願わくは風の下にて
ザッザッと雪を掻きわけて進む足音は静寂な雪原でメトロノームのように揃って行進を続けていく。
幾時間か歩き進めたところで、遅れる足音が出てきた。
背に大きな荷物を背負い、懸命に遅れを取り戻そうとついていく最年少の少年兵が、ようやく地面に腰を下ろせたのは更にその三時間後だった。
予定していた露営地にて、テントを張り食事の準備を事前に割り振られた担当者が進めていく。部隊長から特別参加している上層部教官などの上官達も、全体の様子を確認し合いながら適宜指導をする。
王立宇宙軍の雪中行軍演習一日目は、幸いにも安定した天候で無事に終了した。
暖かいテント内で食事にありつけると、一日雪原を歩き進めた疲れも和らいでいった。ひと時の休憩を挟み、少年兵が片付けにテントの外へ出る。
日中は厳しいばかりの一面の雪景色でしかなかった世界は、今は唄うような星々の天幕と、銀白色の雪で包まれた山々が荘厳な景色を作り上げている。
少年は思わず足を止めて、感嘆のため息を漏らした。冷たい空気が肺に入り痛いほどだったが、それでも故郷である主星では見ることが出来ない、素晴らしい景色に見惚れてしまう。
ふと物音が聞こえた気がして見渡す。上官達が休んでいるテントから柔らかそうな蜂蜜色の髪を揺らして一人の青年が出てきた。教官だ。
温和で丁寧な口調ながらも指導がスパルタで、人より遅れていた自分は当然優しい笑みでみっちりしごかれたばかりだった。
「教官? どうされましたか」
「ああ、少し走ろうかなと思いまして」
真顔でクエスチョンマークを顔に貼り付けている少年兵の様子がおかしかったのか、教官はそのやたら端正な顔を楽し気に綻ばせた。そうして、ゆっくりと山々に目をやる。
「ここは、昔を思い出すような懐かしい景色でしてね。景観の良い場所で走るのが好きなんです」
「お疲れではないのですか」
「疲れるほどの負荷はかかっていません」
爽やかに言い切られ、少年はまじまじと目の前の教官を上から下まで眺めてしまった。涼やかで品の良さを感じる、一見細身の体型。屈強な巨躯というわけではない。だけれど、もしかしてこの服の下は筋骨隆々なのだろうか。
「一緒に走りますか? もっと筋力をつけたほうがいいですよ」
「あ、い、いいえ、折角ですが自分は片付けがありますので!」
早口で捲し立てた自分を見てまた笑いながら、教官は彼に向かって近寄って来た。そうして今度は逆に教官がその紅水晶のような煌めきを宿した瞳で、少年を隈なく観察してくる。
「随分若く見えますね、年は?」
「十七です。王立宇宙軍には、昨年志願しました」
五年前のスーパーノヴァ事故で亡くなった父や兄の分も、と学校を辞めて志願したときは母に泣かれましたが、自分の家系は代々王立宇宙軍にこの身を捧げていますので。
そう真っ直ぐな瞳で続ける少年兵の言葉に、教官は視線を外し、ゆっくり天を仰いだ。
「そうですか、スーパーノヴァで……」
恒星の寿命が尽きる際、大爆発が起きることを指すスーパーノヴァ。
五年前、王立研究院が予測も出来ない程の異例のスピードで寿命を終えたある星の大爆発は、まだ人々の記憶に新しい。周辺に人が住んでいる星はなかったが、偶然近くを飛んでいた王立宇宙軍のスペースシャトルが爆発に巻き込まれ、宇宙の塵となった。
――箝口令が敷かれているらしいと、あらぬ噂が出ていることを入隊後に知ったが、それ以上は分からなかった。シャトルに乗っていた父と兄のことを思うと無念ではあるが、噂も別の宇宙との歪みだとかいや核兵器だとか信憑性のないものだった。
「五秒、後ろを向いてください」
いきなりの指示に、条件反射で教官に背を向けて直立不動の姿勢を取る。
ばさりという衣擦れの音と、カチリと僅かな金属の音が聞こえた。まるで銃の引き金を引いたようなその響きにびくりとなったが、冷静に数えた五秒が終わると、恐る恐る振り返る。
教官が、その長い睫毛を伏せて左手の中の小さな布を見つめていた。
先ほどまでと何か変だ、そうだ外套。自分達の軍の支給品とは違うデザインで目に留まっていた、教官の外套。五秒前まで羽織っていたはずのその外套が消え、教官の手にあるのは。
……外套が、小さくなっている?
「手を出して」
前へならえの体勢で思わず両手を前に出すと、くるりと手首を回転させられ上を向いた掌に、まるで人形の服のように小さくなった外套が軽く二つ折りにされて乗せられた。
「胸ポケットに入れておけば、いざというとき守ってくれますよ。ああでも、ハンカチ代わりにはしないで下さい。誤作動したら危ないので」
言われるがまま、上着の胸ポケットにしまう。なにがなんだかよくわからないままだ。もしかしたらこれは手品なのだろうか。
「俺の知る限り、宇宙一のエンジニア作成の防御システムが作動します。効果は保証しますよ」
「あの、どうして教官は自分にこれを? 防御システムとはなんですか……? その、自分が未熟だからでしょうか」
「身に付けている本人に危険が及ぶことを感知すると自動制御で守ってくれるシステムです。……まあ、訓練し甲斐があるなとは思いましたが」
そこで言葉を切ると、目を細めて懐かしむような顔をみせる。
「危険な任務が多いことを心配した上司が、仲間に頼んで作ってくれたものです。でも自分達の尻ぬぐいをするのに、自分は無傷でいても他の人間に被害が出たことを俺は恥じていました。そうは思っても、お仕えし敬愛する唯一の方ですから。その気持ちを無下にはしたくなくてずっとお守りとして持っていたんです。でも、俺より貴方の方がこれを必要とする家族がいるでしょう。母君を大切に」
静かに語る教官の後ろで、まるで涙が落ちるように星が線を描いて流れていった。
流れ星だ。誰かの願いを叶える一筋の星。
「それじゃあ、俺は走ってくるので。明日は四時起床ですよ、早く休むように」
そう言うが早いか、雪原を風のように走り去っていく。みるみる小さくなるその姿に、少年は従軍するずっと前、幼い頃に祖父から聞いた話を思い出した。
なんでも、別の宇宙で風の守護聖をされていた御仁が、王立宇宙軍に教官として在籍されることになったのだと。まだ若いが身体能力に優れ大変素晴らしい方だった、そう話していた。
風の守護聖だった御仁……?
もしかして、いやでもそんなはずはない。自分が祖父から聞いたのは、――――祖父が入隊したときの、思い出話なのだ。彼の教官から一番最初に教えを受けたんだとそんな誇らし気に笑っていた祖父の寝物語。
教官は確かにお若く見えるが、三十代といったところのはずだ。
上着の上から、胸ポケットを押さえる。強い風が吹き、巻き上げられた雪が白煙のように宙に舞うのを、何も言葉がでないままに少年はただ見つめていた。
少年が、教官が退役したらしいと聞いたのはそれからしばらく後のことだった。
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