青春のリミット
静かで、長い夜だった。このまま、永久に朝が来ないのではないか――実はこの世界はもう営みを終えているかもしれない、と錯覚しそうなほどに、長い夜だった。
都心の大きな交差点。道行く人々は皆、ランドマークである大きなビルのスクリーンが発する光を受けて、てらてらと脂ぎった顔を晒している。アルコールの力で気が大きくなってしまった若者の薄っぺらい会話を、信号の警告音がかき消した。
そんな都会の喧騒とは無縁の、閑散としたとある商店街の裏通り。二階建てのつつましい雑居ビルの地下一階に、その「探偵事務所」はあった。
蔦で覆われたビルの地上階、通りに面した壁にはハーブが植えられたプランターが並んでいた。ガーデニングと呼ぶには質素で無造作な緑に混ざって、立て看板が置かれている。『OPEN』とチョークで書かれたその看板の横に、ひっそりと地下に続く階段があった。
階段を降りた先に、歴史を感じる純喫茶の重厚な扉があって、『探偵事務所』とだけ記載されたプレートが貼り付けられている。
どう見ても怪しかった。あまりにも怪しすぎて、探偵を使ってみよっかな? などと考えるごく少数の物好きな依頼人候補の大部分は、その入口の風貌に慄いて踵を返す。
生き残ったうちの九割は、インターホンから聴こえる明らかにカタギではない、不機嫌そうな男の声に「間違えました」と言い遺して逃げていく。
かくして、この探偵事務所の客は少数精鋭。決まって遠慮がちに扉を開く彼らは、誰もが絶望的で最悪で、どうしようもなく追い詰められていた。
午前零時、八分前。前述のとおり、永遠とも思える夜だった。
四人の男女が革張りのソファに気だるげに座っていた。年季の入ったシーリングファンが淀んだ空気を一生懸命かき混ぜるが、彼らの間に流れるどんよりとした雰囲気は六時間前から変わらず、最悪なままだった。
そう、六時間。彼らはこの六時間、テーブルの真ん中に置かれたうさぎのぬいぐるみを真顔で取り囲んでいる。
『ぬいぐるみが勝手に動く』ことの証明と、そのぬいぐるみの処分――出来れば動かない状態に戻してほしい、という依頼を解決するため、事務所スタッフ総出で監視を行っている最中であった。
この空間の中で、人間以外に動いているものといえば、時計とシーリングファン、そして所長の机に置かれた水槽の魚達くらいだった。
流石に、今夜はもう無理じゃないか。零時過ぎそうだし。依頼人を含めた全員がそう考え、三つの針が重なる瞬間を捉えてやろうと、それとなく横目で時計を見ていた。
ゴーンという鐘の音が十二回。それに重なって、鳩時計がポッポ~と間抜けな鳴き声を上げた。
じゃ、今日はもう……誰ともなく口を開こうとしたその瞬間。
ぬいぐるみの首がぐるん! と廻った。
依頼人がぎゃあ! と悲鳴を上げて若い男のジャケットを掴む。
「ほらぁ! 先生、動きましたよ本当に動きました」
「ほんとだ。正直クスリやってんのかなって疑ってたから、動いてよかったよ」
「酷い!」
依頼人の訴えを無視して、先生と呼ばれた男――この探偵事務所の所長であるカナタは、向かいに座った助手に視線を送る。
「でもサクリアの気配、全然無いんだよね。シュリさんはどう?」
「無いな。レイナは」
「私も、何も感じません。あぁ、中に機械が入っているのでは? 音に反応して踊るぬいぐるみとか、あったじゃないですか」
「そういう玩具は知らないが」
シュリは立ち上がって腕を組み、テーブルの上を二足歩行で蠢いている依頼品を様々な角度から観察した。
(うさぎが立って歩く様もなかなか味があるじゃないか。そういえば、丁度良いサイズの木材が余っていたな?)
「サクリアが無関係なら俺達の仕事ではないな。少し動くくらいなら可愛いもんだろう。これからも大切にしてやれ。以上、解散」
「嫌ですよぉ! 先生、なんとかしてくださいよ!」
「いやいや、うさぎからめっちゃ黒いモヤモヤ出てるし。なんで皆スルーしてんの」
カナタの言葉に、シュリとレイナが顔を見合わせて首を傾げた。
「黒い、モヤ……だと? 見えん。わからん。頼んだぞ、センセー」
「すみません、所長。私、霊感だけはどうにも……」
レイナから差し出された「悪霊退散」と手書きされた小さなスプレーを受け取って、カナタはため息をついた。
「ミランさんだったら見えたんだろうなぁ……あ、一応息止めといてくださいねー」
プシュ、と予想通りの音を立てて、液体が噴射された。
まるで生花のブーケが舞いあがったような華やかで高級感のある香りと、断末魔の叫びが事務所に広がった。
***
「久々に長丁場でしたねぇ」
「ほんとに。二人とも、今日はお疲れ」
心底疲れた表情で、カナタが瓶入りのジンジャーエールを煽った。強炭酸と生姜の刺激で喉が開いていくような気がした。それでようやくカナタは大きくため息を吐きだした。
「今回もサクリアは関係無かったな」
「それはそれで良いことですが……若いお客様ばかりなのは、立地のせいかしら」
プランターから適当なハーブをちぎって淹れたハーブティを飲みながら、レイナは顧客リストを捲る。
「ううん……プロモーションも見直しましょうか」
レイナはその柳眉を顰めて、机に積まれていたチラシを一枚手に取り、先ほどのスプレーを吹きかける。液体が乾くころには、印刷されていた胡散臭い宣伝文句はきれいさっぱりと消えてしまった。
摩擦熱で消えるインクをヒントに「サクリアの歪に反応して色が浮き出る特色インク」を使用したものだが、オカルト的なものと波長が合ってしまうのか、チラシを手に訪れるのは霊障に悩む客ばかり。それ以外の依頼といえば、シュリに懐いた近所の子供達が持ち込む平和的事件がほとんどだった。
「あ~ごめん。それって、オレが学校に通いやすい場所、選んでもらったせいだよね」
気まずそうにカナタが手を合わせた。この商店街はキャンパスのすぐそばにあり、学生も多く住んでいる。客層もそれに倣うのは自然なことだった。
やりたいことをやればいい。――神鳥の宇宙への移転が決まったとき、そう言われたカナタが選んだのは「大学に行く」ことと「令梟の守護聖としての責任を取る」ことだった。
やりたいことをやれ、という言葉は裏を返せば「何もしなくていい」と同義だ。率直に、突き放された、とカナタは感じた。
それが自分に対する優しさであることが理解できないような子供ではなかったが、判りましたご配慮ありがとうございます、と受け入れられるほど、大人ではなかった。
自分にも、何か出ることをやらせてほしい――そう願ったカナタのために探偵事務所を設立したアンジュに対し、シュリは「護衛が必要だろう?」と自らを売り込んだ。
カナタが大学生兼所長で、シュリが助手兼護衛。どう考えても疎かになる事務作業全般を、レイナが請け負うこととなった。
「ていうかさ、なんで探偵?」
カナタの問いに、アンジュは「体は子供、頭脳は大人、みたいな感じでしょ、私たち」と笑った。
「ふーん。聖地で年取った分って体的にはノーカンでいいわけ?」
「そうだよ。だからカナタは十八歳だし、私は実質二十五歳なの。人生これからってところだよ」
たしかに、カナタは境界線に立っていた。大人と子供。神様と人。守るものと守られるもの。
アンジュの言葉を信じるなら自分はまだ成長期で、伸びしろがある。ということは、まだまだ未熟ということでもあって。
「ここからは大人って認めてもらえるってライン、誰かがぱっと決めてくれればいいのに。そしたらオレ、超頑張って飛び越えるんだけど」
思春期らしいもどかしさを吐き出せば、「貴方はまだ助走中です」などとヴァージルが窘める。
どこからともなく現れたロレンツォが「兄貴面して」と揶揄うと、ヴァージルは苦虫を噛み潰したような、はにかんだような、とにかく形容しがたい複雑な様相で舌打ちをした。
「精神が未成熟な若者は、時にヒステリックな思想を共有する集団になる。サクリアの淀みはそういったところに出来やすいと、あいつが言っていた。ハズレが多いなら、それは奴の責任だ。この店もあいつが決めたんだろう」
「選んだのはロレンツォさんだけど。タイラーとサイラスが一瞬使ってたんだよね」
おあつらえ向きに、このビルの一階は空きテナント、二階は居住エリアになっていて、そこでカナタとシュリはルームシェアをしていた。事務所も二階も、家具はあの二人が住んでいた時のままになっていたので、ありがたく使わせてもらっている。
「立地が良くても肝心の依頼が来ないんじゃ、オレはともかく二人は暇だよね」
カナタはシュリの付けている日報をパラパラと捲る。今月の稼働は僅かに五日。脱走した飼い猫の捕獲、肝試しに行ったら見事に呪われた学生、子供の喧嘩の仲裁、落とし物探し、動くぬいぐるみ。
「猫探してもらってる場合じゃないんだよなぁ。サイラスとタイラー、ここでまともに探偵やってたのかな・・・・・・」
「あいつらが何をしてたかは知らないが、俺に不満はないから、お前は遠慮せずに学校に行けばいい」
この仕事を始めてから、シュリはことあるごとに「好きにしろ」「気にするな」と言う。カナタはそれが不満だった。
過保護だと思うが、彼らの庇護無しで自力で生きられる、と自惚れることも出来ない。
ついでに、酒を飲んだシュリがしばしば過去の「相棒」の話をしてくるのも何故だか癪に障る。今のアンタの相棒はオレだろ、と言いたいが、どう見ても自分は「保護される側」から抜け出せていないので、その言葉はジンジャーエールと一緒に飲み込んでいる。
結局、シュリに霊感が無かったおかげで、今以上にお飾りの所長にならずに済んでいるだけだ。
除霊グッズを開発してくれたゼノに後でお礼のメールを送っとこ、と思いついて、カナタは気の抜けた炭酸を飲み干した。
空になった瓶を軽く水洗いして、ゴミ箱に放り込む。
「遠慮してんのは、シュリさんの方じゃん」
ガチャン、と思いのほか大きな音がしたから、ささやかな反論が相手に聴こえたかは判らなかった。
手を洗ったついでに水槽に水を補充して、ライトを消す。店じまいの掃除をしようと箒を取り出すと、シュリの声が背後から飛んでくる。
「明日はイッコマメなんだろ。掃除は明日やるから、さっさとシャワー浴びて歯磨いて寝ろ」
「ガキじゃないって……。まあでも、こんな時間か。二人ももう上がるんだよね?」
頷いた二人に、「じゃあシュリさん、レイナ送ってってね」と念を押して、ドアノブを回す。
三人分の「おやすみ」がぴったり重なる。カナタは無性に嬉しくなって、緩んだ顔を見られないよう、足早に階段を上がった。
レイナを送り届け、店に戻ったシュリが二階を見上げると、カナタの部屋にはまだ明かりが点いていた。
わざと足音を立てながら二階に上がる。控え目なノックを三回。返事はない。「入るからな」と宣言してドアを開くと、カナタは机に突っ伏していた。手にはペンを握ったまま、開いた本の上に顔を乗せ、気絶したように眠っている。
(そういえば課題がどうとか言っていたか。なら、律儀に依頼に付き合わずとも良かっただろうに)
死んだ魚の目でぬいぐるみを眺めていた姿が妙に可笑しく、思い出し笑いで鼻が鳴った。
「おい、こっちで寝ろ」
強く体をゆすると、カナタは怠そうに椅子から立ち上がり、その反動を活かしてどすんとベッドに倒れ込んだ。
ベッドの下で丸まっている薄手のブランケットを掛けてやり、幼子を寝かしつけるようにトントントン、と背中を叩く。
「こんな、懐かしいなんて思う資格は、ないんだろうが」
思わず緩んでしまった口元を引き締めて、戒めのように呟く。
自分はカナタから沢山のものを奪った。決して返すことができない、大事なものを。代わりになれるとも、埋めてやれるとも思っていない。だからせめて、これから彼が得ようとするものを守ってやりたかった。
「お前は目いっぱい楽しめ。青春とやらを」
んー、とくぐもった寝言が答える。シュリは満足そうに微笑んで、最後に頭を優しく撫でた。
寝息が安定したのを見届けて、ライトを常夜灯に切り替える。真っ暗のほうが良くない? と主張したカナタを、敵襲があった時に暗いと初動が遅れるから、と説き伏せた結果だ。
暖かいオレンジの光が照らす横顔は、不思議といつもより大人びて見えた。
怯えと怒りに全身を震わせていたあの頃から、精神的にも肉体的にも成長をしているのはわかっていた。
「いつまでも子供の枠に押し込めていられるわけないでしょう」とヴァージルからも釘を刺されている。
それでも、シュリにとってはカナタは「守るべき相手」だった。ダンプの子供たちと同じように。
左手の腕時計が、同意するように光を反射した。傷だらけの手から立ち昇るサクリアは蝋燭の炎のように頼りなく、薄らいでいる。自分が先に逝くのだろう。それも、わかっていることだった。
霧散していく命を繋ぎ止めるように、両の手を固く、握りこんだ。
「おやすみ」
小さな囁きを落として、シュリは静かに部屋の扉を閉めた。
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