと、それはいいかな」
「そう遠慮なさならずに。いつでもお声がけ下さい。それでは」

 時空の扉のロックを外して、サイラスが深く一礼をする。

「いってらっしゃいませ。女王陛下」

 女王でもないですけど、と零しながらアンジュは扉の前に進み、姿勢を正した。宝石と彫刻で装飾された金色の扉がゆっくりと開き、漆黒の闇が目の前に広がった。

 アンジュは暗闇に向かって躊躇なく足を踏み出す。恐怖はない。元より世界の半分は闇なのだから。
 安らぎの夜があるから朝が来る。闇がなければ光は存在しない。あの二人がそう教えてくれた。
 手元の通信機が示す現在地はかつての故郷、太陽系だ。故郷の近くに星が生まれたのは、自分の未練によるものだろうか。

「アンジュ様。サイラスです。聞こえますか。」
「はい、大丈夫です。目的地も見えています」
「そうですか。ゼノ様が組み込んでくださった防御システムは、物理的な落下などは防げません。くれぐれも、ブラックホールにはお近づきにならないよう。イベントホライズン(事象の地平線)に落ちたら、その名の通り通信は途絶し、救助は困難です。足元にお気をつけ下さい」
「わ、かりました」

 サイラスの忠告に、思わずたたらを踏む。

「あっぶな。ノアも落ちそうになったって言ってたっけ・・・・・・」

 パン! と両手で頬を叩き、気合を入れなおす。焦るな。時間はまだあるから。
 微かに見える星あかりを目指し、歩き始めた。暗闇には命を燃やし尽くした星々の残骸が漂っていた。墓標のように並ぶそれに祈りを捧げながら足早に通り過ぎる。
 鎮魂の旅さながらに、アンジュは歩を進める。
 無数のデブリが漂うオールトの雲を超えて、太陽系を抜ける。更に歩いて、歩いて、歩いた先で、ようやくその星に辿り着いた。


「こんなに暗くて、遠いところで、生まれたの。ごめんね、気付かなくて」

 膨張しきった宇宙の終端で孤独に輝く星に、そっと手を差し伸べた。指先が光に触れた瞬間。
 終わりの星はアンジュの到着を待っていたかのように崩壊を始めた。通信機からビープ音が鳴り響き、虹色の薄いシールドがアンジュを包んだ。赤く脈動するプロミネンスを突き破った真っ白な光が、アンジュを襲う。

「……きれい」

 翳した手の境界線が消えた。熱線がじりじりと皮膚を焼く。堪らず膝を突いたが、それでも視線だけは、決して逸らさなかった。

 やがて、エネルギーを放出しきった星から全ての輝きが消えた。

「さようなら、私の……」

 アンジュの掌の中で、最後の命が果てた。

「私の宇宙。おやすみ……またね」

 瞬間、堰を切ったように感情が溢れ出す。数千年分の嘆きを吐き出すように、アンジュはわんわんと声を上げて泣いた。涙も慟哭も飲み込んで、虚無の空間が収束していく。



「虚無の空間の完全消失を確認しました。アンジュ様、お疲れ様でした」

 サイラスの声に、アンジュは顔を上げた。あれからどのくらい時間が経ったのか判らないが、サイラスが迎えに来たということは、全てが終わったということだろう。
 かなりの量のサクリアを持っていかれた感覚があった。気怠さと吐き気を誤魔化すように、頬をはたき髪をかき上げる。
 ぐるりと周囲を見回した。明るくも暗くもない。雪原のような、空白の空間に二人の体が浮かんでいた。
 サイラスに支えられ、立ち上がる。握られた手がじくりと痛んだ。シールド越しとはいえ、熱線に曝された皮膚が無傷なわけは無かった。

「早々に手当が必要ですね。歩けますか?」

 無言で頷く。まだ、口を開いたら涙が零れそうだった。そのままエスコートされるように歩き始める。一歩一歩、踏み締めるようにして、昂った感情を地面に埋め込んでいく。

「みんな、見てたのかな」
「ええ。それぞれの星の施設にお越し頂いたはずです。私はゼノ様と観測していました」
「そっか……すごく、綺麗だった」
「はい。今まで観測した天体現象の中で、最も美しいと思いました」

 それからまた、二人は無言で歩いた。

***

 翌日、女王陛下との謁見を終えたアンジュは「きっとこれが最後だから」とサイラスに握手を求めた。
 サイラスは傷付いたアンジュの手を両手で優しく包み込んで、しっかりと目線を合わせた。

「星の爆発は生命の始まりです。私たちの体は星々の死骸で出来ている。異なる星どころか、別の宇宙の原子で構成された我々の手が、こうして接触しているのは奇跡的な確率だと思いませんか」
「え? ど、どうかな……」
「今、二つの宇宙の民が共に暮らしていることも、宇宙の終わりに新たな星が誕生したのも、私は全て、奇跡だと思います。そして、その奇跡は貴女が起こしたのです」

 アンジュの喉元に甘ったるい痛みがこみ上げる。感傷を振り払おうと手を引いたが、彼の大きな手のひらはそれを許さなかった。

「貴女がご自身をどう評価しようと、私は貴女を誇りに思います。これまでも、これからも。ですから」
 もう一度、深く視線を交わしてサイラスが言った。
「また、お逢いしましょう。必ず」


 店まで送るという申し出を固辞して、アンジュは独り夜道を歩いた。王立研究院は今、新たな宇宙誕生の予兆を探すことで手一杯だろう。これ以上彼の手を煩わせるわけにはいかない。
 手のひらの熱は引かない。燃え尽きた命の痕跡がじくじくと疼いた。体の回復が遅れているのは気のせいではないだろう。

「また、か。逢えるのかな、あなたとも」

 あの梟に向かって呼びかける。返事は聴こえなかったが、構わなかった。あの人が逢えると言ったのだから、それで十分だった。死は新たな生命の始まり。だから、きっと。
 夜空を煌めく星々に混ざって、小さなランプの灯りが見えた。暖かなその光に向かって、アンジュは軽やかに駆け出した。





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