鳥籠
最近、男は妖精と二人暮らしを始めた。本当に妖精かと問われると自信はない。そう彼は答えた。何せ、彼には妖精の姿が見えない。
久々に訪れた裏路地の市場で、彼が「日々の生活に困らない程度に金を持っている無職独身」と知っている商人に無理やり押し付けられたのがきっかけだった。
「幸福の妖精だとか。今までの持ち主はみな、大願を成就させたって話ですよ」と見せられたアンティーク調の鳥籠は、その売り文句の胡散臭さを補強するように、幾重もの純白のレースで覆われていた。
「だったら君が持っていればいいだろう」
「そりゃあそうなんですけどね……聞いたことのない言葉を喋るから、気味が悪いってもんで」
商人はわざとらしく声を潜めて、強引に鳥籠を手渡した。
鋼製の檻は冷たく、華奢な見た目に反してずっしりと重い。
意匠を凝らした工芸品の対価だと思えば、商人が提示した金額ははした金だった。
書斎の机に鳥籠を置いて小窓を開ける。
吹き込んだ風が目隠しのレースを小さく揺らした。たっぷりと重ねられた繊細なレースは花嫁の纏う純白のヴェールか、姫君の閨の天蓋か。ともかく、おいそれと触れるのは憚られた。
このままふわりと捲り上げてくれないものか。しばらく遠巻きに眺めていたが、今日の風は花嫁の秘密を暴く勇気はないらしい。
「そういえば世話の仕方とか、何も聞かなかったな。こいつ、何食べるんだ？」
おおかた他言語を仕込まれた鳥だろう。とりあえず水を、とキッチンに向かう彼の耳元で、何かが囀った。
『いらない。そのかわりに――』
ぎょっとして振り返ると、いつの間にか鳥籠の扉が開いて、レースの覆いも捲れあがっている。
右肩に気配があった。反射的に手で振り払うが、感触はない。頬の近くを何かが素早く横切ったような空気の流れを感じた。
視認すらできないそれを捕まえることを早々に諦めた男は、引き出しから翻訳機を取り出した。よく似た言語体系の星があったな、と独り言を言いながらデバイスを調整する。
「あー。えーと、妖精？ 本当に？」
たどたどしい言葉で、彼は虚空に話しかけた。ややあって、答えが返ってくる。
『nｓｄｆ；：＠ｇ』
音だと認識はできるが、言語として検知できない。男が無反応になると、それはまた別の言語で言葉を発した。
『あ……な、たの望みは?』
それ以来、男はこの妖精と暮らしていた。妖精本人から妖精だという宣言がないので、呼び名は便宜上の仮称だ。
確かに、望みが叶うようになった。といっても、大したものではない。
いつも固くて難儀する瓶の蓋が簡単に開けられたとか、酒が無くても眠れるようになったとか。ごくごく些細な幸運が舞い込んだ。
それでも妖精は彼に問いかける。『本当の望みは？』と。
「特にない」
そう答えると、不満そうにレースの覆いをバタバタと揺らした。
「楽園から逃げ出したんだ。望みなんてとっくに捨てたさ」
男は決まって、天を見上げてそう言った。
一人と一匹の生活はしばらく続いた。
ものは試しと手を出したギャンブルが散々な結果に終わったところで、この妖精について、男は一つの確信を得た。
＊＊＊
男は古都と呼ばれる歴史ある街を歩いている。以前職場で聞いた、「不思議を集める」「探し物が見つかる」、そんな謳い文句の店に向かっていた。
先に「怪異専門の探偵事務所」を訪ねたが、もぬけの殻だった。移転しました、という張り紙にぶら下がっていたのがこの店と思わしきショップカードだった。
人通りも生活の匂いもない閑散とした街並みを、大雑把な地図を頼りに歩き続ける。
道が判らなくなったときは、妖精が騒ぐほうへ進めばよかった。小一時間彷徨って、いい加減腕と足が悲鳴を上げ始めたころ、古めかしい建物が立ち並ぶ裏路地に辿り着いた。
色褪せた屋根、蔦に侵食された壁。壁だけでは飽き足らず、街路樹までをも蔦が飲み込みかけている。
――まるで、ある一点で歴史が止まってしまったような。
うすら寒くなり、男は鳥籠を両の腕に抱きしめて足を進める。袋小路の最奥に、目的の店はひっそりと存在していた。
目印らしき梟のドアチャイムも地図と一致している。元々店として建てられたわけではないようで、ショウウィンドウも覗き窓もなければ看板すらもなく、中の様子を伺い知ることはできない。
重厚な木製のドアについたランプが灯っているから「営業中」ということだろう。そもそも店かどうかも確信はないが。早く入れと言わんばかりに鳥籠が激しく揺れる。
恐る恐るドアノブに触れた。扉が開く気配はない。今度はドアノブを軽く押し下げる。モーター音は聞こえない。まさか、未だに完全手動の扉が残っているとは！
重たい上に建て付けが悪いのか、手の力だけではそうそう進まない。体重を預けるように押し開けた。
たかが扉一枚に苦戦する男を嘲笑うように、カランカランと能天気に梟が鳴いた。
「こんにちは」
どこかから凛とした女性の声が聞こえた。窓のない店内は薄暗く、いくつかのランプが淡い光を放っているだけで、声の主の姿は見えない。
男は暗順応を待って店内を進む。カウンターから姿を現した女性の顔を見て、息を飲んだ。
会釈をした彼女の髪がふわりとそよいだ。柔らかな桃色。その奥の蒼い瞳。見覚えがある。いや、きっと他人の空似だ。あるいは子孫。もしくは幻覚。
「いらっしゃい」
思考を巡らせていると、突然、真後ろから声がかけられた。あの重い扉が音もなく開いている。差し込んだ陽の光を後光のように背負った男性は、驚きで声も出せない客から鳥籠を取り上げた。
逃がさないよ、と言わんばかりに。
「どうしてここへ？」
カウンターに鳥籠を置き、男性が――この店の店主が尋ねる。空気を震わせる、低く深い声だった。
「もっと行くべきことがあっただろう？ だって君は――」
全てを詳らかにせよと紫の瞳が迫る。男が観念して口を開こうとしたところで、「ダメですよ」と女性が店主を軽く小突いた。
「ごめんなさい。この人、いつもこうなんです。何でもかんでも根掘り葉掘りして。悪い癖」
「おや、心外だな。暴くのは君の」
「黙ってください。それで、どうされたんですか？」
女性が店主を一睨みして黙らせる。店主は満更でもなさそうに口の端を歪めてから、客の男に向き直った。
男は妖精との一部始終を語った。この妖精が、おそらく、行き場を失ったサクリアの集合体であること。以前「不思議な店がある」と聞いてきたということも。
「サクリアは人々の希求に呼応するもの。だから、これは持ち主の望みを聞き叶えようとするのだろう、と」
「そこまで判っているのなら」
長い指が滑らかな手つきで閂を外す。檻から解き放たれたそれは、空を切って店の中を、正確に言うと、店主の隣に立つ女性の周囲を飛び回る。彼女は虚空に手のひらを差し出し、そこにいるであろう妖精と何かを喋っている。
「これで適当な論文を出して、王立研究院に戻ればいい」
「……私のこと、ご存じだったのですね」
勿論、と彼が頷いた。
「聖地にいた研究員の顔と名前は憶えている。みな、大事なパートナーだからね」
コーヒーを差し出して、店主はウィンクを飛ばした。
「恐れ入ります……お二人にお目通りが叶うとは思ってもおらず、大変失礼を」
「今の私たちはあなたに傅かれるような立場ではありませんよ」
顔を上げて、と微笑む女性は玉座にいたころの姿と何ら変わりがなかった。男が出奔する以前に聖地から降りているはずなのに。男の瞳が不安げに揺れる。
「陛下……いえ、アンジュ様、ロレンツォ様。貴方達は、ここで一体、何を」
＊＊＊
「長い神鳥の歴史において、宇宙の移動というのはそう珍しくはない」
店主が空になったカップに新たなコーヒーを注ぎ足した。実際、現在の宇宙も、現女王の就任時に生み出された新しい宇宙である。
「だが、元々ある宇宙に別の宇宙を統合させる、というのは例を見ない試みだった」
温めたミルクを注ぐ。漆黒と乳白色が拡散して混ざり合った。
「リスク検証には君も携わったね」
「はい。最も危険視されていた移動時の重力干渉ですが、亜空間を一時的に利用することで解消しました」
カップを受け取った男はシュガーポットから星型の砂糖を取り出して、薄茶色の液体に落とした。深煎りの苦みにもう少し甘さが欲しくなり、更に一粒放り込む。
「皆さんの尽力で、諸々の懸念はほぼ解消しました。ですが、私達のサクリアだけは」
優れた研究者でもあった女王補佐官が、シミュレーションを行った。だが、何百回の試行でもその結果は覆らない。
――彼らはその身に宿すサクリアが消えるまで、何百年、何千年と生き続けるだろう。人の身でありながら。
男が冷めきったカップを煽る。冷えて析出した砂糖が舌に残って、ジャリ、と嫌な音を立てた。
「私達のサクリアは徐々に拡散して消えるはずですが、その過程でこちらのサクリアと反発したり、局地的に飽和してしまうことが判りました。サクリアの生み出す歪みによって、様々なトラブルが起き始めています」
いつのまに戻ってきていたのか、妖精が自己主張のように鳥籠を揺らす。
「あなたみたいな可愛らしいトラブルで済めばいいんだけどね」
「ここはサクリアが起こす様々な事象を調査・研究するためのラボだ。ごく小規模な、彼女の私設機関ということになっているから、君達が知らなかったのも無理はない」
あ、と男が声を上げて、上着からショップカードを取り出した。
「これが貼ってあった探偵事務所って……」
「ええ。カナタとシュリの担当です。運営管理はレイナに任せてるけど。ユエとノアはジュリアス様達のところに」
「ゼノはこちらの王立研究院にいるよ。ヴァージルは軍に招かれていたね。あまり、乗り気じゃなさそうに見えたけど」
「では、ミラン様とフェリクス様はこちらに？」
「いや。彼らはサクリアの対処をしながらそれぞれ旅をしているよ。まあ、みなそれなりに生きているよ」
「……てっきり自由な暮らしをされているものと思っていたのに、まさか、こんな」
頭を抱えた彼を見て、店主達は顔を見合わせた後、にこりと笑みを浮かべた。
「ということならね、君。古巣に戻る気はないね？ だったら、うちの外部調査員にならない？ 定期的に調査報告書を送ってくれるだけで構わないから」
「お給料は前職基本給の七割プラス成功報酬でどうでしょう？」
元女王と守護聖からの畳みかけるようなスカウトに圧倒され、男は頷くより他なかった。
期せずして、男は再就職先を得た。そればかりか、「満足したらそのうち霧散するだろう」と悪霊のように言われた妖精との共同生活も続くことになった。
「え。これ、回収してくれないんですか？」
「本人に離れる気が無いなら仕方ないだろう」
「サクリアの歪もその子が教えてくれるでしょう。ただ、ずっと鳥籠の中にいるのは嫌だって」
いや、お前勝手に出て来てるだろ、とボヤきながら、入り口の扉に手をかける。扉はあっさりと開いた。
カラン。茜色に染まる静寂の街に、軽やかなチャイムの音が響いた。
『望みはみつかった？』
「そういえば、そんな店だったか」
顔の周りをヒュンヒュンと飛び回る風切り音が耳障りで、男は顔を顰める。
「お前、本当に消えるのか」
『多分……そのうち』
「そのうち、って」
悠久の時を生きる彼らの「そのうち」がどれほどのものか。
「まあ、ほどほどなところで成仏してくれ。それが当面の望み」
彼の答えに満足したのか、飛び回りつかれたのか。キィ、と小さな音を立てて鳥籠の扉が閉まった。
ふと来た道を振り返ると、ゆるやかに迫る暗闇が彼らの店を飲み込み始めていた。
「……せっかく檻から出られたのに、また戻るなんてな」
思わず零れた独り言をかき消すように、男は小さくため息を吐く。
店先の仄かな灯りが消えるのを遠目に見届けて、男と妖精は再び家路についた。
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