しばし天より遠ざかり

 ノアが宮殿の廊下を歩いていると、反対側からロレンツォが歩いてくるのが見えた。
 名前を呼び合うと、まるでそこが令梟の聖殿の一角かのように思えて、胸がちくんと痛んだ。

「今日はどうしたの」
「報告だよ。令梟のサクリアによる悪影響が観測されたから、対応をジュリアス様に相談にね」

 緑あふれる庭園で、二人で腰を下ろしたガゼボの中は、時折暖かい風が流れる。
 ロレンツォが、明日の天気を話すのと似た口調で、令梟サクリアによる神鳥宇宙の天変地異の話をする。
 その歪さも気にならないほど、神鳥宇宙の聖地は安定していた。
 人生を賭けて守ってきたはずの自分の宇宙が崩れていく様は、今も目に焼き付いて離れないというのに。

「やっぱり聖地に近いほうが安定してるね。離れるほど、リモージュ陛下の御力が届きにくくなるから、色んなことが起きてる」
「……たとえば?」
「常夏の星に氷山が現れたとか、深い森に大きな地割れが起こったとか、他には……そうだね、風が吹かないとか」

 眠れない子供に絵本でも読み聞かせるかのように、ロレンツォはタブレットから浮かび上がった報告書のバーチャル画面をゆっくりとめくる。
 こちらの宇宙は本当に安定しているから、守護聖が動かずとも大抵は周りの人間が何とかする。大変なことが起きても、さほど間を置かず解決する。我々の出る幕はない。
 そういったことを、遠回しに諭されている。ノアはそう感じ取った。
 けれど、そこで人が死んでいるかもしれない。
 宇宙規模で見れば、一回の災害で人が百人死んでも、大した影響はない。それは長年守護聖を務めてきたのだから理解できる。
 でも、その原因が自分のサクリアにあるかもしれない。もしかして、誰にも気付かれないまま、眠るように死んでいるかも。

「思い詰める必要はないんだよ。私たちにできることは実際もうほとんどないんだ」

 言われて、ノアは俯いたまま目だけをロレンツォに向けた。

「私たちに与えられた使命は霧散した。やるべきことがないなら、何をしてもいい。時間は無限にある。何度か言っているけれど、これから先は余生なんだよ。途方もなく永い、ね。」


 年の割に幼さが残る元同僚の頭をぽんぽんと叩き、ロレンツォはジュリアスの執務室へと足を向けた。
 聖殿の廊下をゆっくりと歩きながら、先ほどのノアの様子を反芻する。
 ノアには通じただろうか。もう自由に生きていいのだ、と。
 令梟の聖地にいた頃からノアには希死念慮がまとわりついていた。正確には、聖地に上がる前からだろう。それを、使命という鎖で縛りつけていたにすぎなかった。その鎖がなくなった今、彼に自由に生きろというのは、つまり。

「こんな伝え方をしたと知ったら、君は怒るだろうな」

 小さく呟いて、ロレンツォは一人苦笑した。
 好きに生きていいというのは事実であり、本心だ。けれど、ノアが今まで背負ってきたものはあまりにも重い。
 もうすべて手放してよいのだと誰かが言ったところで、ノアは聞き入れないだろう。
 失ったもの、守れなかったもの、零れ落ちたもの……数えきれないほどのものを失くしてきたというのに、ノアにはたくさんの思い出と、途方もない力がまだ残っている。
 これからどのような生き方をするはノアが決めることだけれど。

「彼の場合、生き方というよりも……命の使い方、という方が正しいかもしれないな」


 ロレンツォの背中を見送ってから、ノアはガゼボの天井を見上げた。
 「何をしてもいい」さきほどのロレンツォの声が頭をぐるぐると回る。
 「時間は無限にある」サクリアがこの身に残る以上、どうしようもない事実だ。
 「これから先は余生」そう、サクリアが尽きるまでは永遠に続く余生。
 故郷の宇宙を離れる前に、サイラスが話していたことを思い出す。
 令梟の宇宙でノアが守護聖として力を使うと、そのサクリアは令梟宇宙に放たれ、――巡り巡ってノアの元に還ってくるケースも多かったが――その地や人、宙に還元されてきたということ。
 しかし、それが別宇宙では、令梟のサクリアは還元されることなく時間と共に塵となり消えていくということ。
 守護聖に加護を与えるアンジュの女王のサクリアが消失するか、各守護聖の持つサクリアが消失するか、どちらかのタイミングが訪れた時、ようやくただびとに戻るのだということ。
 サクリアが消えるまでの、永い永い「余生」を、充実したものにして欲しいということ。
 「何をするか、どのように生きるか。あなただけの人生を探してください」とウィンクまでされたことを思い出して、ノアは目を閉じた。
 本当に何をしてもいいなら、もう終わりにしたい。
 守るものも、やるべきこともなくなったのに、自分の力のせいで困ったことは遠くのどこかで起きている。
 それなら、最後はこの力を自分を終わらせるために使ってもいいんじゃないか。そう、せめて誰かの役に立つ、やらなくてもいい自己満足を思う存分やって。

 一筋の光を見つけたノアはすっくと立ち上がり、ロレンツォが向かったのとは別の執務室へと向かった。

***

「おいノア! なんだよ今の」

 ノアがクラヴィスの執務室を出たところで、先客だったユエに捕まった。

「何って……クラヴィス様に話した通りだよ。やりたいことができたから、ここを離れるってだけ」
「お前がそんなアクティブなの、異常事態に決まってるだろ」

 クラヴィスには、今までの恩に対する礼と、やりたいことを見つけたという話をした。
 この宇宙の優しい闇の守護聖は、ノアの話をじっと聞き、残念そうに「決めたのだな」と言った。ノアが「はい」と答えると、目を閉じて頷いた。
 いつかこうなりたかった。もう決して叶うことはないけれど。最後に憧れの人に送り出してもらえて良かった。
 そう思っていたのに、部屋の外でユエにキャンキャンと絡まれて、心底がっかりした。

「大体察しはついてんだぞ。長年の付き合いってやつだからな」
「そう。じゃアンジュには伝えておいてよね」
「は? お前が行くなら俺も行く」

 さもそれが当たり前のように、ユエは親指で自分自身を指した。

「え……帰ってくる予定、ないけど……」
「分かってる」

 最期を迎える時は独りだと思っていた。そばに誰かがいてくれるなんて、思いもしなかった。いや、少しだけ期待した。ユエのお節介は筋金入りだから。
 ふ、とノアが鼻で笑ったのを聞いて、ユエは心底嬉しそうに頷いた。


 ノアが最初に選んだ星は、人々が眠れない星だった。
 星そのものは正常に動いているように見えたが、精密な観測結果によると、民は原因不明の不眠に苦しんでいるとのことだった。
 高速艇から降りてその地に足を下ろすなり、ノアは息苦しさと眩暈に襲われた。

「……ジュリアス様のサクリアが強すぎる」
「お前それは言葉が足りなさすぎるぞ。ジュリアス様のサクリアは正常だ。これは……お前のサクリアがここに流れ込んだのを、ジュリアス様のサクリアが散らそうとして、一時的に力が強くなってるんだな」
「そう。僕の責任」
「それも言葉が足りねえ。『俺たちの』責任だ」

 二人で小さな町の様子を視察したところ、通りの人出はかなり少なかった。多くの人が家の中にいるようだ。
 窓から見える屋内の様子では、大人は顔色が悪く、小さな子供はぐったりとしていた。
 サクリアの状況から、数日もすれば自然と解消する現象だろうと見受けられたが、人々の様子を目の当たりにしてから放っておくことなどできない。ノアがそう思った瞬間、不意に路地から青年が現れ、ノアの肩を掴んだ。

「あんたら、そうあんた達だよ! 身分が良さそうじゃないか! 助けてくれ!」
「え、」
「俺の母親が! もうずっと病気で……!」

 ユエが青年の手を剝がそうとしたのをノアは制止し、青年に話を続けさせた。

「もうすぐ星になるんだろうってくらい具合が悪いのに、眠れないんだ……頼むよ……助けてくれ……眠らせてやりたいんだ……」

 青年本人も目の下のクマは色濃く、疲労感が全身を包んでいた。それでも母親の安らぎを求めて、ノアの袖を離さない。
 その様子に、ノアは思わず自分の指輪を抜き取った。
 守護聖になったいつかのあの日からずっと、ノアと共にあったその指輪。それがハンカチに包まれて、ノアの手から青年の手に渡された。

「どうしても見ていられなくなったら、この指輪をお母さんにつけてあげて。間違ってもあなたがつけちゃダメだからね」

 指輪を渡された青年は、深く深く頭を下げて、飛び出してきた路地を走って戻っていった。
 良かったのか、と問うかどうか、ユエは少し迷って、何も言わずにおいた。
 この行為の結果がどうなろうとも、何かあれば自分が解決に向かえばいい。そう思ったから。

 先ほどの町を見下ろせる小高い丘に登り、ノアは祈るように指を組み合わせ、サクリアを放った。
 力を放出し、よどみを流し、難しいコントロールに神経を削り、宇宙に自分自身を溶かしていく。人々が安らぎに包まれて眠れるように。
 やがて空気を圧迫していた光のサクリアが和らいだのを見届けて、ノアはその場に倒れこんだ。

「ノア!」

 数歩後ろにいたユエが駆け寄り、ノアを抱き起こす。

「…………まだ、死なない、んだ……」
「何言って……まさか」

 ユエに怒られる気配を感じ、ノアはユエの腕の中で目を逸らした。

「怪しいと思ってたんだ。お前にしては意欲的すぎるって……けどまさか本当にこんな……」
「こんな……緩やかな自殺みたいなこと、すると思わなかった?」
「!」

 ユエの腕を支えにして、ノアはよろよろと立ち上がった。

「本望、なんだよ。自分の力を、誰かのために、目一杯使えるなんて」
「ノア……」
「僕は、やっと終わることができる」

 ふう、と深く吐かれた息は白くなって闇に溶けていく。
 星の光がノアの瞳に映る。頬は赤みを帯び、ユエが長年見てきたどの横顔よりも生気があった。

「まあ……幸か不幸か、まだまだ力はあるみたいだけどね」

 ノアは残念そうに小さく呟いた。

「それより、まだついてくる気? 一度戻るとか」
「お前を独りにはしない」

 相棒の即答に、ノアは苦笑した。困ったように、けれど生き生きと。

「好きにしたら」

 二人の旅は、この後数年続く。





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