FINITE DANCE
その扉をくぐった瞬間「ちょうどいいところに来た」みたいな顔をしてロレンツォは微笑んだ。人が生まれて、そろそろ亡くなる人もいるくらいの年月ぶりだっていうのに、つい四時間前に会ったばかりのような、人をこき使うことを企む笑顔に、ミランは少しだけここに立ち寄ることにした自分の選択を呪った。
「仕事の話はあとにして、まずは久しぶりって言って、美味しいお茶を淹れてくれることをショモーする!」
所望、という言葉がこんなにあっさり口から出てくるのが我ながら面白かった。前の星でついてくれたマネージャーが「ご所望の品はこちらです」とか「ミラン様はどちらをご所望ですか」とか、とにかく「ご所望」と言ってくれてたのが残っていたらしい。マネージャーの前では「ショモーする!」なんて言ったことなかったのに。
「そう言われてみると『久しぶり』という挨拶はおそらく、成長や老化に基づく外見の変化が年月経過の実感となって初めて言葉になるのだろうね。君も私も外見に変化がない以上、その挨拶に実感は伴わないが、君のご所望とあれば言うにやぶさかではないよ。久しぶり、ミラン」
ロレンツォは、たまたま貰ったらしい花の香りのするお茶を淹れてくれたあと、香りが消えた星の話をしてくれた。
その星に降り立って、ミランは事の重大さを肌で理解した。香りがないことが、景色の奥行きにここまで影響を及ぼすのだと実感する。宙港で行き交う人々の表情もどことなく所在なげだった。
ロレンツォからもらったサクリアの澱みを可視化できるサングラスをかけて辺りを見回してみる。煙のように澱みは漂っていて、どこにも流れていく様子がない。
宙港から地上に降りる際、窓から地表をサングラス越しに観察してみると、澱みの中心と思われるエリアが見えた。窓のそばに備え付けてあるボタンを押すと、透明窓に見ているエリアの地名が浮かび上がる。澱みの中心があるのは首都らしかった。透明窓上に表示された街の名前をタップするとそこへの行き方と所要時間が表示される。それを見ていると、不意にフードを引っ張られた。振り向くと、赤ん坊が満面の笑みでこちらをみていた。
「やだこの子ったら、すみません」
赤ん坊を抱えた母親が恐縮そうに頭を下げてくる。
「気にしないで。フードが気になるのかな、元気な証拠だね」
サングラスを外してそう声をかけても、母親はすみません、と謝るばかりだ。よく見ると、疲れた顔をしている。
「……コンポンテキカイケツにならないから、本当はダメなんだけど」
ミランはそう小さく呟いて、手を赤子の頭上で一閃させる。すると、あたりに香りが立ち上がった。
「あれ〜? この匂い……おむつ替えたほうがいいかもね」
母親はハッと我に返ったように我が子のお尻を匂う。
「やだ! 本当ですね」
すみません、ありがとうございました、と言って母親は走り出す。去っていく母親の後ろ姿に、ミランはしばらく目を眇め、そしてまた、サングラスをかけた。
「これでよし。キレイキレイなったねぇ」
多目的トイレでオムツを替え終わった母親は、赤ん坊のお腹を撫でたところでふと気づく。
(臭い……?)
行儀が悪いとは知りつつも、替え終わった後のおむつをビニール越しに嗅いでみる。
「くさっ……くさい?」
赤子は機嫌良さそうに手足を動かしている。母親がそのお腹あたりにおそるおそる鼻を近づけると、甘やかな乳の匂いがした。
「赤ちゃんの、匂いだぁ……」
赤ん坊を抱き上げ、匂いを嗅ぎながら泣き続ける母親の声を「まもなく目的地に到着します」の自動音声が優しく隠した。
澱みの中心に向かって歩いていくミランの足取りはステップでも踏むように軽い。どうやら澱みの中心は大きな公園の中にあるらしかった。しばらく歩いているとどこからかオルゴールのような音が聞こえる。サクリアの澱みが濃い方へ足を進めるごとに、音も大きくなっていく。オルゴールの音が大きくなるにつれて、体の中にうねりが生まれてくるのを感じる。こういう曲は良い曲だとミランは知っていた。
「ねぇ、そのオルゴールの曲、なんていう曲?」
オルゴールを鳴らしていたのは青年だった。突然、ミランに話しかけられてどぎまぎしている。
「これは、友達の作った曲で……」
「そっか。僕これからその曲に合わせて踊るから、君の時間が許すまでそれ、鳴らしといて」
パサリ、と着ていたパーカーを脱いで、ミランは少しストレッチをした後、曲に合わせて踊りはじめた。
その踊りを、青年はなんと形容すればいいのか分からなかった。メディアで観たことのある、どんな踊りとも違う。けれど、彼の手足が空間を撫でて、時に切り裂いて、睦むように絡み合う度に、なぜだか懐かしくなって、涙がこぼれる。
何がこんなにも懐かしいのだろう。そう思いながら青年が何度目かの涙を拭ったとき、公園に、春の匂いが充満していたことに気づいた。
「その公園で出会った子がさ、たまたまオルゴールの職人で、なんと僕のオルゴールを作ってくれたんだ〜! すごくない? 音が鳴る間、僕がくるくる回るんだよ。しかも細かいところまで僕そっくり。これはここに置いていくから、たまに鳴らして僕を思い出すといいよ」
そう言って置いていくことにフェリクスは文句を言ってたけど、僕は知ってる。君がなんだかんだ言いながら、僕のオルゴールの埃を毎日律儀に払ってくれること。たとえば僕が先に死んだら、時々はオルゴールのぜんまいを回して、僕を思い出すこと。
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