旅路の向こうに
朝が来た。
頬にあたる冷たい陽の光に揺り起こされて、ユエはゆっくりと瞼を押し上げた。
ふあぁ、と大きな欠伸をして伸びをする。それから寝袋を這い出した。短い休息を取るつもりだったのだが、どうやら疲れて眠ってしまったらしい。
神鳥の女王から賜った寝袋は羽根のように軽く暖かく、風雨をしのげるほどに強く、しかも折りたためば驚くほど小さくなる。野宿の心強い相棒だった。
水と固形物を口にしてから、山道を少し歩いて、景色がよく見える場所に移動する。頭上に広がる空には紫がかった雲が流れていた。朝焼けが夜に溶け込んで、世界を深く穏やかに飲み込んでいく。
息を飲むような美しい夜明けを、人々はどんな表情で迎えているのだろうか。
この星に朝が来たのは、約半年ぶりのことだった。
長すぎる夜をもたらしたのは、闇のサクリアの異常だった。ただし神鳥の守護聖ではなく――令梟の守護聖のそれの。
「闇のサクリアが多すぎる?」
神鳥の王立研究院で、主任研究員としての任に戻ったサイラスは、ユエにディスプレイの数値を示した。
「はい。いつまで経っても朝が来ず、民が困り果てている、とまあそんな状況です。ご覧下さい」
拡大された箇所を、ユエは今にもホロに頭を突っ込みそうな勢いで凝視した。
「そんなに近づいては、逆に見にくいんじゃないでしょうか」
ささやかな助言は耳に入らなかったようだ。前のめりの姿勢のまま、ユエはぼそりと呟いた。
「これは……クラヴィス様の力じゃねえな」
「ワーパチパチパチ、といったところでしょうか。ご明察です」
切れ長の目がさらに細くなるが、笑ってはいなかった。
「神鳥と令梟の闇のサクリアが混在している、ってわけか?」
「つまりはそういうわけですね。令梟の……元女王が自らの宇宙を神鳥の宇宙に吸収合併させた際に、サクリアの混濁が発生した模様です。長い年月を経て、それが顕在化したと」
「だが、令梟の闇のサクリアは」
「主を失っている。なので、あなた様をお呼びしたのです。対の守護聖であったユエ様なら、どうにかできるかと思いまして」
「おいおい、ずいぶん大雑把じゃねえか。それ、王立研究院の分析の結果なんだろうな」
「いえ、言うなれば私の勘です。……信じてないというお顔をされてますね。思い切り」
「そりゃそうだろ」
サイラスは唇の端を引き上げた。
「さらに正確に申し上げれば、私の勘というよりはこちらの意思という方が近いでしょうか。手、お借りできますか」
「手?」
「おっと、握手じゃありませんよ」
言って、渋々という様子で広げられたユエの掌にそれを転がした。くすんだ色合いの、古い銀の指輪だった。
「おや、勘なるものを信じておられなかったはずでは? まあ、いいでしょう。ご存じの通り、私はあなた方のように特別な力は持っていません。ですが」
言葉を失ったユエを前にしても、飄々としたサイラスの態度は変わらない。彼は、事務的で、しかしどこか懐かしさを感じる声音で告げた。
「あなたと旅がしたい。そう言っているように聞こえるんですよね」
昔々あるところに、梟の名を戴く宇宙がありました。その宇宙は滅びつつありました。新しく即位した女王さまは、ご自身の命を削り、星々にサクリアを与え、時を操りましたが、宇宙のほころびは大きくなっていくばかり。
これは定められた運命なのだと、宇宙の梟はいいました。女王さまは泣きました。
泣いて泣いて、それから泣くのをやめて、神鳥の名を戴く宇宙の女王さまにお願いしました。
私の宇宙を助けてください、と。
二人の女王さまたちは遠い場所にいましたが、お互いの手をしっかりと握りあいました。
翼あるものの名を戴いた二つの宇宙がひとつになるとき、宇宙の境を中心にして目のくらむような巨大な光の渦が現れました。
それはまるで、今まさに失われつつある宇宙が、大きな光の翼に抱かれているように見えたということです。
ユエは、獣のにおいのする分厚い上着のうえから、胸のあたりに触れた。
光の守護聖であるジュリアスから渡された金のブローチが、無骨な衣類の下に押し込められてもなお、眩しい輝きを放っていた。
その隣に寄り添うように、同色のチェーンにぶら下がっている、冷たくて小さくて固いもの。
あいつみたいだな、と苦笑する。
銀の指輪は、ユエのどの指にもぴったりと嵌まることはなかった。
サイラスと別れた後、正式に神鳥の女王の下命を受けたユエは、すぐさま問題の星に飛んだ。そこで、迷い子となった闇のサクリアが、サイラスから渡されたこの指輪に集まることに気づいたのだ。
サクリアの反応が最も強く出ていたのは、山間にひっそりと置かれた女王像の付近だった。
ユエが指輪を差し出すと、暴力的なまでに重く厚く、世界のすべてを支配しているように見えた夜の闇は、自らに課された使命に疲れ果てたかのように、かつての光の守護聖と呼ばれていた男の掌に抗うことなく滑り落ちてきた。
かつて、不眠に苦しむ民のためにノアは自らの指輪を手放したが、何の因果か、人々の手を巡ってユエの元へと戻ってきた。
一仕事終えたあとに少しだけ休むつもりがぐっすりと寝入ってしまったのも、ノアの力に引きずられたせいかもしれない。
ノア。
その名を思うだけで、胸が音もなく軋みをあげる。令梟という名で呼ばれていた宇宙が消失し、彼らが守護聖と呼ばれなくなって、サクリアを身に宿しているがゆえに人間でもない中途半端な存在になってしまった後も、ユエの背中越しにはいつも彼がいた。
そして、彼がいた場所は今も空いたままだ。今も、これからも。たとえその輪郭が、声音が、共に過ごした記憶が、時の流れの彼方に失われてしまったとしても。
ノアの指輪がどういった経由でサイラスの手元に渡ったのか、王立研究院の主任職員は理由を語ることはなかったし、ユエもあえて聞こうとはしなかった。
ここに指輪があり、指輪によって夜を取り戻した星がある。大切なのはその事実だ。
ユエはもう一度顔を上げ、夜と朝が溶け合う空を眺めた。
朝が来る、夜が終わる。
それはつまり、ユエにとって新たな別れの到来を意味した。
懐かしい気配の名残が徐々に空から消えていくのを感じながら、もう一度、胸元を手袋をはめた手でぐっと握りしめる。
指輪とブローチがかちりと触れ合う鈍い音がして、硬い感触が布越しに肌に食い込む。
痛えな、と思う。
俺はまだ生きている、とも思う。
新しい一日の誕生を祝福するように、緑のにおいを含んだ清々しい風が金の髪に触れていった。身体に残された光のサクリアが、喜びに震えているようだった。
生まれたばかりの光の目映さに目を細め、ユエは腹の底から白い息を吐いた。
息を吐ききってしまうと、今度は故郷を思わせる冷たく静かな空気が、ゆっくりと喉に入り込んでくる。
「……きれいだな」
朝が来たのだ。
一覧に戻る