それゆえの彼

「そう、か」

 夜更けのような、朝焼けのような、そんな紫の瞳をすいと細めて、ロレンツォ様は頷いた。

「君がそれを選ぶなら、私が反対する理由はないしね」

 そう言ってから一度だけ薄く唇を開いて、閉じる。言いかけた言葉があったのかもしれないが、それはその時の俺の耳に届くことはなく、きっとこの先も一生訪れないだろうと思った。それを、良かった、って思ってしまったことも、一生内緒だ。

「はい、ありがとうございます。ロレンツォ様」

 そう言って頭を下げた。顔を上げたとき、尊敬する地の守護聖様はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。

 きっと、ユエ様でもフェリクス様でも同じ事を言ってくださったと思う。そんな中で彼に一番に報告したのは、憧れもあってだ。
 そして、否定しないと信じていたから。
 どんな道を選んでも。どんな生き方を選んでも。どんな――死に方を選んでも。
 人が導き出した選択を、否定しないでくれるであろう人に、最初に報告したかった。
 アンジュが、令梟の宇宙の行き末を決めたとき、きっと、彼もその場にいたのだろう。そしてきっと、否定しなかった。その人に、自分の行き先も、聞いて欲しかったのだ。
 それは少しだけ、狡さもあるんだろう。俺は自分のそういう狡さだって理解している。
 理解している。
 だから、親友は、後回しになってしまったけれど。


「俺は、リモージュ陛下のご加護を受けたいと思います」

 守護聖全員が集まっての場で俺がそう告げたとき、皆様それぞれ別の表情を浮かべていた。ぐっと眉根に皺が寄ったシュリ様。困ったような顔をしたノア様。驚いたように目を見開いたフェリクス様と、少し面白そうなものを見るように口元を緩めたミラン様。ヴァージル様はいつも通りで、先に知っていたロレンツォ様も同じ。ユエ様は強いまなざしで、俺を見て、それから、「いいんだな?」と、確認した。「はい」と俺が頷いたら、ユエ様は三秒だけ目を閉じて、それからまっすぐに俺を見て頷いた。

「分かった」

 静かな声にほっと短く息が漏れた。いつのまにか、息を詰めちゃっていたらしい。

「……なん、で」

 掠れた声にちいさく苦笑が漏れた。だって、こうなることは分かっていたし、分かっていたから、今日まで言わなかったんだ。
 ずっと避けていた視線を、親友に合わせる。
 カナタの引きつった顔に微笑みを返した。

「ごめんね、カナタ」
「……ッ、そういう、こと、じゃない! なんでって……!」
「俺には俺の理由がある」

 叫びかけたカナタの声に被さるように、少しだけ声を張って言い切った。
 カナタの瞳が揺らぐのを見てから、噛んで含めるように、もう一度ゆっくりと、言う。

「理由が、あるんだよ。カナタ」
「……全然、分かんない。だって、みんなは」

 みんなは、そうだ。他の守護聖はアンジュの庇護下のまま、生きると言った。

 俺だけだ。令梟の宇宙から離れて、神鳥の庇護下に入ることと選んだのは、俺だけ。

 最初はいいだろう。アンジュのサクリアがあるうちは、みんなのサクリアがあるうちは。でもきっと、それだって神鳥の――リモージュ陛下のサクリアの元だと、きっと些細な年月だ。
 俺は、いつか、みんなと違う時間を生きていくことになる。
 カナタとだって、そうだ。

「みんなはみんな、だから。俺じゃない」

 口を突いて出た音は、自分でも思ったより平坦で、あ、ちょっと不味いかもって思った。こういう声が出ちゃうとき、逆に上手く感情がセーブ出来ない時だ。

「だから、それが分かんないって言ってんだよ! ゼノ!」
「――カナタは」

 ああ、だめだ。本当はこんなこと、言いたくないのにな。

「人の考えを、自分の価値観の中で測りがちじゃない? そういうとこ、子供っぽいなってずっと思ってる」
「ゼノ」

 静かな声はユエ様だった。そこで、ああ、またやっちゃった、って思う。

 いいかげん子供じゃないのに。俺も、カナタも。いつまでたっても、こういうの、なくならない。

 カナタはあからさまに傷ついた顔をしていて、でも、言われるだけじゃなかった。そういうところが、カナタが愛されてきたところなんだろうな、って、思う。思うけど、こういうときは、ちょっと、しんどいな、とも、思った。

「――オレはゼノの、そうやって他の人はどうせ分かんないから、って、最初から説明を諦めるところ、ずっとどうかと思ってるから」
「……カナタ」

 名前を呼んで肩に手を掛けたシュリ様を振り払って、カナタは応接間を出て行く。

「シュリ」

 ヴァージル様がただ呼びかける。何をしろ、と言うわけでもなかったけれど、シュリ様は短く舌打ちして、カナタを追いかけるように出て行った。その姿を見送ってから、俺は全員に頭を下げて、その場をあとにした。

 ――アンジュはその場では、なにも、言わないでいてくれた。



 聖地の夜風が好きだ。特にこの時間の公園は人もいなくて、でも手入れされた噴水の規則正しい水音が響いていて、気持ちが良い。
 やわらかい風と、穏やかなスオウの光。
 アンジュの抱いた星々が散らばる空。
 目を閉じて、長い髪をすり抜けていく風を感じる。そのひとときを堪能する。

「ゼノ」

 静かな優しい声に目を開けた。
 スオウに照らされた噴水のしぶき。その向こうに、彼女が立っていた。

「アンジュ」
「隣、いい?」

 うん、と頷いて、椅子がわりにしていた噴水の台をかるく拭う。アンジュは黙ってそこに腰を下ろした。
 アンジュは何も言ってこなかった。静かな時間がただ風とともに流れていく。
 しばらくしてから、そっと、声が聞こえた。

「髪、結ってないんだね」
「あ、うん。お風呂上がりだったから」
「そっか。そうしてるゼノ、いつもよりちょっと大人っぽく見えるね」
「本当?」

 なんだか照れくさくて思わず頬をかいてしまう。アンジュはそんな俺を見て、少しだけ笑い声をたてた。

「前言撤回しようかなぁ」
「え、な、なんで?」
「ふふ。なんでだろうねぇ」

 楽しそうに笑うアンジュの横顔が、夜に縁取られている。その光景が、景色が、世界が、好きだなって、思う。
 だから俺もちょっとだけ笑って、すうっと息を吸った。ひと息で、告げる。

「ごめんね、って、言えなくて、ごめんね」

 アンジュが目を瞬いて俺を見た。夜の中で、そこだけからりとした青空がちかちかと反射する。すぐにそれは笑みの形で崩れた。

「ゼノ、さすがにそれはちょっと、変」
「うん、俺も、言ってからちょっとそう思った」
「だよね」

 あははは、とアンジュが声を上げて笑う。俺もつられて笑っていた。ひとしきりふたりで笑って、笑って、それからはぁーとアンジュが大きく息を吐いた。

「うん。私も。ごめんって、言わない」

 そう言って、空に挑むようにアンジュは視線をあげた。その瞳が、宇宙を抱いている。力強くて、美しい、俺たちの女王陛下。最期を決めた、俺たちの女王陛下。

 その細い手が、膝に置かれたまま強く握られていて微かに震えているのは、見ないふりをした。その手を握るのは、俺の役目じゃない。

「カナタとちゃんと仲直りしてね?」
「う……。はい……」
「ふふ。よろしくね、ゼノ」

 ――その、よろしく、に込められた意味が分からないほど、俺はもう子供じゃなかったし、俺たちはその意図を汲み取れない程度の関係でもなかった。

「うん。アンジュも、よろしくね」

 俺の言葉に、アンジュは静かに、うん、と頷いた。



 俺は俺の故郷を救えなかった。
 俺は彼女の宇宙も、救えなかった。
 そんな俺に出来ることは何だろうって考えて、考えて、俺は俺の行く末を決めたんだ。

 ぜったいに、アンジュより先に死ねなかった。
 ぜったいに、アンジュより先にサクリアがつきちゃだめだった。

 俺の故郷が、カナタの、アンジュの故郷が、みんなの故郷があった宇宙を、最期まで。最後の最後まで、見届けること。それがきっと、俺の使命だから。俺の役割だから。

 それが出来る道を、選んだ。

 ただ、それだけだった。それだけで、俺はこの先の、気の遠くなるような幾千年を生きることを、決めたんだ。





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